このページでは、日本史のうち、古代の社会経済を中心に流れをまとめました。
基本的に、政権の動きは左の欄・青色、政権以外の動きは右の欄・黄色、政変・戦乱等は赤色にしています。
社会経済史
律令国家の形成
- 戸籍・計帳(調・庸の徴収のための基本台帳)を作成し、班田収授が行われるようになりました。
- 貨幣の鋳造が行われましたが、流通の範囲は限られました。
- 646改新の詔
公地公民制・班田収授法・統一的な税制などを謳う
- 670庚午年籍
初めての全国的な戸籍
根本台帳として永久保存
- 683頃富本銭を鋳造
- 689飛鳥浄御原令を施行
- 690庚寅年籍
飛鳥浄御原令に基づいて作成
班田の支給を開始
- 701大宝律令
- 租:田地に課税、1段につき2束2把(収穫高の約3%)、地方の財源に
- 調:諸国の特産品(絹・布など)
- 庸:都で10日の歳役(又は代わりに布2丈6尺)
- 雑徭:国司の下で年60日の労役
- 兵役:各地の軍団に所属、一部は都で1年間の衛士や九州で3年間の防人
- 公出挙:春に種籾を貸し付けられ、秋に利息(5割)を付けて返納
- 義倉:一定量の粟(凶作に備える)
- 賃租:乗田を貸し付けられ、収穫量の5分の1を地子として納入 など
- 708和同開珎を鋳造
本朝十二銭の最初
- 711蓄銭叙位令
銭貨の流通を図るため、蓄銭量に応じて位階を授ける
➡京・畿内以外ではほぼ流通せず
奈良時代の土地政策
- 口分田や税収を増やすための政策が行われました。
- 土地の私有を認めた結果、貴族・大寺院が大規模な開墾を進め、初期荘園が形成されました。
奈良時代の民衆の暮らし
- 鉄製農具の普及
- 西日本で平地式の掘立柱住居の普及
- 妻問婚
- 女性は婚姻後も別姓で財産権を保持
困窮した農民、浮浪・逃亡や、勝手に僧侶(私度僧)になり、税負担を逃れようとするようになる
この頃、人口の増加により、口分田が不足
- 722百万町歩開墾計画
農民を10日間開墾に従事させて良田を増やす政策
- 723三世一身法
新たに土地を開墾した場合、3世代(旧来の設備を用いた開墾は1世代(本人のみ))の私有を認めた
開墾された田、私有の期限が近づくと再び荒廃
- 743墾田永年私財法
開墾した田の私有を認めた
所有可能な面積は身分に応じて制限された
初期荘園の成立
貴族・大寺院、国司らの協力を得て、付近の農民・浮浪人を使役し、大規模な開墾を行う
- 765加墾禁止令
寺院を除き開墾を禁止
➡772年、解除
桓武天皇の改革
- 律令制や班田収授を維持するため、様々な改革が行われました。
浮浪・逃亡などに加え、偽籍が増加
税の未納・納付遅滞・品質悪化により税収が減り、兵士の弱体化が進む
- 792陸奥・出羽・大宰府などを除き、軍団を廃止
健児を設置
- 795公出挙の利息を3割に軽減
- 795雑徭の日数を30日に半減
- 801畿内の班田を12年に一度とする
平安時代初期の財源確保策
- 税収の減少に対し、有力農民を利用した直営田を設けました。
- 823大宰府管内に公営田を設置
- 879畿内に官田を設置
- 諸司田:諸官司が保有した田
- 勅旨田:天皇が保有した田
- 賜田:皇族が天皇から与えられた田
天皇と関係が深い皇族・貴族(院宮王臣家)が土地・家人を集積し、権勢を振るうようになる
律令制の変容とともに、初期荘園は衰退へ
延喜・天暦の治、律令制の崩壊
- 律令制の再建を目指しましたが、同時に律令制の原則の維持が不可能であることが明らかになりました。
- 受領に徴税を請け負わせ、課税の対象を人から土地に改めました。
- 902延喜の荘園整理令
違法な荘園の停止を命じる
➡例外が多く不徹底
- 902最後の班田を実施
- 914三善清行、「意見封事十二箇条」を奏上
地方政治の混乱を主張
- 958乾元大宝を鋳造
本朝十二銭の最後
国司による地方支配の強化
国司(任国に赴任する最上席者が受領)に一定額の税の納入を請け負わせ、任国の統治を委ねるようになる
➡国司・国衙の役割が増大、郡司・郡家の役割は衰退
受領は、有力農民(田堵)に対し、課税対象となる田地(名)の耕作を請け負わせ、官物・臨時雑役を課した
- 官物:かつての租・調・庸・公出挙などに相当する年貢
- 臨時雑役:かつての雑徭などに相当する労役
田堵の中から、受領と結んで大規模な経営に成功した大名田堵も現れるようになった
受領の腐敗・荘園の発展
- 任国の徴税権を与えられた受領の中には、圧政を行う者・私腹を肥やす者などもいました。
- 受領の圧政を免れるため、土地を権力者に寄進する寄進地系荘園が広がりました。
- 988尾張国の郡司百姓ら、国司藤原元命を訴える
受領の遙任・売官売位
11世紀、受領は目代を任国に派遣し、自身は赴任せず、収入のみを得ること(遙任)が行われるようになった
任国では、目代が国司不在の国衙(留守所)で、現地の有力者(在庁官人)を指揮した
受領になりたい者は、寺社の造営費・朝廷の儀式費を納める代償に、受領の官職を得たり(成功)、再任してもらったり(重任)した。
寄進地系荘園の成立
11世紀半ば、土地開発を行った大名田堵(開発領主)は、受領の圧政を免れるため、中央の権力者(領家(領家がさらに天皇家や摂関家(本家)に寄進することも))に土地を寄進し、荘園の荘官に任じられた
寄進地系荘園は、本家・領家の権威を背景に、不輸の権・不入の権を獲得するようになった