このページでは、足利氏(清和源氏・義国流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
足利氏(室町幕府将軍)の略系図
1 義康→足利義康・義兼の系図
1-A 義清→足利義清・広沢義実の系図
3 義氏→足利義氏の系図
4 泰氏→足利泰氏の系図
4-A 頼茂・義弁・賢宝・基氏→石塔頼茂・義弁・賢宝・加古基氏の系図
5 頼氏→足利頼氏~尊氏の系図
9 義詮→足利義詮・義満の系図
11 義教→足利義教・義政の系図
12-A 義稙→足利義稙の系図
13 義澄→足利義澄~義昭の系図
足利義康・義兼の系図
足利義康(よしやす)【?-1157】
足利氏の祖。鳥羽上皇の北面の武士となった。保元の乱では、後白河天皇方で戦った。
祖父 義家→源義家の系図
父 義国→源義国・義忠の系図
祖父 源有房→源顕定の系図
妻 藤原範忠の娘
妻の父 藤原範忠→藤原範忠の系図
子 義清・孫 広沢義実→足利義清・広沢義実の系図
子 義房(『系図纂要』による。)
足利義兼(よしかね)【?-1199】
源範頼に従い平氏を討伐した後、奥州征伐にも参加し、鎌倉幕府での地位を固めた。足利学校を創始したとされる。
妻 北条時政の娘
妻の父 北条時政→北条時家~時政の系図
子 義氏→足利義氏の系図
孫 泰氏→足利泰氏の系図
孫 吉良長氏→吉良長氏~貞義の系図
子 畠山義純→畠山義純の系図
子 義助(よしすけ)【?-1221】
承久の乱で幕府方として戦い、宇治川で戦死した。
孫 義胤〔養父:足利義兼〕→桃井義胤の系図
子 桃井義胤→桃井義胤の系図
子の夫 水無瀬親兼→水無瀬親兼~具隆の系図
子の夫 藤原朝氏→藤原朝氏の系図
足利義清・広沢義実の系図
足利義清(よしきよ)【?-1183】
平重衡に敗れて討ち死にした。
祖父 義国→源義国・義忠の系図
父 義康→足利義康・義兼の系図
子 山名義範→山名義範の系図
子 義基(『系図纂要』による。)
広沢義実(よしざね)
子 仁木実国→仁木実国の系図
子 細川義季・孫 俊氏→細川義季・俊氏の系図
子の夫 足利泰氏→足利泰氏の系図
孫 義弁→石塔頼茂・義弁・賢宝・加古基氏の系図
義宗孫 頼清(『系図纂要』による。)
足利義氏の系図
足利義氏(よしうじ)【1189-1254】
和田義盛の乱・承久の乱・三浦氏の乱等で活躍した。
祖父 義康・父 義兼→足利義康・義兼の系図
祖父 北条時政→北条時家~時政の系図
妻 北条泰時の娘
妻の父 北条泰時→北条泰時~時頼の系図
子 泰氏→足利泰氏の系図
孫 頼氏→足利頼氏~尊氏の系図
孫 斯波家氏→斯波家氏~家貞の系図
孫 渋川義顕→渋川義顕~義尭の系図
孫 石塔頼茂・義弁・賢宝・加古基氏→石塔頼茂・義弁・賢宝・加古基氏の系図
子 吉良義継→吉良義継の系図
子 吉良長氏・孫 満氏→吉良長氏~貞義の系図
孫 今川国氏→今川国氏・基氏の系図
子 有氏/祐氏【?-1345】
孫 道教(以下、『系図纂要』による。)
有氏孫 道乗【?-1476】
有氏孫 道顕/道見【1414-1493】
有氏孫 尊祐【?-1539】
有氏孫 顕珍【?-1591】
有氏孫 勝珍【?-1609】
有氏孫 祐珍【?-1634】
有氏孫 乗珍【1607-1673】
有氏孫 円珍【1635-1685】
子の夫 新田政義→新田政義の系図
子の夫 四条隆親→四条隆親~隆宗の系図
孫 今川国氏〔養父:吉良長氏〕→今川国氏・基氏の系図
足利泰氏の系図
足利泰氏(やすうじ)【1216-1270】
北条氏と姻戚関係を持ったが、許可なく出家したため、所領を没収された。
祖父 義兼→足利義康・義兼の系図
父 義氏→足利義氏の系図
祖父 北条泰時→北条泰時~時頼の系図
妻 北条時氏の娘
妻の父 北条時氏→北条泰時~時頼の系図
子 頼氏・孫 家時→足利頼氏~尊氏の系図
子 渋川義顕・孫 義春→渋川義顕~義尭の系図
妻 名越朝時の娘
妻の父 名越朝時→名越朝時の系図
子 斯波家氏・孫 宗家→斯波家氏~家貞の系図
妻 桜井判官代の娘
子 相義/永義
母は『系図纂要』による。
孫 頼茂〔養父:足利泰氏〕→石塔頼茂・義弁・賢宝・加古基氏の系図
子 公深→公深の系図
妻 広沢義実の娘
妻の父 広沢義実→足利義清・広沢義実の系図
子 義弁→石塔頼茂・義弁・賢宝・加古基氏の系図
子 石塔頼茂・賢宝・加古基氏→石塔頼茂・義弁・賢宝・加古基氏の系図
