日本史の流れ(古代・政治外交史)

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 このページでは、日本史のうち、古代の政治外交を中心に流れをまとめました。
 基本的に、政権の動きは左の欄・青色、政権以外の動きは右の欄・黄色、政変・戦乱等は赤色にしています。

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古代の政治外交史

6世紀の情勢

  • 大伴氏・物部氏などの豪族が勢力争いを繰り広げ、蘇我氏が権力を強めました。
507~ 継体天皇
  • 507
    大伴金村、継体天皇を擁立
539~ 欽明天皇

この頃、蘇我氏(蘇我稲目)と物部氏(物部尾輿)が対立

  • 562
    新羅、加耶諸国を滅ぼす
585~ 用明天皇
  • 587
    大臣蘇我馬子(崇仏派)、大連物部守屋(排仏派)を滅ぼす

    ➡物部氏は衰退、蘇我氏は権力を掌握

587~ 崇峻天皇
  • 589
    隋、中国を統一
  • 592
    蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺

摂政厩戸王らの政治

  • 推古天皇の甥厩戸王が摂政に就任し、大臣蘇我馬子らと協力して政治を進めました。
  • 遣隋使を派遣し、中国から様々な制度や文化をもたらしました。
  • 厩戸王の死後、蘇我氏の専横が強まりました。
592~ 推古天皇
  • 592
    推古天皇、即位

    翌年、厩戸王が摂政に就任

  • 600
    遣隋使を派遣

    日本の史料にはみえない

  • 603
    冠位十二階

    世襲制廃止・人材登用を目的に才能・功績などで冠位を授けた

  • 604
    憲法十七条

    官人に対する道徳的訓戒を17条にまとめた

  • 607
    小野妹子を遣隋使として派遣
  • 608
    隋の煬帝、裴世清を答礼使として派遣
  • 608
    小野妹子を再度、隋に派遣

    同行者:高向玄理・旻・南淵請安ら

  • 613
    隋、高句麗と戦う

    衰退の一因に

  • 618
    隋が滅亡し、唐建国
629~ 舒明天皇
  • 630
    初めて遣唐使を派遣

    遣唐大使:犬上御田鍬
    遣唐使の航路:初期は北路、新羅との関係が悪化した8世紀以降は南路・南東路

642~ 皇極天皇
  • 643
    蘇我入鹿、山背大兄王を滅ぼす

    ➡蘇我氏の専横が強まる

  • 644
    唐、高句麗を攻撃

    ➡新羅の強大化とともに、周辺の緊張が高まる

中大兄皇子(天智天皇)らの政治

  • 中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我氏を滅ぼし、大化の改新を行いました。
  • 唐・新羅の強大化によって国際的緊張が高まり、防衛の強化が急務になりました。
  • 645
    乙巳の変

    中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂ら、蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼす

645~ 孝徳天皇
  • 645
    古人大兄皇子、謀反の疑いで殺される
  • 646
    改新の詔

    公地公民制などの基本政策を示す
    『日本書紀』に記載されているが、脚色も多い

  • 649
    蘇我倉山田石川麻呂、謀反の疑いにより、自害
655~ 斉明天皇
  • 658
    阿倍比羅夫、蝦夷を攻撃
  • 658
    有間皇子、謀反の疑いで処刑される
  • 660
    唐・新羅、百済を滅ぼす
  • 661
    百済救援に向かうも、斉明天皇崩御
661~ 天智天皇(661称制、668即位)
  • 663
    白村江の戦い

    ➡唐・新羅連合軍に大敗、防衛強化が急務に

  • 668
    近江令

    日本最初の令

天武天皇らの政治

  • 天武天皇は、天皇中心の政治を行い、中央集権化を進めました。
  • 天武天皇の死後は、皇后であった持統天皇が引き継いで政治を行いました。
  • 672
    壬申の乱

