このページでは、後醍醐天皇から称光天皇までの系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
後醍醐天皇の系図
第96代 後醍醐天皇(ごだいご)/尊治親王(たかはる)【1288-1339】〔養子:尊信法親王(→亀山天皇の系図)〕
鎌倉幕府の倒幕を計画し、隠岐に流された。鎌倉幕府滅亡後は、建武の新政を推し進めたが、大内裏の造営などで反発を招き、失敗に終わった。
祖父 亀山天皇→亀山天皇の系図
父 後宇多天皇→後宇多天皇の系図
祖父 五辻忠継→五辻雅継の系図
皇后 西園寺禧子(よしこ・きし)/礼成門院(れいせいもんいん)/後京極院【1303-1333】
西園寺実兼(→西園寺実兼の系図)の娘。
子 懽子内親王→光厳天皇・光明天皇の系図
皇后 珣子内親王(じゅんし)/新室町院(しんむろまちいん)【1311-1337】
後伏見天皇(→後伏見天皇の系図)の皇女。吉野遷幸には同行しなかった。
女御 二条栄子(よしこ・えいし)
二条道平(→二条兼基・道平の系図)の娘。天皇の崩御後は出家した。
典侍 藤原親子(ちかこ・しんし)
藤原宗親(→五辻雅継の系図)の娘。
子 満良親王(みつよし・みつなが)
掌侍 少将内侍(しょうしょうのないし)
菅原在仲(→菅原在嗣の系図)の娘。
子 聖助法親王(しょうじょ)
後宮 阿野廉子(やすこ・れんし)/新待賢門院(しんたいけんもんいん)【1301-1359】〔養父:洞院公賢(→洞院公賢の系図)〕
阿野公廉(→阿野公佐~公廉の系図)の娘。吉野遷幸にも同行した。
子 祥子内親王(しょうし)
斎宮。
子 恒良親王(つねよし)【1322-1338】
皇太子となるものの、毒殺されたとされる。
子 成良親王(なりよし)【1326-?】
皇太子となったが即位は叶わなかった。
子 後村上天皇・孫 長慶天皇・後亀山天皇→後村上天皇~後亀山天皇の系図
子 惟子内親王(いし)
後宮 北畠親子(ちかこ・しんし)
北畠師親(→北畠師親の系図)の娘。はじめに亀山天皇(→亀山天皇の系図)の後宮に入った。
子 護良親王(もりよし)/尊雲法親王【?-1335】
天台座主。のちに還俗して征夷大将軍になった。中先代の乱の際に殺された。
子の妻 北畠師重の娘
子の妻の父 北畠師重→北畠師重の系図
孫 興良親王(おきよし)
征夷大将軍。
子 妣子内親王(ひし)
子の夫 近衛基嗣→近衛家基~道嗣の系図
後宮 御子左為子(いし)
御子左為世(→御子左為世の系図)の娘。
子 尊良親王(たかよし・たかなが)【?-1337】
元弘の乱により、土佐に流された。金崎城で高師泰らに攻められて自害した。
子の妻 今出川公顕の娘
子の妻の父 今出川公顕→西園寺実兼の系図
子 宗良親王(むねよし)/尊澄法親王【1311-?】
天台座主。のちに還俗して各地を転戦した。和歌にもすぐれ、『新葉和歌集』を撰んだ。
子 瓊子内親王(たまこ)【1316-1339】
子 欣子内親王(きんし)
出家して嵯峨の今林に住んだ。
後宮 洞院実子
洞院実雄(→洞院実雄の系図)の娘。
後宮 洞院守子(もりこ・しゅし)
洞院実泰(→洞院実泰の系図)の娘。
子 玄円法親王(げんえん)【?-1348】
後宮 皇女
亀山天皇(→亀山天皇の系図)の皇女。
子 恒性(こうしょう・つねなり)【1305-1333】
天皇が隠岐に流された際に、越中に流されて幽閉された。
後宮 権大納言三位局
御子左為通(→御子左為世の系図)の娘。
子 躬良親王/法仁法親王(ほうにん)【1325-1352】
子 懐良親王(かねよし・かねなが)【?-1383】
征西将軍として九州の南朝勢力を統括した。
後宮 遊義門院一条局
橋本実俊(→橋本実俊~公国の系図)の娘。
子 世良親王(ときよし・よよし)【?-1330】
子 静尊法親王(せいそん)/恵尊法親王
元弘の乱により、但馬に流された。
後宮 少納言内侍(しょうなごんのないし)
四条隆資(→四条隆親~隆宗の系図)の娘。
子 尊真(そんしん)
後宮 堀川基時の娘
後宮の父 堀川基時→堀川具守の系図
後宮 近衛局(このえのつぼね)
昭訓門院に仕えた。
後宮 左衛門督局(さえもんのかみのつぼね)
遊義門院に仕えた。
後宮 坊門局(ぼうもんのつぼね)
後宮 大納言局(だいなごんのつぼね)
洞院公敏(→洞院公敏・公泰の系図)の娘。
後宮 権中納言局(ごんちゅうなごんのつぼね)
洞院公泰(→洞院公敏・公泰の系図)の娘。
子 無文元選(むもんげんせん)【1323-1390】
