このページでは、醍醐天皇から後冷泉天皇までの系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
醍醐天皇・朱雀天皇の系図
醍醐天皇
第60代 醍醐天皇(だいご)/敦仁親王(あつぎみ)/維城親王【885-930/在位:897-930】
宇多天皇に引き続いて親政を行い、律令体制の維持を図った。その治世は延喜の治と称された。
祖父 光孝天皇→光孝天皇の系図
父 宇多天皇→宇多天皇の系図
祖父 藤原高藤→藤原高藤の系図
皇后 藤原穏子(やすこ・おんし)【885-954】
皇后の父 藤原基経→藤原良房・基経の系図
子 保明親王(やすあきら)/崇象親王【903-923】
立太子したが、若くして病で没した。
子の妻 藤原仁善子(にぜこ)【?-945】
藤原時平(→藤原時平の系図)の娘。
孫 慶頼王(よしより)【921-925】
立太子するも夭折した。
子の妻 藤原貴子(きし)【904-962】
藤原忠平(→藤原忠平の系図)の娘。
子の妻 藤原玄上の娘
子の妻の父 藤原玄上→藤原有統の系図
子 康子内親王→藤原師輔の系図
孫 藤原公季→藤原公季・実成の系図
子 村上天皇→村上天皇の系図
孫 冷泉天皇→冷泉天皇・花山天皇の系図
孫 円融天皇→円融天皇・一条天皇の系図
孫 為平親王→為平親王の系図
孫 具平親王→具平親王の系図
妃 為子内親王(ためこ)【?-899】
勧子内親王を生んで間もなく亡くなった。
妃の父 光孝天皇→光孝天皇の系図
子 勧子内親王(かんし)【899-?】
女御 源和子(わし)【?-947】
子 慶子内親王→宇多天皇の系図
子 常明親王・式明親王→常明親王・式明親王・兼明親王の系図
子 有明親王→有明親王・源守清の系図
子 韶子内親王→陽成天皇の系図
子 斉子内親王(ただこ・ときこ・せいし)【921-936】
斎宮。伊勢に下向する前に亡くなった。
女御 藤原能子(よしこ・のうし)【?-964】
女御の父 藤原定方→藤原定方の系図
女御の夫 藤原実頼→藤原実頼の系図
女御 藤原和香子(わかこ)
女御の父 藤原定国→藤原定国の系図
更衣 藤原桑子(そうし)
更衣の父 藤原兼輔→藤原利基・兼輔の系図
子 章明親王(のりあきら・しょうめい)【924-990】
孫 隆子女王(たかこ)【?-974】
斎宮。
孫 済子女王(なりこ・さいし)
斎宮。
孫 慶子女王(よしこ)
更衣 藤原淑姫(よしひめ)【?-969】
更衣の父 藤原菅根→藤原良尚・菅根の系図
子 長明親王(ながあきら)【913-953】
子 兼明親王→常明親王・式明親王・兼明親王の系図
子 源自明(よりあきら)【911-958】
参議。
子 英子内親王(ひでこ・えいし)【921-946】
斎宮。伊勢に下向する前に亡くなった。
更衣 源周子(ちかこ・しゅうし)【?-935】
更衣の父 源唱→源定の系図
子 勤子内親王→藤原師輔の系図
子 都子内親王(みやこ・くにこ・とし)【905-981】
子 雅子内親王→藤原師輔の系図
孫 藤原為光→藤原為光の系図
子 時明親王(ときあきら)【910-927】
子 源高明→源高明の系図
孫 忠賢→源忠賢~長季の系図
孫 俊賢→源俊賢の系図
孫 経房→源経房の系図
子 源兼子(けんし)
子 盛明親王→盛明親王~源道成の系図
更衣 源封子(かねこ・ふうし)
