このページでは、天智天皇から称徳天皇までの系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
天智天皇の系図
第38代 天智天皇(てんじ)/葛城皇子(かずらき)/中大兄皇子(なかのおおえ)/天命開別尊(あめみことひらかすわけ)【626−671/在位:668−671(称制:661−668)】
中臣鎌足らとともに蘇我氏を倒し、大化改新を推し進めた。
祖父 押坂彦人大兄皇子→押坂彦人大兄皇子・茅渟王の系図
父 舒明天皇・母 皇極天皇(斉明天皇)→舒明天皇〜斉明天皇の系図
皇后 倭姫王(やまとひめ)
天皇が大海人皇子(天武天皇)に譲位しようとした際、大海人皇子はそれを固辞し、倭姫王の即位を薦めた。
皇后の父 古人大兄皇子→舒明天皇〜斉明天皇の系図
嬪 蘇我遠智娘(おちのいらつめ)/茅渟娘(ちぬのいらつめ)
中大兄皇子(天智天皇)の婚約者となった姉が異母弟に盗まれたため、身代わりとして妃になった。
嬪の父 蘇我石川麿→舒明天皇〜斉明天皇の系図
子 大田皇女・子 持統天皇→天武天皇・持統天皇の系図
子 建皇子(たける)【651−658】
話すことが不自由であったとされる。斉明天皇は、その死を悼み、自分の死後に合葬するように命じた。
嬪 蘇我姪娘(めいのいらつめ)/桜井娘(さくらいのいらつめ)
子 御名部皇女→高市皇子~石見王の系図
子 元明天皇・孫 元正天皇・文武天皇→文武天皇〜孝謙天皇・称徳天皇の系図
嬪 阿倍橘娘(たちばなのいらつめ)【?−681】
嬪の父 阿倍内麿→舒明天皇の系図〜斉明天皇の系図
子 飛鳥皇女(あすか)【?−700】
『万葉集』には、皇女が亡くなった際に柿本人麻呂が詠んだ歌が収められている。
子 新田部皇女→天武天皇・持統天皇の系図
孫 舎人親王→舎人親王・淳仁天皇の系図
嬪 蘇我常陸娘(ひたちのいらつめ)
嬪の父 蘇我赤兄(あかえ)
左大臣。有間皇子に謀反を勧め、その一方で密告した。大友皇子を補佐し、壬申の乱で捕らえられて配流された。
子 山辺皇女→天武天皇・持統天皇の系図
宮人 忍海色夫古娘(しこぶこのいらつめ)
宮人の父 忍海小竜(おたつ)
子 大江皇女→天武天皇・持統天皇の系図
子 川島皇子(かわしま)【657−691】
吉野宮での盟約に参加したほか、大津皇子の謀反を密告した。また、帝紀及び上古諸事の記定にあたった。
子の妻 泊瀬部皇女(はつせべ)【?−741】
天武天皇(→天武天皇・持統天皇の系図)の皇女。
子 泉内親王(いずみ)【?−734】
伊勢斎宮。
宮人 栗隈黒媛娘(くろひめのいらつめ)
宮人の父 栗隈徳万(とこまろ)
子 水主内親王(もいとり・みぬし)【?−737】
仏教を篤く信仰し、弘福寺に財物を寄進した。
宮人 道伊羅都売(いらつめ)
子 施基皇子→施基皇子の系図
孫 光仁天皇→光仁天皇の系図
宮人 宅子娘(やかこのいらつめ)
伊賀国の采女。
子 弘文天皇→弘文天皇の系図
施基皇子の系図
施基皇子(しき)【?−716】
吉野の盟約に参加した。万葉歌人としても知られる。
祖父 舒明天皇・祖母 皇極天皇→舒明天皇〜斉明天皇の系図
父 天智天皇→天智天皇の系図
妃 多紀内親王(たき)【?−751】
斎宮。
妃の父 天武天皇→天武天皇・持統天皇の系図
子 春日王(かすが)
孫 安貴王(あき)
子に能登内親王(→光仁天皇の系図)を妻にした市原王がいる。
妃 紀橡姫(とちひめ)【?−709】
妃の父 紀諸人(もろひと)
子 難波内親王(なにわ)【?−773】
子 光仁天皇→光仁天皇の系図
孫 桓武天皇→桓武天皇の系図
子 壱志王(いちし)
子 海上女王(うなかみ)
子 湯原親王(ゆはら)
孫 壱志濃王(いちしの)【733−805】
大納言。
孫 尾張女王→光仁天皇の系図
子 榎井親王(えのい)