子 用堂(ようどう)【?-1396】
鎌倉の東慶寺で護良親王の菩提を弔った。
後村上天皇~後亀山天皇の系図
後村上天皇
第97代 後村上天皇(ごむらかみ)/義良親王(のりよし)【1328-1368/在位:1339-1368】
南北朝の戦乱で各地を転戦した。
祖父 後宇多天皇→後宇多天皇の系図
父 後醍醐天皇→後醍醐天皇の系図
祖父 阿野公廉→阿野公佐~公廉の系図
女御 嘉喜門院(かきもんいん)〔養父:二条師基(→二条兼基・道平の系図)〕
歌人として活躍した。
子 惟成親王(これなり)
子 師成親王(もろなり)
子 泰成親王(やすなり)
子 説成親王(ときなり)
孫 円胤(えんいん)【1407-1447】
南朝の再興のために挙兵したが、畠山持国に敗れた。
孫 聖淳(しょうじゅん)【?-1434】
足利義教に謀反の疑いをかけられて殺された。
子 良成親王(よしなり)
子 憲子内親王/新宣陽門院(しんせんようもんいん)【1344-1391】
長慶天皇
第98代 長慶天皇(ちょうけい)/寛成親王(ゆたなり)【1343-1394/在位:1368-1383】
長らく在位説・非在位説があり、大正15年に歴代に加えられた。『源氏物語』の注釈書『仙源抄』を著した。
子 世泰親王(よやす)
子 海門承朝(かいもんじょうちょう)【1374-1443】
子 尊聖(そんしょう)【1375-1432】
子 行悟(ぎょうご)【1377-1406】
後亀山天皇
第99代 後亀山天皇(ごかめやま)/煕成親王(ひろなり)【?-1424/在位:1383-1392】
南北朝合一によって退位した。
子 恒敦(つねあつ)【?-1422】
孫 聖承(せいしょう)【?-1443】
小倉宮。北畠満雅に奉じられて挙兵するも、幕府軍に降伏した。
光厳天皇・光明天皇の系図
光厳天皇
北朝初代 光厳天皇(こうごん)/量仁親王(かずひと)【1313-1364/在位:1331-1333】〔養子:直仁親王(→伏見天皇・花園天皇の系図)〕
元弘の乱後、幕府の意向によって位に就いた。幕府滅亡後、後醍醐天皇により廃された。
祖父 伏見天皇→伏見天皇・花園天皇の系図
父 後伏見天皇→後伏見天皇の系図
祖父 西園寺公衡→西園寺公衡~公宗の系図
典侍 正親町三条秀子(ひでこ)/陽禄門院(ようろくもんいん)【1311-1352】
正親町三条公秀(→正親町三条公貫~公秀の系図)の娘。
子 崇光天皇・孫 栄仁親王→崇光天皇~貞成親王の系図
子 後光厳天皇→後光厳天皇の系図
孫 後円融天皇→後円融天皇~称光天皇の系図
後宮 懽子内親王(よしこ・かんし)/宣政門院(せんせいもんいん)【1315-1362】
後醍醐天皇(→後醍醐天皇の系図)の皇女。斎宮。
後宮 寿子内親王(ひさこ)/徽安門院(きあんもんいん)【1318-1358】
花園天皇(→伏見天皇・花園天皇の系図)の皇女。崇光天皇・後光厳天皇の養母。京極派の歌人。
後宮 正親町実明の娘
後宮の父 正親町実明→正親町実明~実綱の系図
子 尊朝法親王(そんちょう)/尊敦親王(たかあつ)【1344-1378】
後宮 一条局(いちじょうのつぼね)
正親町公蔭(→正親町実明~実綱の系図)の娘。徽安門院に仕えた。
子 義仁法親王(ぎにん)【?-1415】
子 華林恵厳(かりんえごん)
光明天皇
北朝第2代 光明天皇(こうみょう)/豊仁親王(とよひと)【1321-1380/在位:1336-1348】
足利尊氏に擁立され、尊氏を征夷大将軍に任じた。
崇光天皇~貞成親王の系図
崇光天皇
北朝第3代 崇光天皇(すこう)/興仁親王(おきひと)【1334-1398/在位:1348-1351】
在位3年で正平の一統により廃位になった。
祖父 後伏見天皇→後伏見天皇の系図
父 光厳天皇→光厳天皇・光明天皇の系図
祖父 正親町三条公秀→正親町三条公貫~公秀の系図
女御 洞院公賢の娘
徽安門院に仕えた。安福殿女御と称された。
女御の父 洞院公賢→洞院公賢の系図
典侍 庭田資子(すけこ・しし)
庭田重資(→庭田経資~重賢の系図)の娘。
子 興信法親王(こうしん)【1358-1391】
勧修寺長吏などを務めた。
後宮 三条局
子 弘助法親王(こうじょ)【1378-?】
子 阿栄(あえい)【?-1420】
坂本知恩寺主。
栄仁親王
栄仁親王(よしひと)【1351-1416】
伏見宮初代。立太子を望んだが叶わず、出家した。
妻 三条治子
三条実治(→正親町三条公貫~公秀の系図)の娘。
子 治仁王(はるひと)【1381-1417】
