このページでは、山崎氏(宇多源氏・扶義流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
山崎氏(備中国成羽藩主)の略系図
1 憲家→山崎憲家~片家の系図
13 家盛→山崎家盛~義方・俊家・治頼の系図
17 尭治→山崎尭治~義苗の系図
22 義徳→山崎義徳~治敏の系図
山崎憲家~片家の系図
山崎憲家(のりいえ)【1123-1206】
山崎氏の祖。相模国山崎に住み、後に近江国犬上郡山崎に住んだという。
山崎定家(さだいえ)【1172-1221】
山崎広家(ひろいえ)
山崎重家(しげいえ)
山崎右家(すけいえ)(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
山崎祐家(すけいえ)
山崎長康(ながやす)
山崎康家(やすいえ)
山崎氏定(うじさだ)
山崎重家(しげいえ)
41歳で亡くなった。
子 七郎左衛門(『山崎家譜(備中成羽)』による。)
子の夫 長原弥左衛門(『山崎家譜(備中成羽)』による。)
山崎宗家(むねいえ)【1514-1568】
子 金内・小十郎(『山崎家譜(備中成羽)』による。)
子の夫 後藤左兵衛尉(『山崎家譜(備中成羽)』による。)
山崎片家(かたいえ)/堅家(かたいえ)/秀家(ひでいえ)【1547-1591】
織田信長・豊臣秀吉に従った。
子 家盛・孫 家治→山崎家盛~義方・俊家・治頼の系図
子 郷高〔養父:本庄秀国〕
子 宮城頼久〔養父:宮城豊盛〕→宮城頼久の系図
子 百助〔養父:加藤清正(→加藤清正の系図)〕
子 長兵衛(『山崎家譜(備中成羽)』による。)
子の夫 加藤清正→加藤清正の系図
子の夫 別所吉治→別所吉治の系図
山崎家盛~義方・俊家・治頼の系図
山崎家盛(いえもり)【1567-1614】
因幡国若桜藩主。関ケ原の戦いでは西軍につき、後に徳川家康に仕えた。
祖父 宗家・父 片家→山崎憲家~片家の系図
妻 池田信輝の娘【1567-1614】
妻の父 池田信輝→池田恒利・信輝の系図
子 久家(ひさいえ)【1597-1615】
子 家長〔養父:赤田左兵衛〕(『山崎家譜(備中成羽)』による。)
子 家正・権兵衛(『山崎家譜(備中成羽)』による。)
山崎家治(いえはる)【1594-1648】
若桜藩主・備中国成羽藩主・肥後国富岡藩主・讃岐国丸亀藩主。
妻 池田長吉の娘
実は池田長政(→池田恒利・信輝の系図)の娘。
妻の父 池田長吉→池田長吉~長常・高島長親~千次郎の系図
子の夫 高力政房(『山崎家譜(備中成羽)』による。)→高力政房の系図
妻 木下勝俊の娘
妻の父 木下勝俊→木下勝俊の系図
子の夫 藪嗣孝→藪嗣良~嗣義の系図
子 勝政(かつまさ)【1641-1649】
子 家治の娘(以下、『山崎家譜(備中成羽)』による。)
半井宇庵に嫁いだ。
子の夫 山崎常家(『山崎家譜(備中成羽)』による。)
山崎豊治(とよはる)/豊家(とよいえ)【1619-1700】
妻 毛利千菊
毛利秀元(→毛利元清・秀元の系図)の娘。
子 常治(つねはる)【1660-1675】
子 市十郎(『山崎家譜(備中成羽)』による。)
山崎義方(よしかた)/敏治(としはる)【1667-1708】
妻 市橋政信の娘
妻の父 市橋政信→市橋長利~直方の系図
子 尭治・孫 信盛→山崎尭治~義苗の系図
子 一涂〔養父:土倉四郎兵衛〕