    天智天皇の後継者争い
    勝利:大海人皇子(のちの天武天皇)、敗北:大友皇子

673~ 天武天皇
  • 673
    天武天皇、飛鳥浄御原宮で即位
  • 676
    新羅、朝鮮半島を統一
  • 684
    八色の姓

    天皇中心に身分秩序を再編成

686~ 持統天皇(686称制、690即位)
  • 689
    飛鳥浄御原令を施行

    天武天皇の時代に制定された

697~ 文武天皇
  • 698
    渤海、建国
  • 701
    大宝律令

    編纂者:刑部親王、藤原不比等ら

  • 702
    薩摩国を設置

    種子島なども帰属させた
    以降、出羽国(712年)・大隅国(713年)を設置

奈良時代

  • 律令に基づく政治が行われました。蝦夷の征討も進められました。
  • 激しい権力争いが繰り広げられるなか、藤原氏が力を伸ばしました。
707~ 元明天皇
715~ 元正天皇
  • 718
    養老律令

    編纂者:藤原不比等ら
    大宝律令を一部修正、757年に施行

724~ 聖武天皇
  • 727
    渤海使、初めて来日

    日本は能登客院・松原客院で遇した

  • 729
    長屋王の変

    長屋王、謀反を疑われ自害
    ➡政権の中心は藤原四子

  • 729
    藤原光明子、聖武天皇の皇后に
  • 737
    藤原四子、天然痘で相次いで亡くなる

    藤原四子:武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)
    ➡政権の中心は橘諸兄吉備真備玄昉らへ

  • 740
    藤原広嗣の乱

    式家の藤原広嗣、玄昉らの排斥を求めて蜂起
    ➡遷都を繰り返すきっかけに

749~ 孝謙天皇
  • 755
    安史の乱

    唐で安禄山ら、反乱
    ➡唐は疲弊

  • 756
    橘諸兄、左大臣を辞任
    聖武太上天皇、崩御

    政権の中心は藤原仲麻呂

  • 757
    橘奈良麻呂の乱

    橘奈良麻呂ら、藤原仲麻呂打倒を謀るが失敗

758~ 淳仁天皇
  • 758
    藤原仲麻呂、恵美押勝の名を賜る
  • 759
    新羅征討を計画

    ➡中止

  • 760
    光明皇太后、崩御

    藤原仲麻呂、最大の後ろ盾を失う

  • 764
    藤原仲麻呂の乱

    藤原仲麻呂、道鏡の打倒を謀って蜂起するも敗死
    ➡淳仁天皇は廃位、孝謙上皇が重祚して称徳天皇に

764~ 称徳天皇
  • 765
    道鏡、太政大臣禅師に就任

    翌年には法王に就任、やがて皇位を望むように

  • 767
    伊治城を設置
  • 770
    称徳天皇、崩御

    道鏡は下野薬師寺別当に左遷

770~ 光仁天皇
  • 770
    光仁天皇、即位

    藤原百川らが擁立

  • 780
    伊治呰麻呂の乱

    多賀城が焼失

平安初期の政治

  • 桓武天皇・嵯峨天皇がリーダーシップを発揮し、令外官の設置などの改革が行われました。
  • 蝦夷の征討がほぼ完了しました。
781~ 桓武天皇
  • 785
    藤原種継、暗殺される

    ➡関与を疑われた皇太子早良親王、自害

  • 794
    平安京に遷都
    山背国を山城国に改める
  • 797
    藤原内麻呂を勘解由長官とする

    勘解由使は解由状を審査し、国司の不正に対処

  • 801
    征夷大将軍坂上田村麻呂、阿弖流為を帰順させる

    ➡帰順した蝦夷(俘囚)は移住させて融和、東北は柵戸を移住させて開拓

  • 805
    徳政論争

    藤原緒嗣・菅野真道に論議させる
    ➡平安京の造営・蝦夷征討を中止

809~ 嵯峨天皇
  • 810
    蔵人所を設置

    初代蔵人頭:藤原冬嗣・巨勢野足
    蔵人頭は天皇の側近として機密文書などを扱う
    ➡藤原北家台頭へ

  • 810
    薬子の変

    平城上皇、藤原仲成・藤原薬子と結び、平城京遷都・重祚を画策
    失敗、藤原式家没落

  • 816頃
    検非違使を設置

    検非違使は京内の治安維持などを担当

  • 820
    『弘仁格式』

    編纂者:藤原冬嗣ら

823~ 淳和天皇
  • 833
    『令義解』(清原夏野ら)

