このページでは、光仁天皇から淳和天皇までの系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
光仁天皇の系図
第49代 光仁天皇(こうにん)/白壁王(しらかべ)/天宗高紹天皇(あまむねたかつぐ)【709−781/在位:770−781】
称徳天皇の崩御にあたり、藤原永手らによって擁立された。
皇后 井上内親王(いのうえ)【717−775】
斎宮。光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃された。その後、難波内親王を呪詛したとして、他戸親王とともに幽閉された。
皇后の父 聖武天皇→文武天皇〜孝謙天皇・称徳天皇の系図
子 他戸親王(おさべ)【761−775】
皇太子。井上内親王が光仁天皇天皇を呪詛したとして皇太子を廃された。
子 酒人内親王→桓武天皇の系図
夫人 高野新笠(にいがさ)【?−789】
夫人の父 和乙継(おとつぐ)
夫人の母 土師真妹(まいも)
子 能登内親王(のと)【733−781】
子の夫 市原王(いちはら)
安貴王(→施基皇子の系図)の子。
孫 五百井女王(いおい)【?−817】
嵯峨朝の頃、尚侍をつとめた。
孫 春原五百枝(いおえ)【760−829】
参議。藤原種継が暗殺された時には、伊予に流された。
子 桓武天皇→桓武天皇の系図
孫 平城天皇→平城天皇の系図
孫 嵯峨天皇→嵯峨天皇の系図
孫 淳和天皇→淳和天皇の系図
孫 葛原親王・万多親王・仲野親王→葛原親王・万多親王・仲野親王の系図
子 早良親王(さわら)【750−785】
藤原種継の暗殺に関与していたとして乙訓寺に幽閉された。その後飲食を断ち、淡路へ移送される途中に亡くなった。
妃 尾張女王(おわり)
妃の父 湯原親王→施基皇子の系図
子 薭田親王(ひえだ)【751−781】
夫人 藤原曹司(そうし)/曹子【758−793】
夫人の父 藤原永手→藤原永手の系図
夫人 藤原産子(ただこ・さんし)【761−829】
藤原百川の娘とも。
夫人 紀宮子(みやこ)
宮人 県主島姫(しまひめ)
子 弥努摩内親王(みぬま)【?−810】
妃 県犬養男耳(おみみ)/勇耳(いさみみ)
子 開成(かいじょう)【724−781】
摂津に弥勒寺(のちに勝尾寺に改名)を建てたとされる。
桓武天皇の系図
第50代 桓武天皇(かんむ)/山部(やまべ)/日本根子皇統弥照天皇(やまとねこすめろぎいやてり)【737−806/在位:781−806】
長岡京・平安京への遷都をし、東北の支配拡大を進めたが、晩年は藤原緒嗣の建議によって軍事と造作を停止した。早良親王の怨霊を恐れ、崇道天皇の名を贈った。
皇后 藤原乙牟漏(おとむろ)/天之高藤広宗照姫尊(あめのたかふじひろむねてらすひめ)【760−790】
皇后の父 藤原良継→藤原良継の系図
子 平城天皇→平城天皇の系図
子 嵯峨天皇→嵯峨天皇の系図
孫 仁明天皇→仁明天皇の系図
孫 源信・源弘→源信・弘の系図
孫 源常・源明→源常・明の系図
孫 源定→源定の系図
孫 源生・源勤・孫 源澄・源勝・源啓→源生・澄・勤・勝・啓の系図
孫 源融→源融~宛の系図
子 高志内親王→淳和天皇の系図
夫人 藤原旅子(たびこ・りょし)【759−788】
夫人の父 藤原百川→藤原百川・緒嗣の系図
子 淳和天皇→淳和天皇の系図
妃 酒人内親王(さかひと)【754−829】
斎宮。退下後に妃になった。
妃の父 光仁天皇→光仁天皇の系図
子 朝原内親王→平城天皇の系図
夫人 藤原吉子(きっし)【?−807】
伊予親王とともに幽閉され、服毒自殺した。
夫人の父 藤原是公→藤原是公の系図
子 伊予親王(いよ)【?−807】
謀反の疑いで大和の川原寺に幽閉され、服毒自殺した。
孫 継枝王(つぎえ)【?−846】
父の謀反に連座して流刑になった。
孫 高枝王(たかえ)【802−858】
従三位。父の謀反の際には、連座して遠流になった。
