このページでは、毛利氏(大江氏)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
毛利氏(長門国萩藩主)の略系図
1 季光→毛利季光~貞親の系図
5 親衡→毛利親衡~煕元の系図
10 豊元→毛利豊元~幸松丸の系図
14 元就→毛利元就の系図
15 隆元→毛利隆元・輝元の系図
17 秀就→毛利秀就~吉広の系図
21 吉元→毛利吉元~重就の系図
24 治親→毛利治親~元徳の系図
毛利季光~貞親の系図
毛利季光(すえみつ)【1202-1247】
毛利氏の祖。相模国毛利荘を領した。三浦氏の乱に加わり自刃した。
祖父 維光→大江匡房~維光の系図
父 広元→大江広元の系図
妻 三浦義村の娘
妻の父 三浦義村→三浦義村の系図
子 広光(ひろみつ)【?-1247】
孫 円道/章弁
曾孫 公恵〔養父:名越公時(→名越朝時の系図)〕
子 次郎【?-1247】(『寛政重修諸家譜』による。)
子 泰元/泰光【?-1247】
子の夫 花山院師継→花山院師継~師資の系図
子の夫 北条時頼→北条泰時~時頼の系図
毛利経光(つねみつ)
越後国佐橋荘にいたため、三浦氏の乱に加わらなかった。佐橋荘と安芸国吉田荘を安堵された。
子 基親/基頼
孫 経親/泰秋
子 時光(『系図纂要』による。)
父は毛利季光とも。
子 政光(『寛政重修諸家譜』による。)
子の夫 大江政広→大江政広の系図
孫 了厳【?-1347】
毛利時親(ときちか)【?-1341】
本拠地を安芸国吉田荘に移し、安芸毛利氏の基礎を築いた。
子 貞繁(『寛政重修諸家譜』による。)
毛利貞親(さだちか)【?-1351】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 親衡・孫 元春→毛利親衡~煕元の系図
毛利親衡~煕元の系図
毛利親衡(ちかひら)/親茂(ちかしげ)【?-1375】
南朝方として、子の元春らと対立した。
祖父 時親・父 貞親→毛利季光~貞親の系図
子 匡時/匡家
孫 広秋・広澄・元良・通良(『系図纂要』による。)
子 直元/直広/直衡
毛利元春(もとはる)/師親(もろちか)
母は『寛政重修諸家譜』による。足利義満から吉田荘の地頭職を安堵された。
子 実広(さねひろ)/広内(ひろうち)
孫 広定(『系図纂要』による。)
毛利広房(ひろふさ)
毛利光房(みつふさ)【1386-1436】
子 少輔次郎(『寛政重修諸家譜』による。)
子の夫 山内煕通(『寛政重修諸家譜』による。)
毛利煕元(ひろもと)/煕房(ひろふさ)【?-1464】
子 豊元・孫 弘元→毛利豊元~幸松丸の系図
子 元家(『寛政重修諸家譜』による。)
子の夫 山内時通(『寛政重修諸家譜』による。)
毛利豊元~幸松丸の系図
毛利豊元(とよもと)/煕房(ひろふさ)【1444-1476】
祖父 光房・父 煕元→毛利親衡~煕元の系図
子 弘重(『系図纂要』による。)
子の夫 国司元純(『寛政重修諸家譜』による。)
毛利弘元(ひろもと)【1468-1506】
妻 福原広俊の娘
子 元就〔養父:毛利幸松丸〕→毛利元就の系図
子 富子(『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』による。)
妻 有田氏
子 北就勝(なりかつ)【?-1557】(『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』による。)
子 相合元綱(もとつな)【?-1550】(以下、『系図纂要』による。)
孫 元範〔養父:馬屋原美濃守〕
子 竹子(『系図纂要』による。)→吉川元経の系図
子 松子・子の夫 井上元光(『系図纂要』による。)