    養老律令の官撰の注釈書

藤原北家の台頭

  • 藤原冬嗣が蔵人頭に就任したことを契機に、藤原北家が力をつけ、他氏排斥などを行いました。
  • 醍醐天皇・村上天皇は、摂政・関白を置かず親政を行いました(延喜・天暦の治)。
  • 地方では武士団が形成され、反乱も起きました。
833~ 仁明天皇
  • 842
    嵯峨太上天皇、崩御
  • 843
    承和の変

    伴健岑・橘逸勢ら、謀反を企てる
    失敗

858~ 清和天皇
  • 858
    幼少の清和天皇、即位

    藤原良房、実質的に摂政になる

  • 866
    藤原良房、摂政に就任
  • 866
    応天門の変

    大納言伴善男、左大臣源信の失脚を謀り、応天門を放火
    失敗、伴善男は配流

  • 869
    『貞観格』

    編纂者:藤原氏宗ら
    871年に『貞観式』

  • 875
    黄巣の乱

    唐で農民ら、反乱
    ➡唐は弱体化

876~ 陽成天皇
  • 876
    藤原基経、摂政に就任
884~ 光孝天皇
  • 884
    光孝天皇、即位

    藤原基経、実質的に関白になる

887~ 宇多天皇
  • 887
    阿衡の紛議

    基経、詔勅の「阿衡の任」に抗議して出仕をやめる
    ➡翌年、詔勅を撤回し、改めて基経が関白に任じられる

  • 891
    藤原基経、亡くなる

    ➡宇多天皇、摂政・関白を置かずに親政へ(寛平の治

  • 891
    菅原道真、蔵人頭に就任
  • 894
    菅原道真、遣唐使廃止を建議
  • 寛平年中
    滝口の武者を設置

    武士が宮中の警備を行うようになった

897~ 醍醐天皇
  • 901
    昌泰の変

    道真、斉世親王の擁立を謀ったとして大宰権帥に左遷

  • 907
    『延喜格』

    編纂者:藤原時平ら
    三代格を分類・編集した『類聚三代格』が伝わる

  • 907
    唐、滅亡
  • 914
    三善清行、「意見封事十二箇条」を奏上
  • 927
    『延喜式』

    編纂者:藤原忠平ら
    967年施行

930~ 朱雀天皇
  • 935
    平将門の乱

    将門、平国香らを殺害、のちに新皇を称する
    ➡平貞盛・下野押領使藤原秀郷ら、鎮圧

  • 935
    高麗、新羅を滅ぼし朝鮮半島を統一
  • 939
    藤原純友の乱

    純友ら、藤原子高らを襲撃し、伊予国府・大宰府を一時落とす
    ➡源経基・追捕使小野好古ら、鎮圧

946~ 村上天皇
  • 960
    宋(北宋)、建国
967~ 冷泉天皇
  • 969
    安和の変

    源高明、源満仲の密告により、大宰権帥に左遷
    源満仲、摂津国に土着
    以降、摂政・関白常置へ

摂関政治

  • 安和の変後、藤原北家内部の権力争いを経て、藤原道長・頼通父子の時代に藤原氏は全盛期を迎えました。
  • 藤原道長は4人の娘を天皇家に嫁がせ、3代の天皇の外祖父として権力を掌握しました。
  • 東国では、清和源氏が武士団の棟梁としての頭角を現し始めました。
986~ 一条天皇
  • 996
    藤原伊周・隆家、花山法皇を射かける

    ➡伊周は大宰権帥に左遷、藤原道長は権力を掌握

1016~ 後一条天皇
1045~ 後冷泉天皇
  • 1051
    前九年の役

    陸奥の豪族安倍頼良ら、国司に反抗
    ➡陸奥守源頼義・源義家ら、出羽の豪族清原氏の協力を得て鎮圧

次の時代

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