相良氏(藤原氏南家・乙麿流)の系図

系図のメモ帳
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 このページでは、相良氏(藤原氏南家・乙麿流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。

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相良氏(肥後国人吉藩主)の略系図

相良氏の略系図

1 時文工藤時文~相良長頼の系図
10 頼親相良頼親~頼広の系図
14 定頼相良定頼~為続の系図
21 長毎相良長毎~晴広の系図
26 義陽相良義陽~頼喬の系図
31 頼福相良頼福~福将の系図
39 長寛相良長寛~頼基の系図

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工藤時文~相良長頼の系図

工藤時文~相良長頼の系図

  工藤時文(ときぶん)/為時(ためとき)(以下、『系図纂要』による。)

祖父 維幾藤原高扶~維幾の系図
 為憲工藤為憲・時理の系図


  工藤維兼(これかね)


  工藤維頼(これより)


  相良周頼(ちかより)
 遠江国相良に住んだ。


  相良光頼(みつより)
 実は伊東祐光(→伊東祐時~貞祐の系図)の子。


  相良頼寛(よりひろ)
 頼繁
 父は相良頼寛(『寛政重修諸家譜』)とも。


  相良頼繁(よりしげ)
 父は相良時邑(『系図纂要』)とも。


  相良頼景(よりかげ)
 頼平頼忠頼綱長綱(『相良家譜』による。)
子の夫 新堀頼兼(『相良家譜』による。)

 頼重(よりしげ)
 肥後国泉新荘を巡って長頼と争った。


  相良長頼(ながより)【1177-1254】
 源頼朝に仕えた。畠山合戦で戦功を上げ、肥後国人吉荘の地頭になった。
 頼親 頼俊相良頼親~頼広の系図
 頼俊〔養父:相良頼親〕→相良頼親~頼広の系図
 犬童頼員(よりかず)
 弘安の役で活躍した。
 重永
 実は相良長綱の子。
 長頼の娘(『相良家譜』による。)
子の夫 犬童長縄(『相良家譜』による。)

頼村孫 直頼
直頼の妻 相良長続の娘
 母は『寛政重修諸家譜』による。
直頼の妻の父 相良長続相良定頼~為続の系図

頼村孫 相良晴広〔養父:相良義滋〕→相良長毎~晴広の系図

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相良頼親~頼広の系図

相良頼親~頼広の系図

  相良頼親(よりちか)/頼宗(よりむね)【1197-1264】
 源実朝に仕え、実朝の暗殺後に出家した。

祖父 頼景 長頼工藤時文~相良長頼の系図

頼明孫 相良長続〔養父:相良尭頼〕→相良定頼~為続の系図


  相良頼俊(よりとし)
 実は相良長頼(→工藤時文~相良長頼の系図)の子。文永・弘安の役で活躍した。


  相良長氏(ながうじ)
 人吉荘北方の地頭職の地位を取り戻した。
 竹下氏泰/長満
 朝氏(『相良家譜』による。)


  相良頼広(よりひろ)
 定頼 前頼相良定頼~為続の系図

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相良定頼~為続の系図

相良定頼~為続の系図

  相良定頼(さだより)【?-1372】

祖父 長氏 頼広相良頼親~頼広の系図

 丸野頼豊/頼成
 青井前成〔養父:青井前清〕
 『寛政重修諸家譜』によれば、頼範が定頼の子で青井前清の養子となった。


  相良前頼(さきより)【?-1394】
 南朝方として戦い、島津元久と戦って討ち死にした。
 前頼の娘(『寛政重修諸家譜』による。)


  相良実長(さねなが)/頼茂(よりしげ)【?-1417】


  相良前続(さきつぐ)【?-1443】


  相良尭頼(たかより)【1433-1448】


  相良長続(ながつぐ)【1411-1468】
 実は永留実重(→相良頼親~頼広の系図)の子。
 頼金
 母は『寛政重修諸家譜』による。
 長定〔養父:相良長祇〕→相良長毎~晴広の系図

 頼幡頼泰
 母は『寛政重修諸家譜』による。
子の夫 上村直頼工藤時文~相良長頼の系図


  相良為続(ためつぐ)【1447-1500】
 母は『寛政重修諸家譜』による。名和顕忠から八代の古麓城を奪うも、菊池武運に敗れた。連歌にもすぐれた。
 長毎 長祇相良長毎~晴広の系図
 若松(『相良家譜』による。)
 頼廉〔養父:相良直頼〕
 為続の娘(『寛政重修諸家譜』による。)

