日本史の流れ(中世・政治外交史)

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 このページでは、日本史のうち、中世の政治外交を中心に流れをまとめました。
 基本的に、政権の動きは左の欄・青色、政権以外の動きは右の欄・黄色、政変・戦乱等は赤色にしています。

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政治外交史

前の時代

院政の開始

  • 藤原氏を外戚に持たない後三条天皇が即位したことで、藤原氏の影響力は低下しました。
  • 白河天皇は、譲位後に院庁を置き、院政を開始しました。
  • 伊勢平氏は、荘園の寄進や海賊の平定により、鳥羽上皇の信任を得て勢力を広げました。
1068~ 後三条天皇
  • 1068
    後三条天皇、即位

    藤原氏を外戚に持たない
    大江匡房らを登用

1072~ 白河天皇
  • 1083
    後三年の役

    清原氏の内紛
    ➡陸奥守源義家、藤原清衡を助けて平定
    藤原清衡は平泉を拠点に繁栄へ(奥州藤原氏

1086~ 堀河天皇
  • 1086
    白河天皇、堀河天皇に譲位して院政を開始

    北面の武士を設置
    院近臣が権勢を拡大

    • 賀茂川の水
    • 双六の塞
    • 山法師
  • 1091
    源義家に荘園を寄進することを禁止する

この頃から、興福寺(南都)・延暦寺(北嶺)の僧兵、頻繁に強訴に及ぶように

  • 1097
    平正盛、伊賀国鞆田荘などを六条院(白河天皇の皇女)に寄進
1107~ 鳥羽天皇
  • 1107
    源義親の乱

    ➡平正盛が鎮圧し、清和源氏は勢力後退

1123~ 崇徳天皇
  • 1129
    平忠盛、山陽道・南海道の海賊を追捕
  • 1129
    白河上皇、死去

    鳥羽上皇、院政を開始

  • 1133
    平忠盛、日宋貿易に着手

平氏政権の成立

  • 平清盛は、保元の乱・平治の乱で勝利を収め、政権を掌握しました。
1156~ 後白河天皇
  • 1156
    鳥羽上皇、死去
  • 1156
    保元の乱

    鳥羽上皇の死後、天皇家・摂関家の内部対立と武士の勢力争いで勃発

    勝利・後白河天皇方敗北・崇徳上皇方
    藤原忠通(兄)藤原頼長(弟)
    平清盛(甥)平忠正(叔父)
    源義朝(子)源為義(父)・為朝(子)

    ➡平清盛・藤原通憲、権勢を拡大

1158~ 二条天皇
  • 1159
    平治の乱

    院近臣藤原通憲・信頼が対立し、それぞれ武士と結んで争った

    勝利敗北
    藤原通憲
    (乱のなかで自殺)
    藤原信頼
    平清盛源義朝

    ➡平清盛、政権を掌握
     藤原信頼、源義朝ら死亡、源頼朝は伊豆に流罪

1165~ 六条天皇
  • 1167
    平清盛、太政大臣に就任

    清盛の一族も高位高官に

1171~ 高倉天皇
  • 1171
    平清盛、娘徳子を入内させる
  • 1177
    鹿ヶ谷の陰謀

    藤原成親・俊寛・西光ら、平家打倒を計画
    ➡発覚して失敗

  • 1179
    平清盛、後白河上皇を幽閉

    ➡反平氏の動きへ

  • 1180
    平清盛、大輪田泊を修築

    日宋貿易を振興

    輸出品

    • 水銀
    • 硫黄
    • 刀剣
    • 漆器

    輸入品

    • 宋銭
    • 陶磁器
    • 書籍
    • 薬品
    • 香料

源平の争乱・鎌倉幕府の成立

  • 平氏の専制的な政治に不満が高まり、各地で平氏打倒の動きが起こりました。
  • 源頼朝は、鎌倉に拠点に武士による支配体制を固めて行き、幕府を開きました。
1180~ 安徳天皇
  • 1180
    安徳天皇、即位

