このページでは、高松松平家(清和源氏・義国流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
高松松平家(讃岐国高松藩主)の略系図
1 頼重→松平頼重・頼常の系図
3 頼豊→松平頼豊~頼恭の系図
6 頼真→松平頼真~頼儀の系図
9 頼恕→松平頼恕~頼聡の系図
松平頼重・頼常の系図
松平頼重(よりしげ)【1622-1695】
常陸国下館藩主・讃岐国高松藩主。高松松平家の祖。高松の城下町の整備を行った。
妻 土井利勝の娘
妻の父 土井利勝→土井利勝の系図
子 徳川綱方〔養父:徳川光圀〕→徳川光圀・綱条の系図
子 徳川綱条〔養父:徳川光圀〕→徳川光圀・綱条の系図
子 糸子→有馬忠頼~頼旨の系図
子 頼剛【1657-1699】
子 頼候(よりとき)【?-1691】
子の妻 樋口長
樋口信康(→樋口信孝~康煕の系図)の娘。
孫 頼豊〔養父:松平頼常〕→松平頼豊~頼恭の系図
子 犬→細川忠利~綱利の系図
子 長子→鷹司房輔~基輝の系図
子 万子→由常の系図
曾孫 頼桓〔養父:松平頼豊〕→松平頼豊~頼恭の系図
曾孫 蜂須賀宗鎮〔養父:蜂須賀宗英〕→蜂須賀宗員~宗鎮の系図
曾孫 蜂須賀至央〔養父:蜂須賀宗鎮〕→蜂須賀至央・重喜の系図
松平頼常(よりつね)【1652-1704】
高松藩主。実は徳川光圀(→徳川光圀・綱条の系図)の子。倹約政策を実施し、藩校講堂を設立した。
妻 酒井忠清の娘
妻の父 酒井忠清→酒井忠世~忠清の系図
子 頼豊・孫 頼桓→松平頼豊~頼恭の系図
子 頼泰【1687-1698】
松平頼豊~頼恭の系図
松平頼豊(よりとよ)【1680-1735】
高松藩主。実は松平頼候(→松平頼重・頼常の系図)の子。
祖父 頼重・父 頼常→松平頼重・頼常の系図
祖父 酒井忠清→酒井忠世~忠清の系図
妻 正親町実豊の娘
妻の父 正親町実豊→正親町実彦~実豊の系図
妻 湯浅氏
子 徳川宗尭〔養父:徳川綱条〕→徳川宗尭の系図
子 幸千代【?-1715】
子 頼治【1711-1730】
子 永之助【1725-1734】
『系図纂要』によれば、実は松平頼煕の子。
子 久→中川久清~久慶の系図
子 清玉【?-1763】
子 頼豊の娘
榊原政祐に嫁ぐ予定であった。
子 頼豊の娘
榊原政祐・久我通兄に嫁ぐ予定であった。
子 頼豊の娘
阿部正右に嫁ぐ予定であった。
子の夫 樋口基康→樋口基康・冬康の系図
子の夫 松平容貞→松平正容~容頌の系図
子の夫 近衛内前→近衛家久・内前の系図
松平頼桓(よりたけ)【1720-1739】
高松藩主。実は松平頼煕(→松平頼重・頼常の系図)の子。
松平頼恭(よりたか)【1711-1771】
高松藩主。実は松平頼貞(→松平頼元・頼貞の系図)の子。財政改革を行い、殖産興業に注力した。
妻 細川八代
細川宣紀(→細川宣紀~治年の系図)の娘。
子 頼真・孫 頼起→松平頼真~頼儀の系図
子 大助【?-1753】
子 幸三郎【?-1758】
子の夫 堀田正順→堀田正順の系図
妻 荒川氏
子 頼起〔養父:松平頼真〕→松平頼真~頼儀の系図
子 頼周【?-1820】
孫 浜子【?-1815】
孫の夫 松平頼敬→松平頼救~頼徳の系図
子の夫 徳大寺公城→徳大寺実維~公城の系図
孫 実祖→徳大寺実祖~実則の系図
子の夫 宗義暢→宗義暢~重正の系図
子の夫 松平武寛→松平武元~武聡の系図
子の夫 酒井忠以→酒井忠以・忠道の系図
子の夫 小笠原長尭→小笠原長尭~長国の系図