孫 神王(みわ)【737−806】
右大臣。桓武朝の政界で天皇をよく輔けた。
子 衣縫内親王(きぬぬい)
子 坂合部内親王(さかいべ)【?−778】
弘文天皇の系図
第39代 弘文天皇(こうぶん)/大友皇子(おおとも)/伊賀皇子(いが)【648−672/在位:671−672】
太政大臣。天智天皇崩御後、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に敗れた。明治3年、歴代天皇に加えられた。
祖父 舒明天皇・祖母 皇極天皇→舒明天皇〜斉明天皇の系図
父 天智天皇→天智天皇の系図
妃 十市皇女(とおち)【?−678】
妃の父 天武天皇→天武天皇・持統天皇の系図
子 葛野王(かどの)【669−705】
高市皇子没後、弓削皇子の発言を抑えて文武天皇の擁立に寄与した。
孫 池辺王(いけべ)
妃 藤原耳面刀自(みみのもとじ)
妃の父 藤原鎌足→藤原鎌足の系図
子 壱志姫王(いちし)
子 与多王(よた)
天武天皇・持統天皇の系図
第40代 天武天皇(てんむ)/大海人皇子(おおあま・おおしあま)/天渟中原瀛真人尊(あまのぬなはらおきのまひと)【?−686/在位:673−686】
壬申の乱で大友皇子に勝利して即位した。中央集権体制を確立しようと努め、八色の姓を制定するなどした。
祖父 押坂彦人大兄皇子→押坂彦人大兄皇子・茅渟王の系図
父 舒明天皇・母 皇極天皇(斉明天皇)→舒明天皇〜斉明天皇の系図
皇后・第41代 持統天皇(じとう)/鸕野讃良皇女(うのささら)/高天原広野姫尊(たかまのはらひろのひめ)【645−702/在位:690−697(称制:686−690)】
女帝。天武天皇の方針を継承し、飛鳥浄御原令を施行したほか、中国の様式に倣って造った藤原京に遷都した。
皇后の父 天智天皇→天智天皇の系図
皇后の祖父 舒明天皇・皇后の祖母 皇極天皇(斉明天皇)→舒明天皇〜斉明天皇の系図
子 草壁皇子(くさかべ)/日並知皇子尊(ひなみしのみこ)【662−689】
皇后所生の皇子として重きを占め、皇太子になったが若くして亡くなった。
孫 元正天皇・文武天皇→文武天皇〜孝謙天皇・称徳天皇の系図
孫 吉備内親王→高市皇子~石見王の系図
妃 大田皇女(おおた)
子 大伯皇女(おおく)/大来皇女【661−701】
斎宮。名前は、船で百済救援に向かう途中、大伯海に至った時に産まれたことに因む。
子 大津皇子(おおつ)【663−686】
名前は、筑紫の娜大津で産まれたことに因むとされる。天武朝では皇太子・草壁皇子に次ぐ地位にあったが、その後謀反を企てたとして死を賜った。
子の妻 山辺皇女(やまべ)【?−686】
天智天皇(→天智天皇の系図)の皇女。夫の後を追い、殉死した。
孫 粟津王(あわづ)
妃 大江皇女(おおえ)【?−699】
子 長皇子(なが)【?−715】
孫 長田王(ながた)【?−737】
孫 栗栖王(くるす)【682−753】
従三位。
孫 文室浄三(きよみ)/智努王【693−770】
大納言。
孫 広瀬女王(ひろせ)
孫 智努女王(ちぬ)
孫 文室大市(おおち)/邑珍【704−780】
大納言。
孫 川内王(かわち)
従三位。
子 弓削皇子(ゆげ)【?−699】
高市皇子の没後、皇嗣を巡る朝議で発言しようとしたところ、葛野王に制せられたとされる。
妃 新田部皇女(にいたべ)【?−699】
子 舎人親王・孫 淳仁天皇→舎人親王・淳仁天皇の系図
夫人 藤原氷上娘(ひかみのいらつめ)【?−682】
夫人の父 藤原鎌足→藤原鎌足の系図
子 但馬皇女(たじま)【?−708】
夫人 藤原五百重娘(いおえのいらつめ)
子 新田部親王(にいたべ)【?−735】
舎人親王とともに政界に重きをなした。藤原不比等の没後には、知五衛及授刀舎人事として軍事を統括した。