更衣の父 源旧鑑→是貞親王・源旧鑑・是恒・貞恒・是茂・香泉・友貞の系図
子 宣子内親王(のぶこ・せんし)【902-920】
斎院。
子 克明親王→克明親王・重明親王の系図
子 靖子内親王→藤原忠平の系図
更衣 藤原鮮子(せんし)【?-915】
更衣の父 藤原連永→藤原直道の系図
子 恭子内親王(きょうし)【902-915】
斎院。
子 代明親王→代明親王の系図
孫 源重光→源重光の系図
子 婉子内親王(えんし)【904-969】
斎院。
子 敏子内親王(としこ)【906-?】
更衣 満子女王(みつこ)【?-920】
子 修子内親王→陽成天皇の系図
子 普子内親王→源清平の系図
後宮 藤原伊衡の娘
後宮の父 藤原伊衡→藤原敏行の系図
子 源為明(ためあきら)【?-961】
後宮 源昇の娘
後宮の父 源昇→源融~宛の系図
子 重明親王→克明親王・重明親王の系図
後宮 源敏相の娘
子 源允明(すけあきら)【919-942】
子 源厳子(げんし)
朱雀天皇
第61代 朱雀天皇(すざく)/寛明親王(ゆたあきら)【923-952/在位:930-946】
病弱であり、在位中は藤原忠平が摂政・関白として執政した。
女御 煕子女王(ひろこ・きし)【?-950】
子 昌子内親王→冷泉天皇・花山天皇の系図
女御 藤原慶子(よしこ)【?-951】
女御の父 藤原実頼→藤原実頼の系図
克明親王・重明親王の系図
克明親王(かつあきら・よしあきら)/将順親王【903-927】
祖父 宇多天皇→宇多天皇の系図
父 醍醐天皇→醍醐天皇・朱雀天皇の系図
祖父 源旧鑑→是貞親王・源旧鑑・是恒・貞恒・是茂・香泉・友貞の系図
妻 藤原時平の娘
妻の父 藤原時平→藤原時平の系図
子 源博雅(ひろまさ)【918-980】
従三位。横笛・琵琶などの楽才があった。
孫 信義(のぶよし)
管絃の君と称された。
子 源清雅(きよまさ)
子 源正雅(ただまさ)
子 源助雅(すけまさ)
子 妍子女王(けんし)
重明親王(しげあきら)/将保親王【906-954】
日記『吏部王記』が伝わる。
祖父 源昇→源融~宛の系図
妻 藤原寛子(ひろこ・かんし)【906-945】
妻の父 藤原忠平→藤原忠平の系図
子 源邦正(くにまさ)
青白い顔色をしていたため、青侍従と呼ばれた。
子 徽子女王→村上天皇の系図
子 旅子女王(たびこ)/悦子女王【942-?】
斎宮。
妻 藤原登子→村上天皇の系図
妻の父 藤原師輔→藤原師輔の系図
子 源行正(ゆきまさ)
子 源信正(のぶまさ)
子 麗子女王(れいし)
子の夫 藤原朝光→藤原朝光・正光の系図
常明親王・式明親王・兼明親王の系図
常明親王(つねあきら)/将明親王【906-944】
祖父 宇多天皇→宇多天皇の系図
父 醍醐天皇→醍醐天皇・朱雀天皇の系図
祖父 光孝天皇→光孝天皇の系図
妻 藤原恒佐の娘
妻の父 藤原恒佐→藤原恒佐・懐忠の系図
子 源茂親(しげちか)
式明親王(のりあきら)【907-966】
妻 藤原玄上の娘
妻の父 藤原玄上→藤原有統の系図
夫 藤原敦忠→藤原敦忠の系図
子 源親頼(ちかより)
子 源親繁(ちかしげ)
兼明親王(かねあきら)【914-987】
はじめは臣籍に降り、左大臣に昇った後、親王とされた。
祖父 藤原菅根→藤原良尚・菅根の系図
子 伊陟(これただ)【938-995】
中納言。
村上天皇の系図
第62代 村上天皇(むらかみ)/成明親王(なりあきら)【926-967/在位:946-967】