子の夫 渋川氏・孫 渋川義満(『毛利家譜(周防山口)』による。)
毛利興元(おきもと)【1493-1516】
母は『寛政重修諸家譜』による。吉田郡山城主。安芸国の国人8家と一揆契約を結んだ。
子の夫 山内豊通・小早川興景・杉原氏・杉原盛重(『寛政重修諸家譜』による。)
毛利幸松丸【1515-1523】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 元就→毛利元就の系図
孫 隆元→毛利隆元・輝元の系図
孫 元清→毛利元清・秀元の系図
毛利元就の系図
毛利元就(もとなり)【1497-1571】(以下、『系図纂要』による。)
実は毛利弘元(→毛利豊元~幸松丸の系図)の子。厳島の戦いで陶晴賢を破るなどし、中国地方を支配する戦国大名となった。
祖父 興元・父 幸松丸→毛利豊元~幸松丸の系図
妻 吉川国経の娘【1499-1545】
妻の父 吉川国経→吉川国経の系図
子 隆元・孫 輝元→毛利隆元・輝元の系図
子 吉川元春〔養父:吉川興経〕→吉川元春の系図
子 小早川隆景〔養父:小早川正平〕→小早川隆景の系図
妻 三吉氏
子 元秋(もとあき)【?-1585】〔養父:杉杜隆康〕
孫 元康(もとやす)【1560-1601】
実は毛利元就の子。
孫の妻 吉見広頼の娘
孫の妻の父 吉見広頼→吉見広頼の系図
曾孫 元宣【1598-1667】
曾孫の子の夫 宍戸就方→宍戸就方の系図
元秋孫 元勝【1646-1697】
元秋孫 就久
実は毛利雅信の子。
子 元倶(もととも)【?-1571】〔養父:出羽元祐〕
子 元康〔養父:毛利元秋〕
妻 乃美氏
子 元清・孫 秀元→毛利元清・秀元の系図
子 元政(もとまさ)【1559-1609】〔養父:天野元定〕
子 秀包(ひでかね)/元総(もとふさ)【1567-1601】〔養父:小早川隆景(→小早川隆景の系図)〕
毛利輝元が豊臣秀吉と和睦した際には、人質として大坂へ行った。関ケ原の戦いで西軍に属し、所領を没収された。
子の妻 大友義鎮の娘
子の妻の父 大友義鎮→大友義鎮の系図
孫 元信【1590-1670】
孫の妻 毛利元清の娘
孫の妻の父 毛利元清→毛利元清・秀元の系図
曾孫 元包【1607-1676】
秀包孫 就直【1635-1709】
実は毛利元法の子。
孫 元貞【?-1613】
孫 能久【1565-1633】
『翁物語』を著した。
毛利隆元・輝元の系図
毛利隆元(たかもと)【1523-1563】
弟の元春・隆景とともに毛利氏の結束を固め、各地を転戦したが、父に先立って亡くなった。
祖父 幸松丸→毛利豊元~幸松丸の系図
父 元就→毛利元就の系図
祖父 吉川国経→吉川国経の系図
妻 大内義隆の娘【1529-1572】
実は内藤興盛の娘。
妻の父 大内義隆→大内義隆の系図
子 徳鶴
母は『毛利家譜(周防山口)』による。
子の夫 吉見広頼→吉見広頼の系図
毛利輝元(てるもと)【1553-1625】
権中納言。本能寺の変後、豊臣秀吉と和睦し、豊臣政権では五大老の一人となった。関ケ原の戦いで西軍の総大将とみなされ、所領を削られた。
妻 宍戸隆家の娘
妻の父 宍戸隆家→宍戸隆家の系図
妻 児玉元良の娘
子 秀就・孫 綱広→毛利秀就~吉広の系図
子 就隆・孫 元賢→毛利就隆・元賢の系図
子の夫 吉川広正→吉川広正の系図
子 秀元→毛利元清・秀元の系図
実は毛利元清の子。
毛利秀就~吉広の系図
毛利秀就(ひでなり)【1595-1651】
長門国萩藩主。
祖父 隆元・父 輝元→毛利隆元・輝元の系図
妻 徳川土佐姫【1597-1655】
実は結城秀康(→結城秀康・松平忠直の系図)の娘。
妻の父 徳川秀忠→徳川秀忠の系図
子 松寿丸