孫 塩焼王(しおやき)/氷上塩焼【?−764】
不破内親王(→文武天皇〜孝謙天皇・称徳天皇の系図)を妻とした。橘奈良麿の乱に加わるも許された。藤原仲麿の乱では今帝と称し、斬刑に処された。
孫 道祖王(ふなど)【?−757】
聖武天皇の遺詔で皇太子に立てられたが、振る舞いに問題があったため廃された。
夫人 石川大蕤娘(おおぬのいらつめ)/石川大蕤比売(おおぬひめ)【?−724】
夫人の父 蘇我赤兄→天智天皇の系図
子 穂積親王(ほづみ)【?−715】
知太政官事。
孫 境部王(さかいべ)/坂合部王
子 紀皇女(き)
子 田形内親王(たかた)【?−728】
斎宮。
子の夫 六人部王(むとべ)【?−729】
孫 笠縫女王(かさぬい)
後宮 額田王(ぬかた)
万葉歌人。天智天皇の後宮にも召されたとされる。
後宮の父 鏡王(かがみ)
子 十市皇女→弘文天皇の系図
宮人 胸形尼子娘(あまこのいらつめ)
宮人の父 胸形徳善(とくぜん)
子 高市皇子・孫 長屋王→高市皇子~石見王の系図
宮人 宍人〓(「木」+「穀」)媛娘(かじひめのいらつめ)
宮人の父 穴人大麻呂(おおまろ)
子 刑部親王(おさかべ)/忍壁親王【?−705】
知太政官事。大宝律令の制定に携わった。
孫 山前王(やまくま・やまさき)【?−723】
孫 小長谷女王(おはせ)【?−767】
子 磯城皇子(しき)
子 泊瀬部皇女→天智天皇の系図
子 多紀内親王→施基皇子の系図
孫 御方大野(おおの)
文武天皇〜孝謙天皇・称徳天皇の系図
文武天皇
第42代 文武天皇(もんむ)/軽皇子(かる)/天之真宗豊祖父天皇(あまのまむねとよおおじ)【683−707/在位:697−707】
大宝律令の施行や遣唐使の派遣などで律令政治を推し進めた。
祖父 天武天皇・父 草壁皇子→天武天皇・持統天皇の系図
夫人 藤原宮子(みやこ・きゅうし)【?−754】
聖武天皇を産んでから長年病を患っていたが、玄昉の看護により癒えたとされる。
夫人の父 藤原不比等→藤原不比等の系図
嬪 石川刀子娘(とすのいらつめ)
高円広成・高円広世は、天皇と刀子娘の子とする説がある。
嬪 紀竈門娘(かまどのいらつめ)
元明天皇
第43代 元明天皇(げんめい)/阿閉皇女(あべ)/日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)【661−721/在位:707−715】
女帝。文武天皇の遺詔により、首親王(聖武天皇)の即位を実現するための中継ぎとして即位した。
祖父 舒明天皇→舒明天皇〜斉明天皇の系図
父 天智天皇→天智天皇の系図
夫 草壁皇子→天武天皇・持統天皇の系図
子 吉備内親王→高市皇子~石見王の系図
元正天皇
第44代 元正天皇(げんしょう)/氷高内親王(ひだか)/日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたかみずきよたらしひめ)【680−748/在位:715−724】
女帝。首親王(おびと)が幼年のため、中継ぎとして即位した。三世一身法を施行した。
聖武天皇
第45代 聖武天皇(しょうむ)/首親王(おびと)/天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)【701−756/在位:724−749】
仏教興隆に尽くし、国分寺建立の詔や大仏造立の詔を出した。藤原広嗣の乱の後には、遷都を繰り返した。
皇后 藤原光明子(こうみょうし)/安宿媛(あすかべひめ)【701−760】
長屋王の変後、慣習を破って臣下でありながら皇后になった。仏教に帰依したほか、社会救済事業として施薬院・悲田院を設けた。
子 基王(もとい)【727−728】
生後まもなく皇太子になったが夭折した。
夫人 県犬養広刀自(ひろとじ)【?−762】