醍醐天皇と同様に親政を行い、天暦の治と称された。
祖父 宇多天皇→宇多天皇の系図
父 醍醐天皇→醍醐天皇・朱雀天皇の系図
祖父 藤原基経→藤原良房・基経の系図
皇后 藤原安子(あんし)【927-964】
選子内親王を出産した数日後に亡くなった。
皇后の父 藤原師輔→藤原師輔の系図
子 承子内親王(よしこ・しょうし)【948-951】
子 冷泉天皇・孫 花山天皇→冷泉天皇・花山天皇の系図
孫 三条天皇→三条天皇の系図
子 輔子内親王(すけこ・ほし)【953-992】
斎宮。
子 資子内親王(すけこ・しし)【955-1015】
子 円融天皇・孫 一条天皇→円融天皇・一条天皇の系図
子 選子内親王(のぶこ・せんし)【964-1035】
57年にわたり斎院を務め、大斎院と称された。歌人としても著名。
女御 藤原述子(のぶこ・じゅっし)【933-947】
懐妊した際の疱瘡で亡くなった。
女御の父 藤原実頼→藤原実頼の系図
女御 徽子女王(よしこ・きし)【929-985】
斎宮。退下後に入内した。三十六歌仙の一人。
女御の父 重明親王→克明親王・重明親王の系図
子 規子内親王(のりこ・きし)【949-986】
斎宮。
女御 荘子女王(たかこ・しょうし)【930-1008】
代明親王(→代明親王の系図)の娘。
子 楽子内親王(やすこ・らくし)【952-998】
斎宮。
子 具平親王→具平親王の系図
孫 源師房→源師房の系図
女御 藤原芳子(よしこ・ほうし)【?-967】
寵愛され、藤原安子に妬まれた。『古今和歌集』をよく覚えていた。
女御の父 藤原師尹→藤原師尹の系図
子 昌平親王(まさひら)【956-961】
子 永平親王(ながひら)【965-988】
更衣 源計子(かずこ・けいし)
更衣の父 源庶明→斉世親王・敦慶親王の系図
子 理子内親王(まさこ・りし)【948-960】
子 盛子内親王→藤原顕光の系図
更衣 藤原祐姫(すけひめ)
更衣の父 藤原元方→藤原元方の系図
子 広平親王(ひろひら)【950-971】
子 緝子内親王(つぐこ・しゅうし)【?-970】
更衣 藤原正妃(まさひめ・せいひ)【?-967】
更衣の父 藤原在衡→藤原有頼~忠輔の系図
子 保子内親王→藤原兼家の系図
子 致平親王(むねひら)【951-1041】
子の妻 源雅信の娘
子の妻の父 源雅信→源雅信の系図
孫 源致信(むねのぶ)
孫 源成信(なりのぶ)〔養父:藤原道長(→藤原道長の系図)〕【979-?】
孫 永円(えいえん)【980-1044】
子 昭平親王(あきひら)【954-1013】
一度源姓を与えられた。娘に藤原公任(→藤原公任の系図)の妻がいる。
更衣 藤原脩子(ながこ・しゅうし)
更衣の父 藤原朝成→藤原定方の系図
更衣 藤原有序(ゆうじょ)
更衣の父 藤原有相→藤原恒佐・懐忠の系図
後宮 藤原登子(なりこ・とうし)【?-975】
藤原安子の同母妹。安子没後に後宮に入って寵愛された。
夫 重明親王→克明親王・重明親王の系図
冷泉天皇・花山天皇の系図
冷泉天皇
第63代 冷泉天皇(れいぜい)/憲平親王(のりひら)〔養子:昭登親王〕【950-1011/在位:967-969】
幼少期より異常な行動が見られた。その原因は藤原元方の祟りとされた。
祖父 醍醐天皇→醍醐天皇・朱雀天皇の系図
父 村上天皇→村上天皇の系図
