このページでは、継体天皇から斉明天皇までの系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
継体天皇〜宣化天皇の系図
継体天皇
第26代 継体天皇(けいたい)/男大迹尊(おほど)/彦太尊(ひこふと)【450−531/在位:507−531】
応神天皇の五世孫。大伴金村らにより、越前から迎えられた。
祖父 乎非王・父 彦主人王→稚野毛二派皇子〜彦主人王の系図
皇后 手白香皇女(たしらか)
皇后の父 仁賢天皇→顕宗天皇〜武烈天皇の系図
子 欽明天皇・孫 崇峻天皇→欽明天皇・崇峻天皇の系図
孫 敏達天皇・推古天皇→敏達天皇・推古天皇の系図
孫 用明天皇→用明天皇の系図
妃 尾張目子媛(めのこひめ)/色部(しこぶ)
妃の父 尾張草香(くさか)
妃 三尾稚子媛(わかこひめ)
三尾角折(つのおり)の妹。
子 大郎皇子(おおいらつこ)
子 出雲皇女(いずも)
妃 広媛(ひろひめ)
妃の父 坂田大跨王(さかたのおおまた)
子 神前皇女(かんさき)
安閑天皇・春日山田皇女と合葬された。
子 茨田皇女(まんた)
子 馬来田皇女(うまくた)
妃 麻績娘子(おみのいらつめ)
妃の父 息長真手王(おきながのまて)
子 荳角皇女(ささげ)
斎宮。
妃 茨田関媛(せきひめ)
妃の父 茨田小望(おもち)
関媛は小望の妹とも。
子 茨田大娘皇女(まんたのおおいらつめ)
子 白坂活日姫皇女(しらさかいくひひめ)
子 小野稚郎皇女(おののわかいらつめ)/長石姫皇女(ながいわひめ)
妃 三尾倭媛(やまとひめ)
妃の父 三尾堅楲(かたひ)
子 大娘子皇女(おおいらつめ)
子 椀子皇子(まろこ)
子 耳皇子(みみ)
子 赤姫皇女(あかひめ)
妃 和珥荑媛(はえひめ)
妃の父 和珥河内(かわち)
子 稚綾姫皇女(わかやひめ)
子 円娘皇女(つぶらのいらつめ)
子 厚皇子(あつ)
妃 広媛(ひろひめ)
妃の父 根王(ね)
子 兎皇子(うさぎ)
子 中皇子(なかつ)
安閑天皇
第27代 安閑天皇(あんかん)/勾大兄皇子(まがりのおおえ)/広国押武金日尊(ひろくにおしたけかなひ)【466−535/在位:534−535】
多数の屯倉を設置した。安閑・宣化朝と欽明朝が併立した時期があったとする説がある。
皇后 春日山田皇女(かすがのやまだ)/山田赤見皇女(やまだのあかみ)
『日本書紀』には安閑天皇らと合葬されたとされるが、『延喜式』諸陵寮には安閑天皇陵とは別の墓が挙げられている。
皇后の父 仁賢天皇→顕宗天皇〜武烈天皇の系図
妃 許勢紗手媛(さてひめ)
妃の父 許勢男人(おひと)【?−529】
大伴金村らとともに継体天皇の即位に尽力し、磐井の乱の鎮圧にもあたったとされるものの、疑問の余地がある。
妃 許勢香香有媛(かかりひめ)
妃 物部宅媛(やかひめ)
妃の父 物部木蓮子(いたび)
宣化天皇
第28代 宣化天皇(せんか)/檜隈高田皇子(ひのくまのたかだ)/武小広国押盾尊(たけおひろくにおしたて)【467−539/在位:536−539】
大伴金村・物部麁鹿火を大連、蘇我稲目を大臣とした。安閑・宣化朝と欽明朝が併立した時期があったとする説がある。
皇后 橘仲皇女(たちばなのなかつ)
皇后の父 仁賢天皇→顕宗天皇〜武烈天皇の系図
子 石姫皇女・小石姫皇女・倉稚綾姫皇女・日影皇女→欽明天皇・崇峻天皇の系図
子 上殖葉皇子・孫 十市王→上殖葉皇子~丹治武時の系図
妃 大河内稚子媛(おおしかわちのわくごひめ)
子 火焔皇子(ほのお)
子 宅部皇子(やかべ)【?−587】
欽明天皇の皇子とも。穴穂部皇子が蘇我馬子に殺された際に、皇子の支持者とみなされ、殺された。
孫 上女王(かみつ)
欽明天皇・崇峻天皇の系図
欽明天皇
第29代 欽明天皇(きんめい)/天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわ)【?−571/在位:539−571】
百済から仏教が伝えられた一方、任那の日本府を新羅に滅ぼされた。
祖父 彦主人王→稚野毛二派皇子〜彦主人王の系図