    外祖父は平清盛

  • 1180
    以仁王、平清盛追討の令旨を下す

    源頼政ら、以仁王を奉じて挙兵
    ➡宇治で敗死

  • 1180
    平清盛、福原京への遷都を強行

    反対根強く同年還都

  • 1180
    源頼朝、伊豆で挙兵
  • 1180
    石橋山の戦い

    ➡頼朝、安房へ敗走

  • 1180
    源義仲、木曽で挙兵
  • 1180
    源頼朝、鎌倉に入る
  • 1180
    富士川の戦い

    ➡頼朝、勝利

  • 1180
    源頼朝、侍所を設置

    初代侍所別当:和田義盛

  • 1180
    平重衡、南都を焼き討ちにする
  • 1181
    平清盛、死去
  • 1181
    養和の大飢饉
  • 1183
    俱利伽羅峠の戦い

    ➡源義仲、勝利し入京へ

  • 1183
    平氏一門、安徳天皇・三種の神器を奉じ、西国へ
1183~ 後鳥羽天皇
  • 1183
    後白河法皇、源頼朝に源義仲の追討を命じ、見返りとして東国の支配権を認める

    ➡頼朝、義仲追討のため、源範頼・源義経を派遣

  • 1184
    源義仲、近江で敗死
  • 1184
    源頼朝、公文所(のちの政所)・問注所を設置

    初代公文所別当:大江広元
    初代問注所執事:三善康信

  • 1185
    後白河法皇、源義経に源頼朝の追討を命じる

    失敗

  • 1185
    源頼朝、守護・地頭を設置

    鎌倉幕府の成立

    • 京都大番役の催促
    • 謀叛人の逮捕
    • 殺害人の逮捕
  • 1187
    源義経、奥州の藤原秀衡のもとへ逃走
  • 1187
    藤原秀衡、死去
  • 1189
    藤原泰衡、源義経を襲撃

    ➡義経、自害

  • 1189
    源頼朝、奥州藤原氏を追討

    ➡奥州藤原氏滅亡

  • 1190
    源頼朝、右近衛大将に就任
  • 1192
    後白河法皇、死去
鎌倉幕府将軍
1192~ 源頼朝
  • 1192
    源頼朝、征夷大将軍に就任

北条氏の台頭

  • 源頼朝の死後、有力御家人間の争いが激化し、北条氏が台頭しました。
  • 後鳥羽上皇は討幕を企てるも失敗し、幕府の勢力が強大化しました。
  • 1199
    源頼朝、死去
    源頼家の親裁を停止し、13人の合議制に移行
  • 1200
    梶原景時を討伐
1202~ 源頼家
  • 1203
    比企氏の乱

    ➡北条時政、比企能員を討伐

1203~ 源実朝
鎌倉幕府執権
1203~ 北条時政
1205~ 北条義時
  • 1206
    チンギス=ハン、モンゴルを統一
  • 1213
    和田合戦

    ➡和田義盛、敗死
     北条義時は政所と侍所の別当を兼任

  • 1219
    源実朝、公暁に暗殺される

    ➡源氏将軍断絶

  • 1219
    幕府、後鳥羽上皇に皇族将軍を要請

    ➡上皇に拒否される
     代わりに摂関家出身の藤原頼経を将軍にする(摂家将軍

  • 1220
    慈円、『愚管抄』を著し、後鳥羽上皇に挙兵を諫める
  • 1221
    承久の乱

    後鳥羽上皇、北条義時追討の宣旨を下す
    ➡幕府方が勝利、上皇方は敗北
     後鳥羽上皇は隠岐、土御門上皇は土佐、順徳上皇は佐渡に配流
     仲恭天皇は廃位、後堀河天皇即位