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相良長毎~晴広の系図

相良長毎~晴広の系図

  相良長毎(ながつね)/長輔(ながすけ)【1469-1518】

祖父 長続 為続相良定頼~為続の系図

 伊東祐国の娘
妻の父 伊東祐国伊東祐尭~義祐の系図

 長倉氏
 長隆
 母は『相良家譜』による。

 豊永氏
 義滋〔養父:相良長定〕
 母は『相良家譜』による。
 長毎の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
 母は『相良家譜』による。


  相良長祇(ながただ)/長聖(ながきよ)【1501-1525】
 伊東尹祐の娘
妻の父 伊東尹祐伊東祐尭~義祐の系図


  相良長定(ながさだ)【?-1531】
 実は相良頼金(→相良定頼~為続の系図)の子。


  相良義滋(よししげ)/長唯(ながただ)【1489-1546】
 実は相良長毎の子。八代に鷹ヶ峰城を築いた。
子の夫 相良義陽(『寛政重修諸家譜』による。)→相良義陽~頼喬の系図
子の夫 菱川重任阿蘇惟前東郷相模守(『相良家譜』による。)


  相良晴広(はるひろ)/頼重(よりしげ)/長為(ながため)/為清(ためきよ)【1513-1555】
 実は上村頼興(→工藤時文~相良長頼の系図)の子。相良氏法度二十一カ条を制定した。
 上田織部允女
 義陽 忠房相良義陽~頼喬の系図

 恒松氏
 頼定/頼貞
 母は『相良家譜』による。
 晴広の娘
 母は『相良家譜』による。上村長陸に嫁いだ。

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相良義陽~頼喬の系図

相良義陽~頼喬の系図

  相良義陽(よしひ)/頼房(よりふさ)/義頼(よしより)【1544-1581】
 母は『寛政重修諸家譜』による。水俣城で島津義久に敗れた。後に甲斐宗運との戦いで戦死した。

祖父 義滋 晴広相良長毎~晴広の系図

 相良義滋の娘
妻の父 相良義滋相良長毎~晴広の系図
 義陽の娘(3人)(『寛政重修諸家譜』・『相良家譜』による。)

 豊永下総の娘
 長毎〔養父:相良忠房〕
 母は『寛政重修諸家譜』による。
 長誠
 母は『相良家譜』による。


  相良忠房(ただふさ)【1572-1585】
 母は『寛政重修諸家譜』による。


  相良長毎(ながつね)/頼房(よりふさ)【1574-1636】
 肥後国人吉藩主。実は相良義陽の子。関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、東軍に翻り、本領を安堵された。
 秋月種実の娘
妻の父 秋月種実→秋月種実の系図
 長秀(ながひで)/頼在(よりあり)
 母は『寛政重修諸家譜』による。
 頼福〔養父:相良頼喬〕→相良頼福~福将の系図
 長秀の娘〔養父:万江長矩〕

 長毎の娘(2人)
 母は『寛政重修諸家譜』による。


  相良頼寛(よりひろ)/頼尚(よりなお)【1600-1667】
 人吉藩主。島原の乱では名代を派遣した。
 犬童氏
 頼利/頼在
 母は『相良家譜』による。

 鷲尾隆尚の娘
妻の父 鷲尾隆尚鷲尾隆尚~隆尹の系図

 相良頼兄の娘(『寛政重修諸家譜』による。)


  相良頼喬(よりたか)【1641-1703】
 人吉藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。球磨川の水利事業を手掛けた。
 相良長秀の娘
 頼泰(よりやす)/頼武/頼運【1662-1677】
 母は『寛政重修諸家譜』による。

 鷲尾隆量の娘
妻の父 鷲尾隆量鷲尾隆尚~隆尹の系図
 頼真(よりざね)【1671-1688】
 母は『寛政重修諸家譜』による。
 式部 頼喬の娘
 母は『寛政重修諸家譜』による。

 頼福 長興相良頼福~福将の系図

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相良頼福~福将の系図

相良頼福~福将の系図

  相良頼福(よりとみ)/長房(ながふさ)【1649-1720】
 人吉藩主。実は相良長秀(→相良義陽~頼喬の系図)の子。幕府の命により、利根川の改修を行った。

祖父 頼寛 頼喬相良義陽~頼喬の系図

 板倉重種の娘
 実は板倉重矩(→板倉重昌~重種の系図)の娘。
妻の父 板倉重種板倉重昌~重種の系図
 岩次郎数馬 頼福の娘(3人)
 母は『寛政重修諸家譜』による。