夫人 多治比真宗(まむね)【769−823】
多治比長野(→上殖葉皇子~丹治武時の系図)の娘。
子 葛原親王→葛原親王・万多親王・仲野親王の系図
孫 高見王→高見王・平高望の系図
孫 高棟王→高棟王・平惟範の系図
子 佐味親王(さみ)【793−825】
子 賀陽親王(かや)【794−871】
東大寺の大仏供養会を監修した。『今昔物語集』には、からくり人形を作って旱魃から寺田を守った説話がある。
孫 道野王(みちの)【?−855】
孫 忠貞王(たださだ)【820−884】
参議。
孫 利基王(としもと)【822−866】
孫 忠範王(ただのり)【?−880】
子 大徳親王(だいとこ)【798−803】
子 安濃内親王(あの)【?−841】
子 因幡内親王(いなば)【?−824】
夫人 藤原小屎(おぐそ)
夫人の父 藤原鷲取→藤原鷲取・鷹取の系図
子 万多親王→葛原親王・万多親王・仲野親王の系図
女御 橘御井子(みいこ)
女御の父 橘入居(いりい)【?−800】
神王らと『刪定令格』を編纂した。
子 菅原内親王(すがわら)【?−825】
子 賀楽内親王(からく)【?−874】
宮人 橘常子(つねこ)【788−817】
天皇崩御後は出家して尼になった。
子 大宅内親王→平城天皇の系図
宮人 紀若子(わかこ)
宮人の父 紀船守(ふなもり)【731−792】
大納言。藤原仲麿の乱の際には、駅鈴・内印を奪いに来た矢田部老を射殺するなどの功を挙げた。
子 明日香親王(あすか)【?−834】
親王の籍を離れることを願うも、許されなかった。
孫 三夏王(みなつ)
孫 三常王(みつね)
宮人 坂上春子(はるこ)【?−834】
天皇崩御後は、尼となり長宝寺を創建して菩提を弔った。
宮人の父 坂上田村麿→霊帝~坂上顕麿の系図
子 葛井親王(ふじい)【800−850】
性格は機敏で、射芸を特技とした。
子の妻 斉子内親王(せいし)【?−853】
嵯峨天皇(→嵯峨天皇の系図)の皇女。
孫 基兄王(もとえ)【824−881】
孫 棟氏王(むねうじ)
孫 棟良王(むねなが)
孫 棟貞王(むねさだ)
娘が清和天皇(→清和天皇の系図)の後宮に入った。
子 春日内親王(かすが)【?−832】
宮人 藤原河子(かわこ・かし)【?−838】
宮人の父 藤原大継→藤原臣継・大継の系図
子 仲野親王→葛原親王・万多親王・仲野親王の系図
子 紀内親王(き)【799−886】
山城の葛野郡に神応寺を創建した。
子 安勅内親王(あて)【?−855】
子 大井内親王(おおい)【?−865】
子 善原内親王(よしはら)【?−863】
宮人 藤原東子(あづまこ・ひがしこ・とうし)【?−816】
宮人の父 藤原種継→藤原清成・種継の系図
子 甘南備内親王→平城天皇の系図
宮人 坂上又子(またこ)【?−790】
宮人の父 坂上苅田麿→霊帝~坂上顕麿の系図
子 高津内親王→嵯峨天皇の系図
宮人 藤原上子(うらこ・かみこ・じょうし)
宮人の父 藤原小黒麿→藤原鳥養・小黒麿の系図
子 滋野内親王(しげの)【809−857】
宮人 河上真奴(まぬ)
子 坂本親王(さかもと)【793−818】
宮人 百済教仁(きょうにん)
宮人の父 百済武鏡(むきょう)
子 太田親王(おおた)【793−808】
宮人 百済貞香(じょうきょう)
宮人の父 百済教徳(きょうとく)【?−822】
子 駿河内親王(するが)【801−820】
宮人 藤原平子(へいし)【?−833】
宮人の父 藤原乙叡→藤原乙叡・真葛の系図
子 伊都内親王→平城天皇の系図
宮人 中臣豊子(とよこ)
子 布勢内親王(ふせ)/布施内親王【?−812】
斎宮。
宮人 橘田村子(たむらこ)
子 池上内親王(いけのえ)【?−868】
女御 百済教法(きょうほう)【?−840】
女嬬 多治比豊継(とよつぐ)
子 長岡岡成(おかなり)【?−848】
女嬬 百済永継(えいけい)