  • 1221
    六波羅探題を設置

    朝廷の監視・西国の御家人を統轄
    初代探題:北条泰時北条時房

執権政治の隆盛

  • 北条氏が幕府の実権を握り、御成敗式目の制定などを行いました。
1224~ 北条泰時
  • 1224
    連署を設置

    執権の補佐役
    初代連署:北条時房

  • 1225
    評定衆を設置

    有力御家人らによる合議機関

  • 1232
    御成敗式目

    源頼朝以来の先例・道理を帰順とする幕府の基本法
    後世の武家法にも影響を与えた

  • 1234
    モンゴル、金を滅ぼす
1246~ 北条時頼
  • 1246
    後嵯峨上皇に朝廷の改革を奏上

    ➡上皇、院評定衆を設置

  • 1247
    宝治合戦

    ➡三浦泰村、敗死

  • 1249
    引付衆を設置

    訴訟審理機関、評定衆を補佐

  • 1252
    摂家将軍を廃し、宗尊親王を将軍に迎える(皇族将軍)

蒙古襲来

  • 強大化したモンゴル(元)は日本に対して朝貢を要求し、二度九州北部を襲撃しました。
  • 北条氏の得宗に権力が集中し、その家臣(御内人)が勢力を拡大しました。
  • 1259
    高麗、モンゴルに服属
  • 1260
    日蓮、『立正安国論』を著し、他国からの侵略を予言

    ➡幕府、のちに日蓮を流罪にする

1264~ 北条政村
  • 1268
    高麗使、モンゴルの国書を携えて大宰府に来着

    以降、モンゴルは度々朝貢を要求

1268~ 北条時宗
  • 1270
    三別抄の乱

    高麗、モンゴル軍に抵抗

  • 1271
    モンゴル、国号を元に改める
  • 1272
    後嵯峨法皇、死去

    ➡持明院統・大覚寺統に皇統分裂へ

  • 1274
    文永の役

    元・高麗軍、九州北部を襲撃
    ➡元・高麗軍、撤退
     防衛強化が急務に

  • 1275
    異国警固番役を強化
  • 1276
    博多湾沿岸に防塁の築造を開始
  • 1278
    元、日本商船の交易を許可
  • 1279
    元、南宋を滅ぼす
  • 1281
    弘安の役

    東路軍(元+高麗)・江南軍(元+南宋)、九州北部を襲撃
    ➡元軍、撤退
     元は再度征服を計画するも実現せず

1284~ 北条貞時
  • 1285
    霜月騒動

    内管領平頼綱、安達泰盛を滅ぼす

  • 1286
    鎮西の御家人に異国警固番役を厳命
  • 1293
    竹崎季長、「蒙古襲来絵巻」を制作
  • 1293
    鎮西探題を設置
  • 1293
    平頼綱の乱

    北条貞時、平頼綱を滅ぼす
    ➡得宗専制政治へ

鎌倉幕府の滅亡

  • 天皇家は、持明院統と大覚寺統に皇統が分裂しました。
  • 大覚寺統の後醍醐天皇が討幕を計画し、各地で討幕運動が活発となりました。
1315~ 北条高時
  • 1317
    文保の和談

    幕府、両統迭立を勧める

内管領長崎高資、権勢を振るう

この頃から、悪党の動きが活発化

  • 1318
    後醍醐天皇、即位
  • 1321
    後醍醐天皇、院政を廃止

    ➡天皇親政へ
     日野資朝・日野俊基・北畠親房らを登用

  • 1324
    正中の変

    後醍醐天皇による倒幕計画
    ➡事前に発覚して失敗、日野資朝は佐渡に配流

1326~ 赤橋守時
  • 1331
    元弘の変

    後醍醐天皇による倒幕計画
    失敗、幕府は後醍醐天皇を隠岐に配流し、光厳天皇を擁立

  • 1333
    後醍醐天皇、隠岐を脱出
  • 1333
    足利尊氏、六波羅探題を攻撃
  • 1333
    新田義貞、鎌倉を攻撃
    鎌倉幕府滅亡

