このページでは、三浦氏(桓武平氏・良文流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
三浦為通~義継の系図
三浦為通(ためみち)【?-1083】
祖父 良文・父 忠通→平良文の系図
子 為俊(以下、『系図纂要』による。)
孫 公俊
実は藤原公清の子。
三浦為継(ためつぐ)【?-1108】
父は平孝輔(→平良文の系図)、平公義(→高見王・平高望の系図)とも。
三浦義継(よしつぐ)【1067-1159】
子 義明→三浦義明の系図
孫 杉本義宗→杉本義宗の系図
孫 義澄→三浦義澄の系図
子 津久井義行・芦名為清→津久井義行・芦名為清の系図
子 岡崎義実→岡崎義実の系図
津久井義行・芦名為清の系図
津久井義行(よしゆき)
祖父 為継・父 義継→三浦為通~義継の系図
曾孫 義高【1125-1163】
為高孫 為広【?-1600】
関ヶ原の戦いで戦死した。
芦名為清(ためきよ)
岡崎義実の系図
岡崎義実(よしざね)【1112-1200】
伊豆に配流された源頼朝に側近として仕えた。
祖父 為継・父 義継→三浦為通~義継の系図
妻 中村宗平の娘
妻の父 中村宗平→中村宗平の系図
子 真田義忠(よしただ)【1156-1180】
石橋山の戦いで先陣をつとめ、戦死した。
孫 実忠【?-1213】
和田氏の乱で戦死した。
曾孫 義国【?-1213】
和田氏の乱で戦死した。
曾孫 実村【?-1213】
和田氏の乱で戦死した。
実久孫 忠明【?-1333】
子 土屋義清(よしきよ)【?-1213】
和田氏の乱で戦死した。
曾孫 実政
父は真田実綱とも。
三浦義明の系図
三浦義明(よしあき)【1092-1180】
石橋山の戦いの後、畠山重忠らに衣笠城を攻められた際に、一族を脱出させて討ち死にした。
祖父 為継・父 義継→三浦為通~義継の系図
子 大多和義久(『系図纂要』による。)→大多和義久の系図
子 多々良義春(『系図纂要』による。)→多々良義春の系図
子 重行(『寛政重修諸家譜』による。)
子 佐原義連→佐原義連の系図
子の夫 畠山重能(『系図纂要』による。)→畠山重能の系図
子の夫 金田頼治(『系図纂要』による。)
曾孫 義茂・朝義(『系図纂要』による。)
曾孫 義泰(以下、『系図纂要』による。)
杉本義宗の系図
杉本義宗(よしむね)【1125-1163】
祖父 義継→三浦為通~義継の系図
父 義明→三浦義明の系図
子 和田義盛(よしもり)【1147-1213】
源頼朝の挙兵に参加し、以降頼朝に近侍した。侍所別当を務め、十三人の合議制の一人になった。北条氏との対立を深め、和田氏の乱で敗死した。
孫 常盛(つねもり)【1172-1213】
弓の名手。和田氏の乱で敗れて甲斐に逃れ、自害した。
曾孫 朝盛(とももり)(以下、『系図纂要』による。)
和田氏の乱後は上洛し、承久の乱では朝廷方についた。和歌にもすぐれた。
孫 朝比奈義秀(よしひで)【1176-?】
泳ぎをよくした。和田氏の乱では安房に敗走れた。
曾孫 重弘(『系図纂要』による。)
孫 義信(以下、『系図纂要』による。)
義信孫 業繁【?-1575】
武田氏に従い、長篠の戦いで討ち死にした。
義信孫 信業【?-1590】
実は跡部勝資の子。北条氏に従った。
孫 杉浦義国(以下、『系図纂要』による。)
孫 義氏・義直・義重・秀盛(『系図纂要』による。)
子 和田義茂(『系図纂要』による。)→和田義茂の系図
子 宗実(以下、『系図纂要』による。)
孫 高井重茂〔養父:和田義茂〕→和田義茂の系図
子 義胤(以下、『系図纂要』による。)
曾孫 秀村
父は杉本胤重とも。
子 義長(以下、『系図纂要』による。)
孫 胤長(たねなが)【1183-1213】
弓の名手。泉親衡の乱に加担したとして陸奥に流され、和田氏の乱の後に殺された。
子の夫 加賀美遠光→加賀美遠光の系図
孫 小笠原長清→小笠原長清の系図