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 土佐子→松平光長~長煕の系図
子 竹子→鷹司房輔~基輝の系図
子 和泉・宮市丸・子 秀就の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
毛利綱広(つなひろ)【1639-1689】
萩藩主。万治制法を公布した。
妻 松平千
松平忠昌(→松平忠昌の系図)の娘。
子 綱広の娘
吉川広猶に嫁ぐ予定であった。
子 綱広の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
子の夫 松平義行→松平義行・義孝の系図
子の夫 内藤弌信→内藤信良~信輝の系図
妻 梨木永祐の娘
子 吉広〔養父:毛利吉就〕
子 熊之助〔養父:毛利就詮〕(『寛政重修諸家譜』による。)
子 元重/松平昌方〔養父:松平吉品(→松平光通~吉邦の系図)〕
孫 元直〔養父:毛利就詮〕(『毛利家譜(周防山口)』による。)
子 綱広の娘〔養父:毛利就詮〕(『寛政重修諸家譜』による。)
毛利就豊に嫁いだ。
子 百助・万吉・子 綱広の娘(2人)(『寛政重修諸家譜』による。)
子の夫 毛利匡広→毛利元知~師就の系図
子の夫 松平忠雅→松平忠雅~忠功の系図
毛利吉就(よしなり)【1668-1694】
萩藩主。父綱広の追善のため、東光寺を建立した。
妻 酒井忠隆の娘
妻の父 酒井忠隆→酒井忠隆~忠用の系図
毛利吉広(よしひろ)/就勝(なりかつ)【1673-1707】
萩藩主。実は毛利綱広の子。
妻 鷹司輔信の娘〔養父:鷹司兼煕(→鷹司房輔~基輝の系図)〕
妻の父 鷹司輔信→鷹司房輔~基輝の系図
子 吉元・孫 宗広→毛利吉元~重就の系図
子の夫 有馬一準→有馬清純~孝純の系図
毛利吉元~重就の系図
毛利吉元(よしもと)/元倚(もとより)【1677-1731】
萩藩主。実は毛利綱元(→毛利光広~元矩の系図)の子。藩校明倫館を創設した。
祖父 吉就・父 吉広→毛利秀就~吉広の系図
妻 池田綱政の娘
妻の父 池田綱政→池田綱政の系図
子 宗元/元朝→毛利光広~元矩の系図
子 元陳(もとむね)【1706-1713】
子 斎宮【1705-1707】(『寛政重修諸家譜』による。)
子の夫 島津継豊→島津継豊の系図
子 槌三郎・子 吉元の娘(2人)(『寛政重修諸家譜』による。)
子の夫 毛利師就→毛利元知~師就の系図
毛利宗広(むねひろ)/維広(これひろ)【1717-1751】
萩藩主。
妻 松平宗昌の娘
妻の父 松平宗昌→松平宗昌~茂昭の系図
子 宗広の娘
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 宗広の娘〔養父:毛利重就〕
子 宗広の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
毛利重就(しげなり)/元房(もとふさ)/匡敬(まさよし)【1725-1789】〔養父:毛利師就(→毛利元知~師就の系図)〕
長門国長府藩主・萩藩主。実は毛利匡広(→毛利元知~師就の系図)の子。撫育方を設け、新田開発などを行い、中興の英主と仰がれた。
妻 立花貞俶の娘
妻の父 立花貞俶→立花貞俶の系図
子 治親・孫 斉房→毛利治親~元徳の系図
子 友→山内豊雍の系図
子 勢代→有馬頼貴の系図
子 重就の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
妻 練心院
子 匡満・孫 匡芳→毛利匡満・匡芳の系図
子 徳次郎【1750】(『毛利家譜(長門豊浦)』による。)
子 岩之助(『寛政重修諸家譜』による。)
子 好→松平信亨~信安の系図
子 唯保君→鷹司輔平の系図