祖父 藤原師輔→藤原師輔の系図
皇后 昌子内親王(まさこ・しょうし)【950-999】
皇后の父 朱雀天皇→醍醐天皇・朱雀天皇の系図
女御 藤原懐子(ちかこ・かねこ・かいし)【945-975】
女御の父 藤原伊尹→藤原伊尹・義孝の系図
子 宗子内親王(むねこ・そうし)【964-986】
子 尊子内親王→円融天皇・一条天皇の系図
女御 藤原超子(とおこ・ちょうし)【?-982】
女御の父 藤原兼家→藤原兼家の系図
子 光子内親王(みつこ)【973-975】
子 三条天皇→三条天皇の系図
子 為尊親王(ためたか)【977-1002】
和泉式部と恋愛関係にあったとされる。
子の妻 藤原伊尹の娘
子の妻の父 藤原伊尹→藤原伊尹・義孝の系図
子 敦道親王(あつみち)【981-1007】
恋仲であった和泉式部との歌の贈答が『和泉式部日記』に収められている。
子の妻 藤原済時の娘
子の妻の父 藤原済時→藤原済時の系図
孫 永覚(えいかく)
女御 藤原怤子(よしこ・ふし)
円融朝では尚侍を務めた。
女御の父 藤原師輔→藤原師輔の系図
花山天皇
第65代 花山天皇(かざん)/師貞親王(もろさだ)【968-1008/在位:984-986】
寵愛した藤原忯子の死を悼んでいたところ、藤原兼家らの陰謀により出家させられた。
女御 藤原忯子(よしこ・しし)【969-985】
天皇の寵愛を一身に受けるも、若くして亡くなった。忯子の死は天皇の出家の遠因になった。
女御の父 藤原為光→藤原為光の系図
女御 藤原姚子(よしこ・ちょうし)【971-989】
女御の父 藤原朝光→藤原朝光・正光の系図
女御 藤原諟子(ただこ・しし)【?-1035】
女御の父 藤原頼忠→藤原頼忠の系図
女御 婉子女王(よしこ・えんし)【972-998】
女御の父 為平親王→為平親王の系図
夫 藤原実資→藤原斉敏の系図
後宮 平祐之の娘
子 清仁親王・孫 康資王→清仁親王~源顕康の系図
後宮 平平子(ひらこ)
子 昭登親王(あきのり)〔養父:冷泉天皇〕【998-1035】
娘に藤原能長(→藤原能長の系図)の妻がいる。
子 覚源(かくげん)【1000-1065】
東寺長者。
子 深観(じんかん)【1001/1003-1050】
東寺長者。
円融天皇・一条天皇の系図
円融天皇
第64代 円融天皇(えんゆう)/守平親王(もりひら)【959-991/在位:969-984】
在位中は藤原氏内部の権力争いが熾烈を極めた。譲位後は出家し、御願寺の円融寺を営んだ。
祖父 醍醐天皇→醍醐天皇・朱雀天皇の系図
父 村上天皇→村上天皇の系図
祖父 藤原師輔→藤原師輔の系図
皇后 藤原媓子(こうし)【947-979】
皇后の父 藤原兼通→藤原兼通の系図
皇后 藤原遵子(のぶこ・じゅんし)【957-1017】
子がなかったため、素腹の后と称された。
皇后の父 藤原頼忠→藤原頼忠の系図
女御 藤原詮子(あきこ・せんし)/東三条院【962-1001】
出家にあたり東三条院の号を宣下された(女院のはじまり)。
女御の父 藤原兼家→藤原兼家の系図
女御 尊子内親王(たかこ)【966-985】
斎院。入内後には内裏が焼失した。
女御の父 冷泉天皇→冷泉天皇・花山天皇の系図
女御 藤原朝光の娘
女御の父 藤原朝光→藤原朝光・正光の系図
一条天皇
第66代 一条天皇(いちじょう)/懐仁親王(やすひと)【980-1011/在位:986-1011】
