このページでは、柳生氏(菅原氏)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
柳生氏(大和国柳生藩主)の略系図
1 永珍→柳生永珍~宗在の系図
13 俊方→柳生俊方~俊郎の系図
柳生永珍~宗在の系図
柳生永珍(ながよし)
大和国柳生庄を領し、101歳で亡くなった。
柳生家重(いえしげ)
80歳で亡くなった。
柳生道永(みちなが)
78歳で亡くなった。
柳生家宗(いえむね)
50歳で亡くなった。
柳生光家(みついえ)
70歳で亡くなった。
柳生重永(しげなが)
79歳で亡くなった。
柳生家厳(いえよし)【1496-1584】
柳生宗厳(むねよし)【1527-1606】
母は『柳生家譜(大和柳生)』による。
子 厳勝
母は『柳生家譜(大和柳生)』による。65歳で亡くなった。
子 五郎右衛門【?-1603】(『柳生家譜(大和柳生)』による。)
子 久斎・徳斎(『柳生家譜(大和柳生)』による。)
子の夫 福岡孫右衛門・大塩九左衛門・丹生半蔵・加茂茂斎・安井喜右衛門・吉岡仁右衛門(『柳生家譜(大和柳生)』による。)
柳生宗矩(むねのり)【1571-1646】
大和国柳生藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。剣術家としても活躍し、『兵法家伝書』を著したほか、徳川家光の兵法師範を務めた。
妻 松下之綱の娘
妻の父 松下之綱→松下之綱の系図
子 友矩(とものり)【1602-1639】
子 宗冬〔養父:柳生三厳〕
子 義仙【?-1702】
子 宗矩の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
子の夫 武藤安信→武藤安信の系図
柳生三厳(みつよし)【1607-1650】
柳生藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。剣術家としても活躍した。
子の夫 跡部良隆→跡部良隆の系図
子の夫 渡辺保→渡辺均~直・保~胤の系図
柳生宗冬(むねふゆ)/俊矩(としのり)【1613-1675】
柳生藩主。実は柳生宗矩の子。剣術家として徳川家綱・綱吉の剣術師範を務めた。
妻 京極高通の娘
妻の父 京極高通→京極高通~高之・高重~高伴の系図
子 宗春(むねはる)【1649-1675】
子の妻 九鬼久隆の娘
子の妻の父 九鬼久隆→九鬼守隆~隆昌・隆重~隆安の系図
孫 俊方〔養父:柳生宗在〕→柳生俊方~俊郎の系図
孫 九鬼副隆〔養父:柳生隆律〕→九鬼隆律~隆義の系図
子の夫 小出尹重→小出尹重の系図
子の夫 朽木則綱→朽木則綱~綱弘の系図
子の夫 曽我近祐→曽我近祐の系図
柳生宗在(むねあり)【1654-1689】
柳生藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 五条為庸の娘
妻の父 五条為庸→五条為適~為房の系図
子 九鬼隆久〔養父:柳生副隆〕→九鬼隆律~隆義の系図
子 俊方・孫 俊平→柳生俊方~俊郎の系図
柳生俊方~俊郎の系図
柳生俊方(としかた)【1673-1730】
柳生藩主。実は柳生宗春(→柳生永珍~宗在の系図)の子。
祖父 宗冬・父 宗在→柳生永珍~宗在の系図
妻 亀井竹
亀井茲政(→亀井茲政の系図)の娘。
妻 岩城重隆の娘
妻の父 岩城重隆→岩城重隆の系図
子 宗盈(むねみつ)
実は岡部長泰(→岡部長泰・長敬の系図)の子。
子 矩美(のりよし)
実は池田仲澄(→池田仲澄~延俊の系図)の子。
柳生俊平(としひら)【1699-1768】
柳生藩主。実は松平定重(→松平定重の系図)の子。
妻 稲葉恒通の娘
妻の父 稲葉恒通→稲葉信通~恒通の系図
夫 松平定武→松平定昌~定規の系図
柳生俊峯(としみね)【1719-1763】
柳生藩主。実は真田信弘(→真田信弘の系図)の子。
妻 牧野康重の娘
妻の父 牧野康重→牧野康重の系図
夫 水野忠之→水野忠久~忠朋の系図
夫 大島義苗→大島義苗の系図
子の夫 池田政朗→池田政済~政行の系図
子の夫 秋月種穀→秋月種封~種賀の系図
柳生俊則(としのり)/賢広(かたひろ)【1730-1816】
柳生藩主。実は松前邦広(→松前氏広~邦広の系図)の子。
子 俊永(としとお)【1775-1792】
子 俊睦(としちか)【1776-?】
子の妻 松平忠済の娘
子の妻の父 松平忠済→松平忠順~忠礼の系図
柳生俊豊(としもり)【1790-1820】
柳生藩主。実は柳沢保光(→柳沢保光~保申の系図)の子。
妻 堀直方の娘
妻の父 堀直方→堀直方~直弘の系図
子 長守〔養父:小笠原長坦〕
柳生俊章(としあきら)【1809-1862】
柳生藩主。母は『柳生家譜(大和柳生)』による。
妻 田沼意正の娘
妻の父 田沼意正→田沼意知~意斉の系図
柳生俊能(としよし)【1830-1850】
柳生藩主。実は田沼意正(→田沼意知~意斉の系図)の子。
子 綏〔養父:木下俊程〕(『華族系譜』による。)→木下俊程の系図
柳生俊順(としむね)【1836-1862】
柳生藩主。実は武田信之(→武田晴信・勝頼・海野信親~武田崇信の系図)の子。
妻 木下俊敦の娘
妻の父 木下俊敦→木下俊敦の系図
柳生俊郎(としろう)/俊益(とします)【1851-1927】(『柳生家譜(大和柳生)』による。)
柳生藩主。実は武田信之(→武田晴信・勝頼・海野信親~武田崇信の系図)の子。
妻 四辻陳子・信子
四辻公績(→四辻公韶~公賀の系図)の娘。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。