藤原内麿(→藤原内麿の系図)の妻にもなった。
女嬬の父 飛鳥部奈止麿(などまろ)
子 良峯安世(やすよ)【785−830】
大納言。『日本後紀』の編纂に参画し、『経国集』を撰んだ。
孫 遍照(へんじょう)/良峯宗貞【816−890】
六歌仙の一人。仁明天皇崩御後に出家した。元慶寺を建立した。
女御 紀乙魚(おといお)【?−840】
紀木津魚の娘とも。
女御 藤原仲子(なかこ)
女御の父 藤原家依→藤原家依の系図
女御 藤原正子(まさこ・しょうし)
女御の父 藤原清成→藤原清成・種継の系図
子 堪久(たんきゅう)
華厳宗の僧。東大寺の良恵に学んだ。
葛原親王・万多親王・仲野親王の系図
葛原親王(かずらわら)【786−853】
桓武平氏の祖。永く式部卿を務めていたため、職務に精通した。
祖父 光仁天皇→光仁天皇の系図
父 桓武天皇→桓武天皇の系図
祖父 多治比長野→上殖葉皇子~丹治武時の系図
子 高棟王・孫 平惟範→高棟王・平惟範の系図
子 善棟(よしむね)/平善棟【?−829】
子 高見王・孫 平高望→高見王・平高望の系図
万多親王(まんた)【788−830】
藤原園人らと『新撰姓氏録』を編纂した。
祖父 藤原鷲取→藤原鷲取・鷹取の系図
子 正躬王(まさみ)【799−863】
参議。善愷訴訟事件の際には、伴善男らと対立した。
孫 平住世(すみよ)
孫 平継世(つぐよ)
孫 平基世(もとよ)
孫 平家世(いえよ)
孫 平助世(すけよ)
孫 平是世(これよ)
孫 桂心女王→光孝天皇の系図
子 正行王(まさゆき)【816−858】
孫の夫 藤原清夏→藤原高扶~維幾の系図
子 雄風王(おかぜ)
孫の夫 藤原忠行→藤原有貞の系図
仲野親王(なかの)【792−867】
幼少時から利発であった。藤原緒嗣から音儀詞語を学び、藤原基経・大江音人らに教えた。
祖父 藤原大継→藤原臣継・大継の系図
妻 当宗氏
子 班子女王→光孝天皇の系図
孫 是忠親王→是忠親王の系図
孫 宇多天皇→宇多天皇の系図
孫 是貞親王→是貞親王・源旧鑑・是恒・貞恒・是茂・香泉・友貞の系図
子 平茂世(しげよ)/茂世王
孫 好風(よしかぜ)
曾孫 貞文(さだふん)/定文【?-923】
歌人。色好みで知られ、平中と称された。
貞文の子の夫 藤原公行→藤原千常~公光の系図
孫の夫 平高望→高見王・平高望の系図
曾孫 国香→平国香~正衡の系図
曾孫 等子→光孝天皇の系図
曾孫の夫 藤原守義→藤原公利・守義の系図
曾孫の子 永頼→藤原永頼の系図
子 房世王(ふさよ)【?−883】
子 当世王(まさよ)【?−855】
子 輔世王(すけよ)【?−879】
孫 平安典(やすのり)
孫の夫 藤原利仁→藤原時長・利仁の系図
子 秀世王(ひでよ)
子 潔世王(きよよ)【820−882】
子 基世王(もとよ)
子 実世王(さねよ)
子 宜子女王(よしこ・ぎし)
斎宮。
子 十世王(とおよ)【833−916】
参議。
孫 時世王(ときよ)
孫 時相王(ときすけ)
孫 徳姫女王→宇多天皇の系図
子 康世王(やすよ)
子 胤世王(たねよ)
子 惟世王(これよ)/平惟世
子 利世王(としよ)/平利世
平城天皇の系図
第51代 平城天皇(へいぜい)/安殿親王(あて)/日本根子天推国高彦天皇(やまとねこあめおしくにたかひこ)【774−824/在位:806−809】
参議を廃し観察使を置いた。譲位後、平城京に移って政務を執ろうとして嵯峨天皇と対立した。薬子の変により出家した。
祖父 光仁天皇→光仁天皇の系図
父 桓武天皇→桓武天皇の系図
祖父 藤原良継→藤原良継の系図
妃 藤原帯子(たいし)【?−794】
妃の父 藤原百川→藤原百川・緒嗣の系図
妃 朝原内親王(あさはら)【779−817】
斎宮。
妃の父 桓武天皇→桓武天皇の系図
妃 大宅内親王(おおやけ)【?−849】
妃 甘南美内親王(かんなび)【800−817】
宮人 伊勢継子(つぎこ)【772−812】
宮人の父 伊勢老人(おきな)