父 継体天皇→継体天皇〜宣化天皇の系図
祖父 仁賢天皇→顕宗天皇〜武烈天皇の系図
皇后 石姫皇女(いしひめ)
皇后の父 宣化天皇→継体天皇〜宣化天皇の系図
子 箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえ)【?−552】
子 敏達天皇→敏達天皇・推古天皇の系図
孫 押坂彦人大兄皇子→押坂彦人大兄皇子・茅渟王の系図
子 笠縫皇女(かさぬい)/狭田毛皇女(さたけ)
妃 倉稚綾姫皇女(くらわかあやひめ)
子 石上皇子(いそのかみ)
母は小石姫皇女とも。
妃 小石姫皇女(おいしひめ)
妃 日影皇女(ひかげ)
子 倉皇子(くら)
妃 蘇我堅塩媛(きたしひめ)
妃の父 蘇我稲目(いなめ)【?−570】
大臣。屯倉の設置・経営に力を入れ、進んで仏教を受容した。娘・石寸名は用明天皇(→用明天皇の系図)の嬪になった。
子 用明天皇→用明天皇の系図
子 磐隈皇女(いわくま)/夢皇女(いめ)
伊勢大神に仕えたが、茨城皇子に犯されたために解任された。
子 臘嘴鳥皇子(あとり)
子 推古天皇→敏達天皇・推古天皇の系図
子 椀子皇子(まろこ)
子 大宅皇女(おおやけ)
子 石上部皇子(いそのかみべ)/伊美賀古王(いみがこ)
子 山背皇子(やましろ)
子 大伴皇女(おおとも)
子 桜井皇子(さくらい)/桜井之玄王(さくらいのゆみはり)
孫 吉備姫王→押坂彦人大兄皇子・茅渟王の系図
子 肩野皇女(かたの)
子 橘本稚皇子(たちばなのもとのわか)
子 舎人皇女→用明天皇の系図
妃 蘇我小姉君(おあねのきみ)
子 茨城皇子(うばらき)
子 葛城皇子(かずらき)
子 穴穂部間人皇女→用明天皇の系図
子 穴穂部皇子(あなほべ)/泥部穴穂部皇子(はしひとのあなほべ)/住迹皇子(すみと)/天香子皇子(あまつかこ)【?−587】
物部守屋とむすび蘇我氏に対抗するも、蘇我馬子に殺された。
妃 春日糠子(あらこ)
妃の父 春日日抓(ひつめ)
子 春日山田皇女(かすがのやまだ)
子 橘麻呂皇子(たちばなのまろ)
崇峻天皇
第32代 崇峻天皇(すしゅん)/泊瀬部皇子(はつせべ)/長谷部若雀尊(はつせべのわかささぎ)【?−592/在位:587−592】
蘇我馬子に擁立されて即位したが、馬子を憎むに至り、暗殺された。
妃 大伴小手子(おてこ)
妃の父 大伴糠手子(ぬかてこ)
子 蜂子皇子(はちこ)
子 錦代皇女(にしきて)
嬪 蘇我河上娘(かわかみのいらつめ)
崇峻天皇が東漢駒に暗殺された際、駒に連れ出された。
嬪の父 蘇我馬子(うまこ)【?−626】
大臣。物部守屋を滅ぼし、蘇我氏の勢力を拡大する一方、熱心に仏教を受容した。娘・法提郎媛は舒明天皇(→舒明天皇〜斉明天皇の系図)の妃になった。
敏達天皇・推古天皇の系図
第30代 敏達天皇(びだつ)/訳語田渟中倉太珠敷尊(おさだのぬなくらふとたましき)【?−585/在位:572−585】
高句麗との国交を開始する一方、任那の回復に尽力したが遂げられなかった。
祖父 継体天皇→継体天皇〜宣化天皇の系図
父 欽明天皇→欽明天皇・崇峻天皇の系図
皇后 広姫(ひろひめ)【?−575】
皇后の父 息長真手王(おきながのまて)
子 押坂彦人大兄皇子→押坂彦人大兄皇子・茅渟王の系図
孫 舒明天皇→舒明天皇〜斉明天皇の系図
子 逆登皇女(さかのぼり)
子 菟道磯津貝皇女(うじのしつかい)
皇后・第33代 推古天皇(すいこ)/額田部皇女(ぬかたべ)/豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめ)【554−628/在位:592−628】
女帝。厩戸皇子を摂政として、冠位十二階・十七条憲法の制定や遣隋使の派遣を行った。
子 菟道貝鮹皇女→用明天皇の系図
子 竹田皇子(たけだ)
蘇我馬子の軍に加わり、物部守屋と戦った。
子 小墾田皇女→押坂彦人大兄皇子・茅渟王の系図
子 葛城王(かずらき)
子 鸕鶿守皇女(うもり)/軽守皇女(かるのもり)
子 尾張皇子(おわり)
孫 位奈部橘王→用明天皇の系図