  相良長興(ながおき)/頼以(よりもち)【1693-1734】
 人吉藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。
 木下俊量の娘
妻の父 木下俊量→木下俊量の系図


  相良長在(ながあり)/長敞(ながあきら)【1703-1738】
 人吉藩主。実は相良頼福の子。
 秋月種弘の娘
妻の父 秋月種弘→秋月種弘の系図

 頼央〔養父:相良頼峰〕(『相良家譜』による。)
子の夫 前田利尚前田利尚~利昭の系図
子の夫 本多忠尭本多政信~忠尭の系図


  相良頼峰(よりみね)【1735-1758】
 人吉藩主。


  相良頼央(よりひさ)/滋氏(しげうじ)【1737-1759】
 人吉藩主。実は相良頼直の子。実父は相良長在(『相良家譜』)とも。鉄砲で暗殺された。


  相良晃長(みつなが)【1752-1762】
 人吉藩主。実は秋月種美(→秋月種美の系図)の子。


  相良頼完(よりさだ)【1749-1767】
 人吉藩主。実は鷲尾隆煕(→鷲尾隆長~隆聚の系図)の子。晃長よりも年長だったため、幕府には養子としてではなく、晃長の改名として届け出た。


  相良福将(とみもち)/友充(ともみつ)【1750-1769】
 人吉藩主。実は遠山友明(→遠山友明の系図)の子。
 長寛 頼徳相良長寛~頼基の系図

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相良長寛~頼基の系図

相良長寛~頼基の系図

  相良長寛(ながひろ)/政長(まさなが)/長泰(ながやす)【1751-1813】
 人吉藩主。実は池田宗政(→池田継政~治政の系図)の子。藩校の習教館を設立した。

祖父 頼完 福将相良頼福~福将の系図

 松平忠名の娘
妻の父 松平忠名→松平忠名の系図
 義休
 母は『寛政重修諸家譜』による。

 頼匡〔養父:相良頼直〕
 大島義徳〔養父:大島義和(→大島義和の系図)〕
 万江頼順〔養父:万江典純〕
 戸川達義〔養父:戸川達恒〕
子の夫 溝口直候→溝口直候の系図


  相良頼徳(よりのり)【1774-1856】
 人吉藩主。狂歌をよくした。
 松平銉姫
 松平頼謙(→松平頼謙~頼英の系図)の娘。
 松平定剛松平定剛~定法の系図
 頼徳の娘(2人)(『寛政重修諸家譜』による。)

 頼直〔養父:相良頼匡〕
 万江頼保〔養父:万江頼順〕
子の夫 相良頼為(『相良家譜』による。)


  相良頼之(よりゆき)/頼重【1798-1850】
 人吉藩主。
 亀井令/賀/可直【1803-1839】
 亀井矩賢(→亀井矩貞~茲監の系図)の娘。

 池田章政/政詮〔養父:池田政善(→池田政善の系図)、池田茂政〕→池田斉政~章政の系図
 頼基〔養父:相良長福〕
 貞四郎(『相良家譜』による。)
子の夫 宮原健吉相良淡海(『相良家譜』による。)


  相良長福(ながとみ)【1824-1855】
 人吉藩主。家老田代政典による藩政改革をすすめたが、茸山騒動で挫折した。
 大村純昌の娘
妻の父 大村純昌大村純保~純煕の系図

 頼紹〔養父:相良頼基〕(『相良家譜』による。)
 長福の娘(『相良家譜』による。)


  相良頼基(よりもと)【1841-1885】
 人吉藩主。実は相良頼之の子。寅助火事や丑年騒動に対処した。
 徳大寺実堅の娘
妻の父 徳大寺実堅徳大寺実祖~実則の系図

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系図について

 本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
 あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。

 系図はおおよそ次の方針で作成しています。

  • 系図に描画する人物の範囲について
     上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
     下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。
  • 人物の表示の区別について
     系図では、次の通り背景色を区別しています。
     (オレンジ)……天皇
     (緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
     (黄)……江戸時代の将軍・藩主
     (水色)……その他男性
     (ピンク)……その他女性
  • 養子・猶子について
     両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
     養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
     一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
     なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。
  • 正室・側室等について
     これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。
  • 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
     『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。
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