夫人の父 県犬養唐(もろこし)
子 安積親王(あさか)【728−744】
脚の病気で若くして亡くなった。基王が亡くなった後、天皇の唯一の皇子であったため、暗殺されたとの説がある。
子 井上内親王→光仁天皇の系図
子 不破内親王(ふわ)
氷上志計志麿を皇位につけようと称徳天皇を呪詛し、京外に追放された。後に、氷上川継の謀反に連座して淡路に流された。
子の夫 塩焼王→天武天皇・持統天皇の系図
孫 氷上志計志麿(しけしまろ)
称徳天皇を呪詛したとして土佐に流された。
孫 氷上川継(かわつぐ)
謀反をはかったとして伊豆に流された。藤原浜成の娘・法壱(→藤原麿・浜成の系図)を妻にした。
夫人 橘古那可智(こなかち)【?−759】
東大寺大仏開眼会では宝物を献納し、法隆寺には調度などを奉納した。
夫人の父 橘佐為(さい)【?−737】
聖武天皇の教育係を勤めた。娘・真都我は藤原乙麿(→藤原乙麿の系図)の妻になった。
夫人 藤原南夫人(みなみのぶにん)【?−748】
夫人の父 藤原武智麿→藤原武智麿の系図
夫人 藤原北夫人(きたのぶにん)【?−760】
夫人の父 藤原房前→藤原房前の系図
孝謙天皇(称徳天皇)
第46代 孝謙天皇(こうけん)/第48代 称徳天皇(しょうとく)/阿倍内親王(あべ)【718−770/在位:749−758・764−770】
女帝。当初は藤原仲麿を重く用いたが、道鏡を寵愛したことで不和になった。藤原仲麿の乱後、重祚して道鏡を重く用いた。
舎人親王・淳仁天皇の系図
舎人親王(とねり)【676−735】
知太政官事。『日本書紀』の編纂を主宰した。
祖父 舒明天皇・祖母 皇極天皇(斉明天皇)→舒明天皇〜斉明天皇の系図
父 天武天皇→天武天皇・持統天皇の系図
祖父 天智天皇→天智天皇の系図
妻 当麻山背(やましろ)
淳仁天皇が廃された際、天皇とともに淡路に流された。
子 三原王(みはら)/御原王【?−752】
正三位。
孫 和気王(わけ)【?−765】
参議。藤原仲麿の謀反を密告した。その後、謀反をはかったとして伊豆に流されることになり、その途中に殺された。
孫 弓削女王(ゆげ)
夫・三方王らとともに桓武天皇を呪詛したとされ、日向に流された。
孫 細川王(ほそかわ)
孫 山口王(やまぐち)
孫 長津王(ながつ)
淳仁天皇の廃位により、丹後に流された。
孫 小倉王(おぐら)
臣籍降下して清原真人を称した。子に清原夏野(→淳和天皇の系図)がいる。
孫 石浦王(いしうら)
孫 小宅女王(おやけ)
斎宮。
子 三嶋王(みしま)
孫 林王(はやし)
孫 川辺女王(かわべ)【?−810】
淳仁天皇の廃位により、伊豆に流された。
孫 葛女王(かずら)
淳仁天皇の廃位により、伊豆に流された。
孫 山慢女王→藤原仲麿の系図
子 船王(ふね)
従三位。橘奈良麿の乱では、関わった人物の取り調べを行った。藤原仲麿の乱に加わり、隠岐に流された。
孫 葦田王(あしだ)
子 池田王(いけだ)
従三位。藤原仲麿の乱に連座し、土佐に流された。
子 守部王(もりべ)
孫 笠王(かさ)
淳仁天皇の廃位により、丹後に流された。
孫 何鹿王(いかるが)
淳仁天皇の廃位により、丹後に流された。
孫 為奈王(いな)
淳仁天皇の廃位により、丹後に流された。
子 飛鳥田女王(あすかだ)【727頃−782】
子 室女王(むろ)
第47代 淳仁天皇(じゅんにん)/大炊王(おおい)【733−765/在位:758−764】
藤原仲麿を重用し、恵美押勝の名を与えた。藤原仲麿が失脚すると、皇位を追われて淡路に流された。明治3年、歴代天皇に加えられた。
妃 粟田諸姉(もろえ・もろね)
妃の夫 藤原真従→藤原仲麿の系図
子 安部内親王→高市皇子~石見王の系図
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。