建武の親政

  • 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は天皇中心の政治を目指しました。
  • 後醍醐天皇と対立した足利尊氏が光明天皇を擁立し、南北朝の対立が始まりました。
  • 1333
    後醍醐天皇、光厳天皇を廃位に
  • 1333
    後醍醐天皇、記録所・恩賞方を設置
  • 1333
    後醍醐天皇、雑訴決断所・武者所を設置

    武者所頭人:新田義貞

  • 1334
    二条河原落書が掲げられる

    建武の親政を風刺

  • 1334
    護良親王を鎌倉に配流
  • 1335
    中先代の乱

    北条時行、鎌倉で反乱
    ➡足利尊氏、乱を平定し、これを機に建武政権に反旗

  • 1336
    足利尊氏、入京
    北畠顕家らに敗れて九州に敗走
  • 1336
    湊川の戦い

    ➡足利尊氏勝利、楠木正成ら敗死、尊氏は京都を制圧

  • 1336
    足利尊氏、光明天皇を擁立

    南北朝の対立へ

  • 1336
    建武式目

    足利尊氏が是円に諮って示した施政方針

  • 1336
    後醍醐天皇、神器を奉じて吉野へ
  • 1338
    北畠顕家・新田義貞、相次ぎ敗死

南北朝の動乱

  • 足利尊氏は室町幕府を開きましたが、内部の抗争も激しく、南朝との対立が続きました。
室町幕府将軍
1338~ 足利尊氏
  • 1338
    足利尊氏、征夷大将軍に就任

    尊氏とその弟直義の二頭政治を行う

  • 1339
    後醍醐天皇、崩御
  • 1346
    守護の権限に刈田狼藉の取り締まり・使節遵行権を加える

    守護は幕府に出仕し、領国統治は守護代に委ねた

  • 1348
    楠木正行、敗死
  • 1349
    足利基氏、鎌倉公方に就任

    基氏の子孫が鎌倉公方を世襲

  • 1350
    観応の擾乱

    足利直義と高師直の争い
    ➡翌年に師直が殺害され、1352年に足利尊氏が直義を毒殺

  • 1352
    半済令

    守護が荘園・公領の年貢の半分を兵粮米として徴収
    近江・美濃・尾張で1年限り
    ➡のちに全国的・永続的に

1358~ 足利義詮
  • 1367
    高麗、倭寇の禁圧を要請
  • 1368
    朱元璋、明を建国

足利義満・義持の時代の政治

  • 足利義満は、有力な守護大名の勢力を削ぐ一方、日明貿易を行いました。
  • 足利義持の時代も政情は安定していましたが、日明貿易は中断されました。
1368~ 足利義満
  • 1378
    足利義満、花の御所に移る
  • 1390
    土岐康行の乱
  • 1391
    明徳の乱

    ➡六分の一衆と呼ばれた山名氏清ら、敗死

  • 1392
    李成桂、李氏朝鮮を建国
  • 1392
    南朝の後亀山天皇、北朝の後小松天皇に譲位

    南北朝の合一

1394~ 足利義持
  • 1397
    李氏朝鮮、倭寇禁圧を要請

    ➡翌年、足利義満が了承

  • 1398
    足利義満、李氏朝鮮に倭寇禁圧を約束
    日朝貿易が始まる

    輸出品

    • 硫黄
    • 工芸品
    • 蘇木
    • 香木

    輸入品

    • 木綿
    • 大蔵経
  • 1399
    応永の乱

    ➡大内義弘ら、敗死

  • 1401
    足利義満、明に祖阿・肥富らを派遣

    義満、明の皇帝から「日本国王源道義」と称される

  • 1404
    足利義満、勘合貿易を開始

    滞在費・運搬費は明が負担し、日本側に莫大な利益をもたらした

    輸出品

    • 硫黄
    • 槍・刀剣・鎧
    • 屏風

    輸入品

    • 銅銭
    • 生糸
    • 高級織物
    • 陶磁器
    • 書籍
    • 書画
  • 1411
    足利義持、朝貢の形式に反対し、日明貿易を中断
  • 1416
    上杉禅秀の乱