孫 鷹司政煕→鷹司政煕の系図
子の夫 松平忠啓→松平忠雅~忠功の系図
妻 随順院
子 親著(ちかあきら)【1765-1799】
母は『毛利家譜(周防山口)』・『毛利家譜(長門豊浦)』による。
孫 斉元〔養父:毛利斉煕〕→毛利治親~元徳の系図
孫 惟祺【?-1824】
曾孫 親安/信順【?-1855】
子 匡芳〔養父:毛利匡満〕→毛利匡満・匡芳の系図
子 重就の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
母は『毛利家譜(周防山口)』・『毛利家譜(長門豊浦)』による。
子 重広(しげひろ)/純峯(すけみね)/幸広(たかひろ)【1734-1760】
実は有馬一準(→有馬清純~孝純の系図)の子。
子 富次郎・熊五郎(『寛政重修諸家譜』による。)
子 重就の娘
近衛師久に嫁ぐ予定であった。
子の夫 松平容頌→松平正容~容頌の系図
子の夫 毛利匡邦→毛利政苗~元純の系図
子の夫 前田利謙→前田利幸~利謙の系図
毛利治親~元徳の系図
毛利治親(はるちか)/徳元(のりもと)/治元(はるもと)【1754-1791】
萩藩主。
祖父 宗広・父 重就→毛利吉元~重就の系図
祖父 立花貞俶→立花貞俶の系図
妻 田安節姫
田安宗武(→田安宗武の系図)の娘。
子 治親の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
子 治親の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
有馬頼端に嫁ぐ予定であった。
子 斉煕〔養父:毛利斉房〕
子 細川興昶〔養父:細川興徳〕→細川興虎~興貫の系図
子 水野忠篤〔養父:水野忠韶〕→水野忠見~忠順の系図
子 治親の娘(『毛利家譜(周防山口)』による。)
毛利斉房(なりふさ)/維房(これふさ)【1782-1809】
萩藩主。
妻 幸子女王
織仁親王(→織仁親王の系図)の王女。
子 徳丸【?-1814】
毛利斉煕(なりひろ)/煕成/憲煕【1783-1836】
萩藩主。実は毛利治親の子。村田清風らを登用し、神器陣を編成した。
妻 池田治道の娘
妻の父 池田治道→池田治道~慶徳の系図
子 斉広〔養父:毛利斉元〕
子 信順(以下、『毛利家譜(周防山口)』による。)
孫 順明・孫 俊〔養父:毛利敬親〕
子 俊次郎(『毛利家譜(周防山口)』による。)
子 万寿子→宗義暢~重正の系図
子 八重子→毛利広寛~元蕃の系図
子の夫 水野忠武→水野忠穀~忠敬の系図
子の夫 毛利元純→毛利政苗~元純の系図
毛利斉元(なりもと)【1794-1836】(以下、『毛利家譜(周防山口)』による。)
萩藩主。実は毛利親著(→毛利吉元~重就の系図)の子。
子 敬親〔養父:毛利斉広〕
子 牧之助【?-1821】
子の夫 伊達宗徳→伊達宗城・宗徳の系図
毛利斉広(なりとお)【1814-1836】
萩藩主。実は毛利斉煕の子。
妻 徳川操子/和姫【1813-1830】
徳川家斉(→徳川家斉の系図)の娘。
毛利敬親(たかちか)/教明/慶親【1819-1871】(以下、『華族系譜』による。)
萩藩主・周防国山口藩主。実は毛利斉元の子。再度、村田清風を登用し藩政改革を行った。藩庁を山口に移した。
子 順明【1839-?】
実は毛利信順の子。
子 俊→山内豊範の系図
子 保→毛利元義~元敏の系図
毛利元徳(もとのり)/広封【1839-1896】
山口藩主。実は毛利広鎮(→毛利広寛~元蕃の系図)の子。
妻 毛利銀/安【1843-1925】
毛利元運(→毛利元義~元敏の系図)の娘。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。