子 田眼皇女→舒明天皇〜斉明天皇の系図
子 桜井弓張皇女→押坂彦人大兄皇子・茅渟王の系図
夫人 春日老女子(おみなご)/薬君娘(くすりこのいらつめ)
夫人の父 春日仲君(なかつきみ)
子 難波皇子(なにわ)
蘇我馬子の軍に加わり、物部守屋と戦った。
孫 栗隈王(くりくま)【?−676】
敏達天皇の曾孫とも。筑紫率。壬申の乱の際には、大友皇子の発兵命令を拒んだ。
子 春日皇子(かすが)
蘇我馬子の軍に加わり、物部守屋と戦った。
子 桑田皇女(くわた)
子 大派皇子(おおまた)
舒明天皇の時代に、蘇我蝦夷に対し、官吏の出仕・退出の時間を決め、合図の鐘を鳴らすように言ったが、蝦夷は従わなかった。
夫人 伊勢大鹿菟名子(うなこ)
夫人の父 伊勢大鹿小熊(おぐま)
子 太姫皇女(ふとひめ)/桜井皇女(さくらい)
子 糠手姫皇女→押坂彦人大兄皇子・茅渟王の系図
押坂彦人大兄皇子・茅渟王の系図
押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえ)/麻呂子皇子(まろこ)
用明天皇崩御後、皇位の有力候補者になり、反蘇我派に擁立されたとされる。
祖父 欽明天皇→欽明天皇・崇峻天皇の系図
父 敏達天皇→敏達天皇・推古天皇の系図
妃 糠手姫皇女(ぬかてひめ・あらてひめ)/田村皇女(たむら)/宝王(たから)【?−664】
妃の父 敏達天皇→敏達天皇・推古天皇の系図
子 舒明天皇→舒明天皇〜斉明天皇の系図
孫 天智天皇→天智天皇の系図
孫 天武天皇→天武天皇・持統天皇の系図
子 中津王(なかつ)
子 多良王(たら)
妃 大股王(おおまた)
漢王の妹。
子 桑田王(くわた)
妃 桜井弓張皇女(さくらいのゆみはり)
子 山代王(やましろ)
子 笠縫王(かさぬい)
妃 小墾田皇女(おわりだ)
『古事記』では「小治田王」とあり、皇子とも解される。
茅渟王(ちぬ)
妃 吉備姫王(きびつひめ)【?−643】
子 皇極天皇(斉明天皇)・孝徳天皇→舒明天皇〜斉明天皇の系図
用明天皇の系図
第31代 用明天皇(ようめい)/橘豊日尊(たちばなのとよひ)【?−587/在位:585−587】
新嘗祭の帰途に病に倒れ、仏教への帰依を願った。
皇后 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひと)/泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべ)【?−621】
皇后の父 欽明天皇→欽明天皇・崇峻天皇の系図
子 聖徳太子(しょうとくたいし)/厩戸皇子(うまやど)【574−622】
推古天皇の摂政・皇太子。冠位十二階・十七条憲法の制定や遣隋使の派遣を行う傍ら、仏教の興隆にも努めた。
子の妻 菟道貝鮹皇女(うじのかいだこ)
敏達天皇(→敏達天皇・推古天皇の系図)の皇女。
子の妻 位奈部橘女王(いなべのたちばな)/橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)
尾張皇子(→敏達天皇・推古天皇の系図)の娘。聖徳太子没後、太子を偲んで「天寿国繍帳」を作らせた。
孫 白髪部王(しらかべ)
孫 手島女王(てしま)
子の妻 蘇我刀自古郎女(とじこのいらつめ)
蘇我馬子の娘。
孫 山背大兄王(やましろのおおえ)【?−643】
推古天皇崩御後、田村皇子(舒明天皇)と皇位を争った。蘇我蝦夷・入鹿らに攻められて自殺した。
孫 財王(たから)
孫 日置王(ひおき)
孫 片岡女王(かたおか)
子の妻 膳菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ)【?−622】
膳傾子(かたぶこ)の娘。聖徳太子の看病中に病に倒れ、太子の没する前日に亡くなった。
孫 舂米女王(つきしね)
孫 泊瀬仲王(はつせなかつ)/泊瀬王(はつせ)【?−628】
推古天皇崩御後の皇位争いで山背大兄王を推す境部摩理勢を匿った。
孫 久波太女王(くわだ)
孫 波止利女王(はとり)
孫 三枝王(さきくさ)
孫 伊止志古王(いとしこ)