子 高丘親王(たかおか)/真如(しんにょ)
皇太子になったが、薬子の変によって廃された。その後出家し、天竺を目指す途中、羅越国で遷化した。
孫 在原善淵(よしふち)
孫 在原安貞(やすさだ)
子 巨勢親王(こせ)【?−882】
子 上毛野内親王(かみつけの)
子 石上内親王(いそのかみ)【?−846】
子 大原内親王(おおはら)【?−863】
斎宮。
宮人 葛井藤子(ふじこ)
宮人の父 葛井道依(みちより)
子 阿保親王(あぼ)【792−842】
薬子の変に連座した。承和の変の際には、伴健岑から謀反を誘われたが、橘嘉智子に密告した。娘に源弘(→源信・弘の系図)の妻がいる。
子の妻 伊都内親王(いと)/伊登内親王【?−861】
桓武天皇(→桓武天皇の系図)の皇女。
孫 在原仲平(なかひら)
孫 在原行平(ゆきひら)【818−893】
中納言。奨学院を創立した。娘が清和天皇(→清和天皇の系図)の更衣になった。
孫 在原守平(もりひら)
孫 在原業平(なりひら)【825−880】
六歌仙・三十六歌仙の一人。『伊勢物語』の主人公のモデルになった。娘に藤原保則の妻(→藤原乙叡・真葛の系図)がいる。
孫 大江音人(おとんど)【811−877】
参議。『貞観格式』の撰定に加わった。
宮人 紀魚員(いおかず)
宮人の父 紀木津魚(こつお・きづいお)
宝亀年間には、山部王(桓武天皇)の病気平癒のために四天王像を造った。
子 叡努内親王(えぬ)【?−835】
嵯峨天皇の系図
第52代 嵯峨天皇(さが)/神野親王(かみの)/【786−842/在位:809−823】
蔵人所・検非違使を置き、『弘仁格式』を施行した。漢詩文や書に優れ、三筆の一人に数えられる。
祖父 光仁天皇→光仁天皇の系図
父 桓武天皇→桓武天皇の系図
祖父 藤原良継→藤原良継の系図
皇后 橘嘉智子(かちこ)【786−850】
橘氏のために学館院を設立した。仏教にも帰依し、檀林寺を建立した。
皇后の父 橘清友【758−789】
娘に藤原三守(→藤原三守の系図)の妻、藤原真夏(→藤原真夏の系図)の妻がいる。
子 正子内親王→淳和天皇の系図
子 仁明天皇→仁明天皇の系図
孫 文徳天皇→文徳天皇の系図
孫 光孝天皇→光孝天皇の系図
孫 人康親王・本康親王・孫 源光→人康親王・本康親王・源光の系図
子 俊子内親王(としこ)
子 秀子内親王(ひでこ)【?−850】
子 繁子内親王(しげこ・はんし)【?−851】
容姿は美麗であったが、長く病気を患い出家した。
子 芳子内親王(よしこ・ほうし)【?−838】
子 秀良親王(ひでよし・ひでなが)【817−895】
妃 高津内親王(たかつ)【?−841】
のちに妃を廃された。
妃の父 桓武天皇→桓武天皇の系図
子 業子内親王(なりこ)
子 業良親王(なりよし)【?−868】
妃 多治比高子(たかこ)【788−826】
夫人 藤原緒夏(おなつ)【?−855】
夫人の父 藤原内麿→藤原内麿の系図
女御 大原浄子(きよいこ・じょうし)【?−841】
子 仁子内親王(じんし)【?−889】
斎宮。
女御 百済貴命(きみょう)【?−851】
女御の父 百済俊哲(しゅんてつ)【?−795】
長年、蝦夷征討に携わった。
子 基子内親王(もとこ)【?−831】
子 基良親王(もとよし)【?−831】
子 忠良親王(ただよし)【819−876】
孫 操子女王→藤原良房・基経の系図
更衣 秋篠高子(たかこ)
子 源清(きよし)
出家して秋篠禅師と呼ばれた。
更衣 山田近子(ちかこ)
子 源啓→源生・澄・勤・勝・啓の系図
子 源密姫(みつひめ)
更衣 飯高宅刀自(やかとじ)
子 源常・源明→源常・明の系図
宮人 百済慶命(きょうみょう)【?−849】
子 源善姫(よしひめ)
子 源定→源定の系図
子 源鎮(しずむ)
神護寺で出家し、白雲禅師と号した。
子 源若姫(わかひめ)
宮人 大原全子(ぜんし)
子 源融→源融~宛の系図