孫 南部光行→南部光行・実光の系図
和田義茂の系図
和田義茂(よしもち)(以下、『系図纂要』による。)
弓の名手。落馬して亡くなったという。
子 高井重茂(しげもち)【?-1213】
実は杉本宗実(→杉本義宗の系図)の子。和田氏の乱では幕府側として戦い、朝比奈義秀に討たれた。
孫 時茂(ときもち)【?-1277】
時茂孫 茂行/茂明
三浦義澄の系図
三浦義澄(よしずみ)【1127-1200】
源範頼に従って平氏の追討に当たった。鎌倉幕府成立後は、十三人の合議制の一人に加えられた。
祖父 義継→三浦為通~義継の系図
父 義明→三浦義明の系図
妻 伊東祐親の娘
妻の父 伊東祐親→伊東祐家・祐親・工藤茂光の系図
子 義村→三浦義村の系図
孫 家村→三浦家村~正重の系図
子 胤義(たねよし)【?-1221】〔養父:源頼朝(→源頼朝の系図)〕(以下、『系図纂要』による。)
承久の乱で上皇方について敗れ、木島社で自害した。
子 有綱(以下、『系図纂要』による。)
孫 義有/氏有
子 重澄(以下、『系図纂要』による。)
孫の夫 北条政村→北条政村・有時の系図
子 友澄(以下、『系図纂要』による。)
子の夫 安西三郎(『系図纂要』による。)
子の夫 天野政景(『系図纂要』による。)→天野政景の系図
子の夫 千葉秀胤(『系図纂要』による。)→千葉秀胤の系図
子の夫 大河戸広行(『系図纂要』による。)→大河戸広行の系図
三浦義村の系図
三浦義村(よしむら)【?-1239】
梶原景時を追放し、御家人として北条氏に継ぐ地位を確立した。
祖父 義明→三浦義明の系図
父 義澄→三浦義澄の系図
祖父 伊東祐親→伊東祐家・祐親・工藤茂光の系図
妻 土肥遠平の娘
妻の父 土肥遠平→土肥遠平の系図
子 泰村(やすむら)【?-1247】
北条氏と姻戚関係を結んで関係を強固にしたが、宮騒動以降は対立が表面化し、三浦氏の乱で北条氏に敗れて自害した。
子の妻 北条泰時の娘
子の妻の父 北条泰時→北条泰時~時頼の系図
孫 沼田景泰(『系図纂要』による。)→沼田景泰の系図
孫 景村・駒孫丸・駒鶴丸・駒在丸・有駒丸・駒若丸・駒増丸・皆駒丸(『系図纂要』による。)
孫の夫 小田奥太郎(『系図纂要』による。)
子 光村(みつむら)【1205-1247】(以下、『系図纂要』による。)
将軍九条頼経の側近として活躍し、宮騒動にも関わった。後に三浦氏の乱で敗れて自害した。
子 朝村(以下、『系図纂要』による。)
孫 氏村/俊村
子 家村・孫 義行(『系図纂要』による。)→三浦家村~正重の系図
子 胤村(以下、『系図纂要』による。)
孫 源喩(『寛政重修諸家譜』による。)
曾孫 幸村・維村・家村・曾孫 頼村の娘(2人)
父は三浦胤村とも。
子 良賢(りょうけん)(『系図纂要』による。)
三浦氏の乱の後、謀反の疑いで幕府に捕らえられた。
子 矢部禅尼→北条泰時~時頼の系図・佐原盛連の系図
子 資村・長村・重村・重時・子 律の尼(『系図纂要』による。)
子の夫 小笠原太郎・関政泰(『系図纂要』による。)
子の夫 毛利季光(『系図纂要』による。)→毛利季光~貞親の系図
子の夫 千葉秀胤(『系図纂要』による。)→千葉秀胤の系図
子の夫 藤原親季(『系図纂要』による。)→藤原親能・定季の系図
三浦家村~正重の系図
三浦家村(いえむら)(以下、『系図纂要』による。)
子の夫 佐竹八郎(『寛政重修諸家譜』による。)
三浦朝常(ともつね)/朝経
三浦朝胤(ともたね)
父は『寛政重修諸家譜』による。『系図纂要』では三浦行経。
三浦正胤(まさたね)
父は三浦朝常とも。
三浦正重(まさしげ)
妻 土井利昌の娘
妻の父 土井利昌→土井利昌の系図
子 正次・孫 安次→三浦正次・安次の系図
孫 共次→三浦共次~梐次の系図
子 正広・義純・春定
母は『寛政重修諸家譜』による。
三浦正次・安次の系図
三浦正次(まさつぐ)【1599-1641】
下総国矢作藩、下野国壬生藩主。
祖父 政村・父 正重→三浦家村~正重の系図