在位中は藤原兼家・道隆・道兼・道長が政治の実権を握り、摂関政治の全盛期を迎える一方、華やかな宮廷文化も栄えた。
皇后 藤原定子(さだこ・ていし)【976-1000】
媄子内親王出産後に亡くなった。定子に仕えた女房に清少納言がいる。
皇后の父 藤原道隆→藤原道隆の系図
子 脩子内親王(ながこ・しゅうし)【996-1049】
子 敦康親王(あつやす)【999-1018】
第一皇子であったが、立太子は叶わなかった。
子の妻 祇子女王(しし)
子の妻の父 具平親王→具平親王の系図
孫 嫄子女王→後一条天皇~後冷泉天皇の系図
子 媄子内親王(よしこ・びし)【1000-1008】
中宮 藤原彰子(あきこ・しょうし)/上東門院【988-1074】
中宮の父 藤原道長→藤原道長の系図
子 後一条天皇・後朱雀天皇・孫 後冷泉天皇→後一条天皇~後冷泉天皇の系図
孫 後三条天皇→後三条天皇の系図
女御 藤原義子(よしこ・ぎし)【974-1053】
女御の父 藤原公季→藤原公季・実成の系図
女御 藤原元子(もとこ・げんし)
女御の父 藤原顕光→藤原顕光の系図
夫 源頼定→為平親王の系図
女御 藤原尊子(たかこ・そんし)【984-1022】
女御の父 藤原道兼→藤原道兼の系図
夫 藤原通任→藤原通任~師季の系図
三条天皇の系図
第67代 三条天皇(さんじょう)/居貞親王(おきさだ)〔養子:敦貞親王・敦昌親王・敦元親王・敦賢親王、儇子内親王(→藤原信家の系図)〕【976-1017/在位:1011-1016】
藤原道長と対立したほか、目の病気に悩まされた。
祖父 村上天皇→村上天皇の系図
父 冷泉天皇→冷泉天皇・花山天皇の系図
祖父 藤原兼家→藤原兼家の系図
中宮 藤原妍子(けんし)【994-1027】
中宮の父 藤原道長→藤原道長の系図
子 禎子内親王→後一条天皇~後冷泉天皇の系図
皇后 藤原娍子(せいし)【972-1025】
皇后の父 藤原済時→藤原済時の系図
子 敦明親王(あつあきら)【994-1051】
三条天皇の譲位の際には東宮になったが、藤原道長の圧迫により辞した。
子の妻 藤原延子(のぶこ・えんし)【?-1019】
藤原顕光(→藤原顕光の系図)の娘。
孫 敦貞親王(あつさだ)〔養父:三条天皇〕【1014-1061】
妻に藤原定頼(→藤原公任の系図)の娘、源済政(→源済政・資通の系図)の娘、子に宗家(→藤原信家の系図)がいる。
孫 敦昌親王(あつまさ)〔養父:三条天皇〕
孫 栄子内親王(ひでこ)
子の妻 藤原寛子(かんし)【?-1025】
藤原道長(→藤原道長の系図)の娘。
孫 敦元親王(あつもと)〔養父:三条天皇〕【1023-1032】
孫 儇子内親王→藤原信家の系図
子の妻 藤原頼宗の娘
子の妻の父 藤原頼宗→藤原頼宗の系図
孫 源基平(もとひら)【1026-1064】
参議。
孫 敦賢親王(あつかた)〔養父:三条天皇〕【1039-1077】
妻に源親方(→源重信の系図)の娘がいる。
子の妻 源長経の娘
子の妻の父 源長経→源重光の系図
孫 嘉子内親王(よしこ・かし)
斎宮。
子の妻 源政隆の娘【?-1089】
瑠璃女御と称された。
子の妻の父 源政隆→源政隆の系図
孫 信子女王(のぶこ)
孫 源信宗(のぶむね)【?-1074】
孫 斉子女王(さいし・せいし)
斎院。
孫 行観(ぎょうかん)【1013-1073】
孫 源顕宗(あきむね)