伏見宮2代。琵琶をよくした。
孫 智観女王(ちかん)【1412-?】
孫 真栄女王(しんえい)【1414-1453】
孫 智久女王(ちく)【1417-?】
貞成親王
貞成親王(さだふさ)/後崇光院(ごすこう)【1372-1456】
伏見宮3代。日記は『看聞御記』。
妻 庭田幸子/敷政門院(ふせいもんいん)【1390-1448】
庭田経有(→庭田経資~重賢の系図)の娘。
子 後花園天皇・孫 後土御門天皇→後花園天皇~後柏原天皇の系図
子 貞常親王→貞常親王の系図
子 性恵女王(しょうえ)【1416-1441】
三時知恩寺で出家した。
子 理延女王(りえん)【1423-?】
後光厳天皇の系図
北朝第4代 後光厳天皇(ごこうごん)/弥仁親王(いやひと)【1338-1374/在位:1352-1371】
当初は仏門に入る予定であったが、足利義詮らによって擁立された。
祖父 後伏見天皇→後伏見天皇の系図
父 光厳天皇→光厳天皇・光明天皇の系図
祖父 正親町三条公秀→正親町三条公貫~公秀の系図
典侍 広橋仲子(ちゅうし)/崇賢門院(すうけんもんいん)【1339-1427】〔養父:広橋兼綱(→広橋兼綱~兼宣の系図)〕
通清(→通清の系図)の娘。
子 後円融天皇・孫 後小松天皇→後円融天皇~称光天皇の系図
子 永助法親王(えいじょ)/煕永親王(よしなが)【1362-1437】
仁和寺門跡。後常瑜珈院御室と称された。
子 尭仁法親王(ぎょうにん)【1363-1430】
天台座主。
子 尭性法親王(ぎょうしょう)【1371-1388】
妙法院門跡。
典侍 左京大夫局
長快(→快有の系図)の娘。
子 治子内親王(はるこ)
子 覚叡法親王(かくえい)【1361-1377】
三千院門跡。
子 道円法親王(どうえん)/久尊親王【1364-1385】
天台座主。
子 聖助法親王(しょうじょ)
後宮 少納言内侍
橘知繁(→橘知繁の系図)の娘。
子 明承法親王(みょうしょう)【1367-1396】
天台座主。
後宮 右衛門佐局
子 亮仁法親王(りょうにん)/尊貞親王【1355-1370】
妙法院門跡。
子 行助法親王(ぎょうじょ)/煕平親王【1360-1386】
円満院門跡。
子 覚増法親王(かくぞう)【1363-1390】
園城寺長吏。
子 見子内親王(けんし)
崇光天皇の御所であった入江殿を寺に改め、三時知恩寺とした。
後円融天皇~称光天皇の系図
後円融天皇
北朝第5代 後円融天皇(ごえんゆう)/緒仁親王(おひと)【1358-1393/在位:1371-1382】
後光厳天皇と崇光上皇による次の皇位を巡る争いを経て、父の譲位により即位した。
祖父 光厳天皇→光厳天皇・光明天皇の系図
父 後光厳天皇→後光厳天皇の系図
祖父 広橋兼綱→広橋兼綱~兼宣の系図
典侍 四条今子(こんし)
四条隆郷(→四条隆郷~隆永の系図)の娘。
子 道朝法親王(どうちょう)【1378-1446】
後宮 三条厳子(たかこ)/通陽門院(つうようもんいん)【1351-1406】
三条公忠(→三条実重~公忠の系図)の娘。
子 珪子内親王(けいこ)
後小松天皇
北朝第6代・第100代 後小松天皇(ごこまつ)/幹仁親王(もとひと)【1377-1433/在位:1382-1412】
在位中に南北朝の合一がなされた。
典侍 日野西資子(すけこ)/光範門院(こうはんもんいん)【1384-1440】
日野西資国(→日野時光・資康の系図)の娘。
子 小川宮(おがわのみや)【1404-1425】
称光天皇の東宮になったが、若くして亡くなった。
典侍 甘露寺経子
甘露寺兼長(→甘露寺隆長~兼長の系図)の娘。
後宮 日野西資国の娘
後宮の父 日野西資国→日野時光・資康の系図
子 一休宗純(いっきゅうそうじゅん)【1394-1481】
母は南朝の遺臣で花山院家の人物とされる。
孫 紹偵(しょうてい)
称光天皇
第101代 称光天皇(しょうこう)/実仁親王(みひと)【1401-1428/在位:1412-1428】
病弱で在位中は父が院政を行った。追号は称徳天皇と光仁天皇から一字ずつとった。
典侍 日野光子
日野有光(→日野時光・資康の系図)の娘。
掌侍 五辻朝子
五辻朝仲(→五辻仲貞~富仲の系図)の娘。
後宮 伊予局(いよのつぼね)
持明院基親(→持明院基兼~基信の系図)の娘。
後宮 紀伊局(きいのつぼね)
天皇の没後に尼になった。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。