    上杉禅秀、鎌倉公方足利持氏に反発

  • 1419
    応永の外寇

    朝鮮、対馬を襲撃
    ➡日朝貿易、中断(1423年再開)

  • 1429
    播磨の土一揆

    赤松氏の家臣の追放を要求
    ➡赤松満祐、鎮圧

幕府の衰退

  • 足利義教は専制的な政治を行って暗殺されたことで、幕府の権威が動揺しました。
  • 関東では、鎌倉公方と関東管領の対立などで戦乱が起こりました。
1429~ 足利義教
  • 1429
    尚巴志、三山を統一し琉球王国を建国
  • 1432
    日明貿易を再開
  • 1438
    永享の乱

    鎌倉公方足利持氏による反乱
    ➡翌年、幕府と上杉憲実らにより追討

  • 1440
    結城合戦

    結城氏朝、足利持氏の遺児を擁立して挙兵
    ➡上杉憲実ら、鎮圧

  • 1441
    嘉吉の変

    赤松満祐、将軍足利義教を殺害

1442~ 足利義勝
  • 1442
    癸亥約条

    朝鮮、宗氏が派遣する船の数等を制限

1449~ 足利義政
  • 1454
    享徳の乱

    鎌倉公方足利成氏、関東管領上杉憲忠を殺害

  • 1455
    足利成氏、古河に移る

    古河公方の始まり

  • 1457
    コシャマインの戦い

    ➡武田信広が平定

  • 1457
    足利政知を関東に派遣

    堀越公方の始まり

戦国大名の台頭

  • 応仁の乱で幕府の権威は失墜し、各地で戦国大名が台頭しました。
  • 戦国大名の中には、城下町を整備し、分国法を制定する者もいました。
  • 1467
    応仁の乱

    足利義政の後継者争い

    東軍西軍
    足利義政・足利義尚(子)
    日野富子(妻)
    足利義視(弟)
    畠山持富・畠山政長畠山持国・畠山義就
    斯波義敏斯波義廉
    細川勝元山名持豊


    ➡幕府権威は失墜、下剋上の風潮が高まり、勢力を拡大する守護代・国人が現れ、戦国大名が台頭へ

1473~ 足利義尚
  • 1481以前
    朝倉孝景条々

    朝倉氏の分国法

  • 1485
    山城の国一揆

    南山城の国人ら、畠山氏の軍勢を排し、8年間自治を行う

  • 1488
    加賀の一向一揆

    加賀の一向宗徒ら、守護富樫政親を倒し、約1世紀にわたり自治を行う

1490~ 足利義材
  • 1492
    コロンブス、西インド諸島に到達
  • 1493
    北条早雲、堀越公方を滅ぼす
1494~ 足利義澄
  • 1495
    北条早雲、小田原城を奪う

    分国法:早雲寺殿廿一箇条

  • 1495頃
    大内氏掟書

    大内氏の分国法

  • 1498
    ヴァスコ=ダ=ガマ、インドに到達
1508~ 足利義稙
  • 1510
    三浦の乱

    ➡日朝貿易、衰退へ

  • 1516
    日明貿易を大内義興に管掌させる
  • 1519
    マゼラン、世界周航に出発
1521~ 足利義晴
  • 1523
    寧波の乱

    大内氏と細川氏の勘合船の紛争
    ➡貿易一時中断、のちに大内氏が日明貿易を独占

  • 1526
    今川仮名目録

    今川氏の分国法

  • 1536
    塵芥集

    伊達氏の分国法
    現存する分国法で条文数最多

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