孫 源当宗(まさむね)
孫 聖珍(しょうちん)
子 敦儀親王(あつのり)【997-1054】
子の妻 藤原隆家の娘
子の妻の父 藤原隆家→藤原隆家の系図
子 敦平親王(あつひら)【999-1049】
子の妻 源則理の娘
子の妻の父 源則理→源重光の系図
孫 敬子女王(けいし)
斎宮。
孫 敦輔王(あつすけ)
実は敦貞親王の子。
子 当子内親王(まさこ・とうし)【1001-1023】
斎宮。
子 禔子内親王→藤原教通の系図
子 師明親王(もろあき)/性信入道親王(しょうしん)【1005-1085】
仁和寺で出家し、修行に励んだ。仁和寺二代門跡などを務め、大御室と称された。
尚侍 藤原綏子(やすこ・すいし)【974-1004】
源頼定との密通が露見し、宮中を退いた。
尚侍の父 藤原兼家→藤原兼家の系図
夫 源頼定→為平親王の系図
後宮 藤原原子(もとこ・げんし)【?-1002】
後宮の父 藤原道隆→藤原道隆の系図
後一条天皇~後冷泉天皇の系図
後一条天皇
第68代 後一条天皇(ごいちじょう)/敦成親王(あつひら)【1008-1036/在位:1016-1036】
藤原道長・頼通父子を摂政・関白とした。
祖父 円融天皇・父 一条天皇→円融天皇・一条天皇の系図
祖父 藤原道長→藤原道長の系図
皇后 藤原威子(たけこ)【999-1036】
皇后の父 藤原道長→藤原道長の系図
子 馨子内親王→後三条天皇の系図
後朱雀天皇
第69代 後朱雀天皇(ごすざく)/敦良親王(あつなが)【1009-1045/在位:1036-1045】
敦明親王の辞退により立太子した。
皇后 禎子内親王(よしこ)/陽明門院【1013-1094】
三条天皇(→三条天皇の系図)の皇女。
子 良子内親王(ながこ・よしこ)【1029-1077】
斎宮。
子 娟子内親王→源俊房の系図
子 後三条天皇→後三条天皇の系図
孫 白河天皇→白河天皇の系図
中宮 嫄子女王(げんし)〔養父:藤原頼通(→藤原頼通の系図)〕【1016-1039】
敦康親王(→円融天皇・一条天皇の系図)の娘。
子 祐子内親王(すみこ・ゆうし)【1038-1105】
子 禖子内親王(みわこ・ばいし)【1039-1096】
斎院。和歌に優れ、六条斎院歌合などの歌合を数多く行った。
尚侍 藤原嬉子(きし)【1007-1025】
藤原道長(→藤原道長の系図)の娘。親仁親王(後冷泉天皇)を生んで間もなく亡くなった。即位後には皇太后を贈られた。
女御 藤原生子(なりこ・いくこ・せいし)【1014-1068】
藤原教通(→藤原教通の系図)の娘。
女御 藤原延子(えんし)【1016-1095】
藤原頼宗(→藤原頼宗の系図)の娘。
子 正子内親王(まさこ・せいし)【1045-1114】
斎院。
後冷泉天皇
第70代 後冷泉天皇(ごれいぜい)/親仁親王(ちかひと)【1025-1068/在位:1045-1068】
在位中は引き続き藤原頼通が関白を務めた。
中宮 章子内親王(しょうし)/二条院【1026-1105】
皇后 藤原寛子(かんし)【1036-1127】
藤原頼通(→藤原頼通の系図)の娘。
皇后 藤原歓子(よしこ・かんし)【1021-1102】
藤原教通(→藤原教通の系図)の娘。皇子を生んだが死産であった。小野に常寿院を建立した。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。