子の夫 極楽寺業時→極楽寺重時の系図
子の夫 吉良満氏→吉良長氏~貞義の系図
石塔頼茂・義弁・賢宝・加古基氏の系図
石塔頼茂/頼義
実は相義(→足利泰氏の系図)の子。
子 国阿(こくあ)/国明【1314-1405】
時宗国阿派・霊山派の祖。
子 義房(よしふさ)
足利尊氏の挙兵に応じて奥州を転戦した。後に足利直義に従い、尊氏と対立した。
孫 義基/義元
孫 頼房(よりふさ)
南朝方の武将として活躍したが、足利義詮に降伏した。
曾孫 直房/忠房
義弁/義有
上野氏の祖。
祖父 広沢義実→足利義清・広沢義実の系図
妻 吉良長氏の娘
妻の父 吉良長氏→吉良長氏の系図
子 上野頼遠/頼勝
孫 頼兼(よりかね)【?-1351】
足利尊氏に従ったが、観応の擾乱で足利直義方につき、但馬国で戦死した。
詮兼孫 満兼/満頼
詮兼孫 持頼/持兼
詮兼孫 信孝【?-1557】(以下、『系図纂要』による。)
詮兼孫 頼国/元政
詮兼孫 政直(『系図纂要』による。)
賢宝/玄宝
子 頼宝/頼全/頼堅
子 仲義/頼全
父は頼宝とも。
孫 尊光
父は仲義、覚助とも。
加古基氏/盛氏
子 兼氏
父は覚海とも。
子 覚遍【?-1333】
孫の夫 足利尊氏(『系図纂要』による。)→足利頼氏~尊氏の系図
足利頼氏~尊氏の系図
足利頼氏(よりうじ)【1240-1262】
北条時頼の子時利の烏帽子親を務めた。
祖父 義氏→足利義氏の系図
父 泰氏→足利泰氏の系図
祖父 北条時氏→北条泰時~時頼の系図
妻 上杉重房の娘
妻の父 上杉重房→上杉重房の系図
妻 北条義時の娘
妻の父 北条義時→北条義時の系図
足利家時(いえとき)
7代後に生まれ変わって天下を取ると書き残した源義家の7代目に当たっていたが、自分の命を縮めて3代で天下を取れるように祈念して切腹したという。
妻 極楽寺時茂の娘
妻の父 極楽寺時茂→極楽寺重時の系図
子 満氏(以下、『系図纂要』による。)
足利貞氏(さだうじ)【1273-1331】
妻 上杉清子(きよこ)【?-1342】
上杉頼重(→上杉頼重の系図)の娘。
子 高義
母は『系図纂要』による。
孫 源琳・高義の息子(『系図纂要』による。)
子 直義(ただよし)/忠義/高国【1306-1352】
従三位。中先代の乱に際し、護良親王を暗殺した。室町幕府では尊氏とともに政務にあたったが、高師直と対立してその座を追われた。
子の妻 渋川頼子
渋川貞頼(→渋川義顕~義尭の系図)の娘。
孫 直義の息子【1347-1351】(『系図纂要』による。)
孫 直冬(ただふゆ)
実は足利尊氏の子。尊氏に子と認められず、直義の養子となった。長門探題などを務めたが、直義の死後、尊氏・義詮父子と決裂した。
曾孫 乾珍/乾丘【1394-1441】
曾孫 冬氏・等珊・等章・乾桃(『系図纂要』による。)
妻 北条時宗の娘
妻の父 北条時宗→北条時宗~時行の系図
足利尊氏(たかうじ)/高氏【1305-1358】
権大納言。室町幕府初代将軍(1338-1358)。鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開いた。
妻 赤橋登子(とうし)【1306-1365】
赤橋久時(→極楽寺重時の系図)の娘。
子 義詮・孫 義満→足利義詮・義満の系図
子 基氏・孫 氏満→足利基氏~持氏の系図
妻 越前局
子 直冬〔養父:足利直義〕
妻 覚遍の娘
父は加古基氏(→石塔頼茂・義弁・賢宝・加古基氏の系図)とも。
妻の父 覚遍→石塔頼茂・義弁・賢宝・加古基氏の系図
子 竹若丸【?-1333】(『系図纂要』による。)
子 聖王丸【1338-1345】(『系図纂要』による。)
子 尊氏の娘【1344-1346】(『系図纂要』による。)
足利義詮・義満の系図
足利義詮(よしあきら)【1330-1367】
権大納言。室町幕府2代将軍(1358-1367)。
祖父 貞氏・父 尊氏→足利頼氏~尊氏の系図
祖父 赤橋久時→極楽寺重時の系図
妻 渋川幸子(こうし)【1332-1392】
渋川義季(→渋川義顕~義尭の系図)の娘。
妻 紀良子(よしこ)【1336-1413】
通清(→通清の系図)の娘。
子 満詮(みつあきら)【1364-1418】
権大納言。
孫 義運/増詮〔養父:足利義満〕
孫 義賢(ぎけん)/持満【1399-1468】
醍醐寺座主。東寺長者。
孫 持弁〔養父:足利義持〕