孫 麻呂子王(まろこ)
孫 馬屋古女王(うまやこ)
子 来目皇子(くめ)【?−603】
撃新羅将軍となったが、筑紫で病没した。
子 殖栗皇子(えくり)
子 茨田皇子(まんた)
嬪 蘇我石寸名(いしきな)/意富芸多志比売(おおぎたしひめ)
嬪の父 蘇我稲目→欽明天皇・崇峻天皇の系図
子 田目皇子(ため)/豊浦皇子(とゆら)
嬪 葛城広子(ひろこ)
嬪の父 葛城磐村(いわむら)
子 当麻皇子(たいま)/麻呂子皇子(まろこ)
来目皇子に代わり征新羅将軍になったが、赤石で同行していた妻が亡くなり、征討を果たせなかった。
子の妻 舎人皇女(とねり)【?−603】
欽明天皇(→欽明天皇・崇峻天皇の系図)の皇女。新羅征討に向かう夫に同行したが、途中の赤石で病没した。
子 酢香手姫皇女(すかてひめ)
用明朝から推古朝の3代にわたり伊勢神宮の日神に仕えた。
孫 高向王→舒明天皇〜斉明天皇の系図
舒明天皇〜斉明天皇の系図
舒明天皇・皇極天皇(斉明天皇)
第34代 舒明天皇(じょめい)/田村皇子(たむら)/息長足日広額尊(おきながたらしひひろぬか)【?−641/在位:629−641】
山背大兄王との皇位争いを制して即位した。遣唐使の派遣、百済宮及び百済大寺の造営を行った。
祖父 敏達天皇→敏達天皇・推古天皇の系図
父 押坂彦人大兄皇子→押坂彦人大兄皇子・茅渟王の系図
皇后・第35代 皇極天皇(こうぎょく)/第37代 斉明天皇(さいめい)/宝皇女(たから)/天豊財重日足姫尊(あめとよたからいかしひたらしひめ)【594−661/在位:642−645・655−661】
女帝。多くの土木事業を行った。百済救援に向かった際に筑紫で崩御した。
皇后の祖父 押坂彦人大兄皇子・皇后の父 茅渟王→押坂彦人大兄皇子・茅渟王の系図
皇后の祖父 桜井皇子→欽明天皇・崇峻天皇の系図
皇后の夫 高向王(たかむく)
用明天皇(→用明天皇の系図)の孫。
皇后の子 漢皇子(あや)
子 天智天皇→天智天皇の系図
孫 弘文天皇→弘文天皇の系図
孫 持統天皇→天武天皇・持統天皇の系図
孫 元明天皇→文武天皇〜孝謙天皇・称徳天皇の系図
孫 施基皇子→施基皇子の系図
子 天武天皇→天武天皇・持統天皇の系図
孫 高市皇子→高市皇子~石見王の系図
孫 舎人親王→舎人親王・淳仁天皇の系図
夫人 蘇我法提郎媛(ほほてのいらつめ)
夫人の父 蘇我馬子→欽明天皇・崇峻天皇の系図
子 古人大兄皇子(ふるひとのおおえ)【?−645】
蘇我蝦夷・入鹿らによって天皇に擁立されようとしたが、大化改新が起こると、謀反の疑いを掛けられて殺された。
孫 倭姫命→天智天皇の系図
子 布敷皇女(ぬのしき)
夫人 粟田香櫛媛(かぐしのいらつめ)
夫人 蘇我手杯娘(てつきのいらつめ)
夫人の父 蘇我蝦夷(えみし)【?−645】
大臣。推古天皇崩御後、田村皇子(舒明天皇)の即位に尽力した。子・入鹿とともに専横を極め、中大兄皇子らに滅ぼされた。
子 箭田皇女(やた)
采女 蚊屋采女(かや)
子 蚊屋皇子(かや)
孝徳天皇
第36代 孝徳天皇(こうとく)/軽皇子(かる)/天万豊日尊(あめよろずとよひ)【?−654/在位:645−654】
中大兄皇子(天智天皇)を皇太子として、改新の詔を発した。中大兄皇子らが飛鳥に戻ってからは、ひとり難波宮に取り残され、そのまま病死した。
皇后 間人皇女(はしひと)【?−665】
孝徳天皇と兄・中大兄皇子(天智天皇)らが対立した際には、兄らに従った。
妃 阿倍小足媛(おたらしひめ)
妃の父 阿倍内麿(まろ)/倉梯麿(くらはしのまろ)【?−649】
大化改新で左大臣になった。
子 有間皇子(ありま)【640−658】
蘇我赤兄の勧めで謀反をはかり、処刑された。
妃 蘇我乳娘(ちいらつめ)
妃の父 蘇我石川麿(いしかわまろ)【?−649】
大化改新で右大臣になった。蘇我日向に讒言をされ、自殺に追い込まれた。娘の遠智娘・姪娘は天智天皇(→天智天皇の系図)の妃になった。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。