祖父 土井利昌→土井利昌の系図
妻 堀直之の娘
妻の父 堀直之→堀直之・直景の系図
子 共次・孫 便次→三浦共次~梐次の系図
子 静子→鳥居忠春~忠英・忠辰~忠紀の系図
子の夫 本多政朝→本多政朝~政房の系図
子の夫 遠山伊次→遠山伊次の系図
子の夫 奥田忠虎→奥田忠虎の系図
三浦安次(やすつぐ)【1633-1682】
壬生藩主。
妻 朽木稙綱の娘
妻の父 朽木稙綱→朽木稙綱の系図
子 明敬・孫 明喬→三浦明敬~明次の系図
子の夫 前田利広→前田利孝~利慶の系図
子の夫 土井利良→土井利直~利豊の系図
三浦共次~梐次の系図
三浦共次(ともつぐ)【1635-1690】
祖父 正重→三浦家村~正重の系図
父 正次→三浦正次・安次の系図
祖父 堀直之→堀直之の系図
子 藤松(『寛政重修諸家譜』による。)
三浦便次(やすつぐ)【1671-1727】
妻 酒井忠稠の娘
妻の父 酒井忠稠→酒井忠稠の系図
子 土井利庸〔養父:土井利意〕→土井利長~利信の系図
子 植村忠余〔養父:植村忠元〕→植村忠朝~泰通・忠元~千吉の系図
子 遠山忠次〔養父:遠山伊清〕(『寛政重修諸家譜』による。)→遠山忠次の系図
子 俊庸〔養父:俊信〕(『寛政重修諸家譜』による。)
子 与一郎・茂次・自次・兵部(『寛政重修諸家譜』による。)
子 便次の娘〔養父:土井利意〕(『土井家譜(三河刈谷)』による。)→土井利長~利信の系図
子の夫 池田長元(『寛政重修諸家譜』による。)→池田長賢~長休の系図
子の夫 宇津教保(『寛政重修諸家譜』による。)→宇津教保の系図
子の夫 横田清松(『寛政重修諸家譜』による。)→横田清松の系図
三浦梐次(よりつぐ)
妻 秋元貞朝の娘
妻の父 秋元貞朝→秋元貞朝の系図
子 員次(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
子 孫市・慶之助・虎之助・子 梐次の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
子の夫 根来盛庸(『寛政重修諸家譜』による。)→根来盛庸の系図
三浦明敬~明次の系図
三浦明敬(あきひろ)【1658-1725】
壬生藩、日向国延岡藩、三河国刈谷藩主。
祖父 正次・父 安次→三浦正次・安次の系図
妻 鍋島吉良
実は鍋島直能(→鍋島直能の系図)の娘。
妻の父 鍋島光茂→鍋島光茂の系図
子 左兵衛
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 田中満吉の娘
妻の父 田中満吉→田中満吉~京極高貞の系図
子 明胤
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 明敬の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
妻 三枝氏
子 義理〔養父:三浦明喬〕
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 重次(しげつぐ)【1683-1695】
子 明敬の娘(3人)(『寛政重修諸家譜』による。)
三浦明喬(あきたか)【1689-1726】
刈谷藩主。
妻 土屋政直の娘
実は土屋喬直(→土屋喬直~群直の系図)の娘。
妻の父 土屋政直→土屋数直・政直の系図
妻 鍋島久
実は鍋島元武(→鍋島元武の系図)の娘。
妻の父 鍋島吉茂→鍋島吉茂の系図
子 明次〔養父:三浦義理〕
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 百助・金次郎・子 明喬の娘
母は『寛政重修諸家譜』による。
三浦義理(よしさと)/義次/吉章【1696-1756】
刈谷藩、三河国西尾藩主。実は三浦明敬の子。
妻 富永氏
子 矩次〔養父:三浦明次〕→三浦矩次~毗次の系図