子 義方の娘
一柳頼邦に嫁ぐ予定であった。
子の夫 京極高通→京極高通~高典の系図
山崎俊家(としいえ)【1617-1651】
丸亀藩主。
妻 稲葉一通の娘
妻の父 稲葉一通→稲葉一通の系図
山崎治頼(はるより)【1650-1657】
丸亀藩主。嗣子のないまま亡くなった。
山崎尭治~義苗の系図
山崎尭治(たかはる)/寛盛(ひろもり)【1688-1745】
祖父 豊治・父 義方→山崎家盛~義方・俊家・治頼の系図
祖父 市橋政信→市橋長利~直方の系図
妻 久留島通政の娘
実は久留島通逈(→久留島通逈の系図)の娘。
妻の父 久留島通政→久留島通政の系図
子 経盛(つねもり)/紀盛(のりもり)【1719-1752】
母は『山崎家譜(備中成羽)』による。
子の夫 山崎相盛→山崎相盛の系図
子の夫 裏辻公風→裏辻季福~実脩の系図
子の夫 柴田康平→柴田康平の系図
山崎信盛(のぶもり)【1723-1758】
妻 仙石政房の娘
妻の父 仙石政房→仙石政房の系図
山崎義俊(よしとし)/通有(みちあり)【1740-1801】
実は久留島光通(→久留島光通の系図)の子。
妻 黒田長邦の娘
妻の父 黒田長邦→黒田長邦~長徳の系図
子 黒田長堅〔養父:黒田長恵〕→黒田長邦~長徳の系図
子 義俊の娘
母は『山崎家譜(備中成羽)』による。
子 義苗〔養父:山崎義孝〕
子 義徳〔養父:山崎義苗〕→山崎義徳~治敏の系図
子の夫 松平康盛→松平忠充~康豊の系図
子の夫 戸川逵邦→戸川逵邦の系図
山崎義孝(よしたか)【1759-1779】
山崎義苗(よしたね)【1763-1781】
実は山崎義俊の子。
子 義徳・孫 義高→山崎義徳~治敏の系図
山崎義徳~治敏の系図
山崎義徳(よしのり)【1769-1813】(以下、『山崎家譜(備中成羽)』による。)
実は山崎義俊(→山崎尭治~義苗の系図)の子。
祖父 義孝・父 義苗→山崎尭治~義苗の系図
妻 木下俊胤の娘
妻の父 木下俊胤→木下俊胤の系図
子 義尊(よしたか)【1795-1810】
子 義柄〔養父:山崎義高〕
子の夫 平野長興→平野長興の系図
子の夫 横瀬貞征→横瀬貞征の系図
子 近富〔養父:田中近昌〕
山崎義高(よしうえ)【1801-1819】
山崎義柄(よしつか)【1805-1827】
実は山崎義徳の子。
妻 毛利広鎮の娘
妻の父 毛利広鎮→毛利広寛~元蕃の系図
夫 京極高聴→京極高長~高陳の系図
妻 池田政養の娘
妻の父 池田政養→池田政直~政保の系図
山崎治正(はるまさ)/義厚(よしあつ)【1821-1876】
成羽藩主。実は平野長興(→平野長興の系図)の子。高直しにより立藩し、大名となった。
妻 上杉孝
上杉斉定(→上杉斉定の系図)の娘。
妻 細川敏
細川行芬(→細川立之~行真の系図)の娘。
子 治敏〔養父:山崎治祇〕
子 織田信親〔養父:織田信民〕→織田信親の系図
子 寿吉〔養父:京極高典(→京極高通~高典の系図)〕
子 徳→平野長裕の系図
山崎治祇(はるよし)【1855-1909】(以下、『華族系譜』による。)
成羽藩主。
子 治寿【1882-1883】
子 由【1880-?】
山崎治敏(はるとし)【1858-1939】
成羽藩主。実は山崎治正の子。
妻 小笠原鍈
小笠原長守(→小笠原信辰~長守の系図)の娘。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。