子 源勤→源生・澄・勤・勝・啓の系図
子 源盈姫(みつひめ)
宮人 交野女王(かたの)
子 有智子内親王(うちこ)【807−847】
初代賀茂斎院。
宮人 高階河子(かわこ)
宮人の父 高階浄階(きよしな)
子 宗子内親王(むねこ)【?−854】
宮人 文室文子(ぶんし)
子 純子内親王(じゅんし)【?−863】
子 斉子内親王→桓武天皇の系図
宮人 当麻治田麿の娘
子 源潔姫→藤原良房・基経の系図
子 源全姫(またひめ)【812−882】
清和天皇の尚侍を勤めた。
宮人 笠継子(つぐこ)
子 源生→源生・澄・勤・勝・啓の系図
宮人 広井氏
子 源信→源信・弘の系図
宮人 布勢氏
子 源貞姫(さだひめ)
子 源端姫(はしひめ)
宮人 上毛野氏
子 源弘→源信・弘の系図
宮人 安倍氏
子 源寛(ひろし)【813−876】
学問を好んだ一方、官位を求めなかったとされる。
孫 宥
父は源定(→源定の系図)とも。
宮人 田中氏
子 源澄→源生・澄・勤・勝・啓の系図
宮人 粟田氏
子 源安(やすし)【822−853】
学問を怠り、弓を好んだとされる。
宮人 惟良氏
子 源勝→源生・澄・勤・勝・啓の系図
宮人 紀氏
子 源更姫(さらひめ)
宮人 内蔵影子(えいし)
子 源吾姫(あがひめ)
子 源神姫(かみひめ)
子 源容姫(かたひめ)
宮人 甘南備氏
子 源声姫(こえひめ)
子 源良姫(よしひめ)
子 源年姫(としひめ)
子 淳王(あつし)
淳和天皇の系図
第53代 淳和天皇(じゅんな)/大伴親王(おおとも)/日本根子天高譲弥遠天皇(やまとねこあめたかゆずるいやとお)【786−840/在位:823−833】
清原夏野ら良吏を登用したほか、勘解由使の再設置や皇室財政の強化を図った。
祖父 光仁天皇→光仁天皇の系図
父 桓武天皇→桓武天皇の系図
祖父 藤原百川→藤原百川・緒嗣の系図
皇后 正子内親王(まさこ・せいし)【809−879】
天皇の崩御後は尼になり、円仁から菩薩戒を受けた。また、嵯峨天皇の離宮を大覚寺とした。
皇后の父 嵯峨天皇→嵯峨天皇の系図
子 恒貞親王(つねさだ)【825−884】
皇太子になったが、承和の変で廃された。
子 基貞親王(もとさだ)【827−869】
子 恒統親王(つねむね)【829−842】
妃 高志内親王(こし)【789−809】
天皇の即位前に亡くなり、皇后を贈られた。
妃の父 桓武天皇→桓武天皇の系図
子 恒世親王(つねよ)【805−826】
天皇即位後、皇太子に立てられたが固辞した。娘は藤原衛(→藤原内麿の系図)の妻になった。
孫 正道王(まさみち)
子 氏子内親王(うじこ)【?−885】
斎宮。
子 有子内親王(ありこ)【?−862】
子 貞子内親王(さだこ)
女御 永原原姫(もとひめ)【?−868頃】
女御 橘氏子(うじこ)
女御の父 橘永名(ながな)【780−866】
従三位。承和の変の際には、京外に追放された。
宮人 大中臣安子(やすこ)
宮人の父 大中臣淵魚(ふちな)
子 良貞親王(よしさだ)【?−848】
宮人 大野鷹子(たかこ)
子 寛子内親王(ひろこ)
宮人 橘船子(ふなこ)
宮人の父 橘清野(きよの)【750−829】
子 崇子内親王(たかこ)【?−848】
宮人 丹墀池子(いけこ)
宮人の父 丹墀門成(かどなり)【?−853】
娘に藤原遠経(→藤原遠経の系図)の妻がいる。
子 同子内親王(ひとし・どうし・ともこ・あつこ)【?−860】
宮人 清原春子(はるこ)
宮人の父 清原夏野(なつの)【782−837】
右大臣。小倉王(→舎人親王・淳仁天皇の系図)の子。『令義解』を撰定した。
子 明子内親王(あきこ・あきらけいこ)【?−854】
更衣 藤原潔子(きよいこ)
更衣の父 藤原長岡→藤原桜麿・長岡の系図
子 統忠子(ちゅうし)
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。