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 義理の娘
母は『寛政重修諸家譜』による。
子の夫 関盛有→関盛有の系図
子の夫 柴田勝房→柴田勝房の系図
子の夫 酒井忠儔→酒井忠寛~忠哲の系図
三浦明次(あきつぐ)/其次(ことつぐ)【1726-1797】
西尾藩、美作国勝山藩主。実は三浦明喬の子。
妻 松平輝規の娘
妻の父 松平輝規→松平信興~輝高の系図
妻 内藤政樹の娘
妻の父 内藤政樹→内藤政樹~政挙の系図
夫 小出有相→小出有相の系図
妻 神原氏
子 前次〔養父:三浦矩次〕→三浦矩次~毗次の系図
母は『寛政重修諸家譜』による。
子の夫 石川総孝→石川総候~総管の系図
妻 矢野氏
子 守次・貢・登
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 矩次・孫 前次→三浦矩次~毗次の系図
子の夫 酒井忠言→酒井忠言~忠経の系図
子の夫 皆川庸清→皆川庸清の系図
三浦矩次~毗次の系図
三浦矩次(のりつぐ)【1747-1780】
勝山藩主。実は三浦義理(→三浦明敬~明次の系図)の子。
祖父 義理・父 明次→三浦明敬~明次の系図
妻 松平乗佑の娘
妻の父 松平乗佑→松平乗佑の系図
子 毗次〔養父:三浦前次〕
三浦前次(ちかつぐ)【1757-1817】
勝山藩主。実は三浦明次(→三浦明敬~明次の系図)の子。
妻 稲垣昭央の娘
妻の父 稲垣昭央→稲垣昭央の系図
子 誠次〔養父:三浦毗次〕→三浦誠次~顕次の系図
子の夫 稲垣長続→稲垣長続の系図
妻 本多忠敞の娘
妻の父 本多忠敞→本多忠良~忠粛の系図
夫 植村家久→植村家道~家壺の系図
子 唯次・保之助
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 勝教〔養父:松田勝鋪(→松田勝鋪の系図)〕
子 義古〔養父:三浦義紹〕
子 恕次〔養父:速水正倚〕
子 前次の息子〔養父:伊達弾正〕
子 前次の娘
小笠原応恒に嫁ぐ予定であった。
子の夫 安部信操→安部信操の系図
子の夫 由良貞陰→由良貞陰の系図
子の夫 竹田公欽→竹田公欽の系図
子の夫 皆川庸郡→皆川庸郡の系図
子の夫 伊丹直道→伊丹直道の系図
子の夫 小出英亮→小出英亮の系図
三浦毗次(てるつぐ)【1779-1849】
勝山藩主。実は三浦矩次の子。
妻 阿部正倫の娘
妻の父 阿部正倫→阿部正倫の系図
子 誠次・孫 峻次→三浦誠次~顕次の系図
三浦誠次~顕次の系図
三浦誠次(のぶつぐ)【1782-1831】
勝山藩主。実は三浦前次(→三浦矩次~毗次の系図)の子。『系図纂要』では、小笠原貞中の妻と興津広精の妻を別人とする。
祖父 前次・父 毗次→三浦矩次~毗次の系図
妻 鍋島斉直の娘
実は鍋島治茂(→鍋島治茂の系図)の娘。
妻の父 鍋島斉直→鍋島斉直の系図
子 誠次の娘(2人)(『華族系譜』による。)
子の夫 堀之敏→堀直著~之美の系図
妻 岩淵氏
子 義次〔養父:三浦峻次〕
子 重器〔養父:金森重任〕
子 弘次〔養父:三浦朗次〕
子の夫 伊東祐相→伊東祐隆~祐帰の系図
三浦峻次(としつぐ)【1821-1839】
勝山藩主。
三浦義次(よしつぐ)/吉次【1826-1883】
勝山藩主。実は三浦誠次の子。
子 鉚之助・光三郎・子 義次の娘(『三浦家譜』による。)
三浦朗次(あきつぐ)【1830-1860】
勝山藩主。実は有馬徳純(→有馬允純~道純の系図)の子。
子 亀千代・練之助(『三浦家譜』による。)
三浦弘次(ひろつぐ)【1827-1886】
勝山藩主。実は三浦誠次の子。
子 寛・子 弘次の娘(2人)(『三浦家譜』による。)
三浦顕次(たかつぐ・あきつぐ)【1847-1895】
勝山藩主。幕長戦争に出陣した。
妻 土井利則の娘
妻の父 土井利則→土井利厚~利与の系図
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。