子の夫 戸沢正産→戸沢正庸~正良の系図
子の夫 堀直教→堀直尭・直教の系図
孫の夫 白川資延→雅朝王~白川資訓の系図
松平頼真~頼儀の系図
松平頼真(よりざね)【1743-1780】
高松藩主。藩校講道館を設立した。
祖父 頼桓・父 頼恭→松平頼豊~頼恭の系図
祖父 細川宣紀→細川宣紀~治年の系図
妻 徳川薫姫【1744-1785】
徳川宗直(→徳川宗直の系図)の娘。
子 頼真の娘【?-1768】
妻 中山氏
子 頼儀〔養父:松平頼起〕
子 頼真の娘
酒井忠進に嫁ぐ予定であった。
松平頼起(よりおき)【1747-1792】
高松藩主。実は松平頼恭(→松平頼豊~頼恭の系図)の子。
妻 徳川述姫【1768-1840】
徳川治保(→徳川治保の系図)の娘。
松平頼儀(よりのり)【1775-1829】
高松藩主。実は松平頼真の子。
妻 前田藤【?-1796】
実は前田重教(→前田吉徳~重教の系図)の娘。当初、前田利久に嫁ぐ予定であった。
妻の父 前田治脩→前田治脩~慶寧の系図
子の夫 井伊直亮→井伊直中~直憲の系図
妻 池田治政の娘
妻の父 池田治政→池田継政~治政の系図
子の夫 松平頼恕→松平頼恕~頼聡の系図
妻 藤木氏
子 頼胤〔養父:松平頼恕〕→松平頼恕~頼聡の系図
子 頼恕・孫 頼胤→松平頼恕~頼聡の系図
子 頼該(よりかね)【1809-1868】
孫 頼該の娘〔養父:松平頼恕〕→松平頼恕~頼聡の系図
子 本多忠民〔養父:本多忠考〕→本多忠典~忠直の系図
子 律子【1812-1814】
子 要子→板倉勝暁~勝殷の系図
孫の夫 松平頼徳→松平頼救~頼徳の系図
松平頼恕~頼聡の系図
松平頼恕(よりひろ)【1798-1842】
高松藩主。実は徳川治紀(→徳川治紀・斉脩の系図)の子。『歴朝要紀』を編纂した。
祖父 頼起・父 頼儀→松平頼真~頼儀の系図
妻 松平頼儀の娘
妻の父 松平頼儀→松平頼真~頼儀の系図
子 堅次郎【?-1830】
子 頼煕〔養父:松平頼胤〕
妻 野萱氏
子 武揚〔養父:松平斉厚〕→松平武元~武聡の系図
妻 浅田氏
子 勝成〔養父:松平勝善〕→松平定静~定昭の系図
子 頼聡〔養父:松平頼胤〕
孫 頼温
実は松平頼胤の子。
孫 徳川義礼〔養父:徳川慶勝〕→徳川宗睦~義宜の系図
孫 頼寿(よりなが)【1874-1944】
子 大久保忠礼〔養父:大久保忠愨〕→大久保忠礼の系図
子 貢→亀井矩貞~茲監の系図
子 頼恕の娘
実は松平頼該(→松平頼真~頼儀の系図)の娘。
子の夫 上杉斉憲→上杉斉憲の系図
子の夫 真田幸教→真田幸教の系図
松平頼胤(よりたね)【1810-1877】
高松藩主。実は松平頼儀(→松平頼真~頼儀の系図)の子。
妻 徳川結子/文姫【1809-1837】
徳川家斉(→徳川家斉の系図)の娘。
子 頼煕【1826-1846】
実は松平頼恕の子。
子の妻 有馬謳
有馬頼徳(→有馬頼徳~頼咸の系図)の娘。
子 禎之助【?-1837】
子 頼温〔養父:松平頼聡〕
子 頼和〔養父:松平頼英(→松平頼謙~頼英の系図)〕
子の夫 大原重実→大原栄顕~重実の系図
子の夫 松平頼策→松平頼永~頼策の系図
松平頼聡(よりとし)【1834-1903】
高松藩主。実は松平頼恕の子。禁門の変で御所の守備にあたり、長州征討に参加した。
妻 井伊直弼の娘
妻の父 井伊直弼→井伊直中~直憲の系図
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。