孫 持円(じえん)
母は『系図纂要』による。東寺長者。
孫 義快・聖芳・孫 竺英(『系図纂要』による。)
孫 満詮の娘【?-1488】(『系図纂要』による。)
子 柏庭【?-1398】(『系図纂要』による。)
足利義満(よしみつ)【1358-1408】〔養子:二条道忠(→二条良基~持基の系図)、満済(→二条兼基・道平の系図)、義運〕
太政大臣。室町幕府3代将軍(1368-1394)。南北朝の合一を実現し、明と国交を再開したほか、北山第を造営した。
妻 日野業子(なりこ・ぎょうし)【1351-1405】
日野時光(→日野時光・資康の系図)の娘。
子 法尊(ほうそん)/法高【1396-1418】
母は『系図纂要』による。
妻 日野康子/北山院(きたやまいん)【1369-1419】
日野資康(→日野時光・資康の系図)の娘。義満の意向により、後小松天皇の准母となった。義満の死後は、義持に疎んじられた。
妻 藤原慶子
子 義持(よしもち)【1386-1428】〔養子:持弁〕
内大臣。室町幕府4代将軍(1394-1423)。父義満への尊号を辞退し、明との貿易を中止した。
子の妻 日野栄子(えいし)【1390-1431】
日野資康(→日野時光・資康の系図)の娘。
孫 義量(よしかず)【1407-1425】
参議。室町幕府5代将軍(1423-1425)。父義持に大酒を戒められた。
子の妻 徳大寺公俊の娘
子の妻の父 徳大寺公俊→徳大寺公清~実盛の系図
孫 持玄(『系図纂要』による。)
実は一条経嗣(→一条経通~兼良の系図)の子。
子 義教・孫 義政→足利義教・義政の系図
子 性仙(せいせん)【1397-1415】
三時知恩寺の開基となった。
妻 春日局
子 義嗣(よしつぐ)【1394-1418】
権大納言。上杉禅秀の乱で挙兵を企てたが、失敗して殺された。
孫 梵修・清欽(『系図纂要』による。)
孫 鞍谷嗣俊(以下、『系図纂要』による。)
嗣俊孫 嗣知
嗣知の子の夫 朝倉義景→朝倉義景の系図
妻 藤原誠子
子 義承(ぎしょう)【1406-1467】
天台座主。
妻 細川氏
子 三淵持清(『系図纂要』による。)→三淵持清の系図
子 尊満(そんまん)【1381-1403】
子 義昭(ぎしょう)【1405-1441】
越智維道の乱を契機に挙兵したが敗れて殺された。
子 永隆(えいりゅう)/周喜【1403-1442】
子の夫 六角満綱(『系図纂要』による。)→六角満綱~佐々木定賢の系図
足利義教・義政の系図
足利義教(よしのり)/義宣/義円【1394-1441】〔養子:政深(→近衛兼嗣~政家の系図)、教覚(→徳大寺公清~実盛の系図)、政紹(→九条房実~満教の系図)、義快(→二条良基~持基の系図)〕
左大臣。室町幕府6代将軍(1429-1441)。天台座主。くじによって将軍に選ばれて還俗した。専制政治を目指すようになり、赤松満祐に殺された。
祖父 義詮・父 義満→足利義詮・義満の系図
妻 正親町三条尹子(ただこ)
正親町三条公雅(→正親町三条実継~公雅の系図)の娘。
妻 裏松重子(しげこ・じゅうし)【1411-1463】
裏松重光(→裏松重光・義資の系図)の娘。義政の正室の日野富子の後ろ盾となった。
子 義勝(よしかつ)【1434-1443】
室町幕府7代将軍(1442-1443)。管領の細川持之らに擁立された。
妻 小宰相局
子 義視(よしみ)/義尋【1439-1491】
権大納言。母は『系図纂要』による。義政の後継者に定められたが、義尚が生まれたことで応仁の乱に発展した。
子の妻 裏松政光の娘
子の妻の父 裏松政光→裏松重光・義資の系図
孫 義稙〔養父:足利義政〕→足利義稙の系図
子の妻 水野氏
孫 水野義純(『系図纂要』による。)→水野義純の系図
孫 義仲・周嘉(『系図纂要』による。)
妻 正親町三条公雅の娘
妻の父 正親町三条公雅→正親町三条実継~公雅の系図
妻 裏松重光の娘
妻の父 裏松重光→裏松重光・義資の系図
子 政知(まさとも)/政氏【1435-1491】
従三位。鎌倉公方の足利成氏に対抗するために東国に下向し、堀越に拠点を置いたため、堀越公方と呼ばれた。
子の妻 武者小路隆光の娘
子の妻の父 武者小路隆光→柳原資明の系図
子の妻の夫 洞院公数→洞院実夏~公連の系図
孫 義澄〔養父:足利義政〕→足利義澄~義昭の系図
孫 茶々丸(ちゃちゃまる)【?-1491】(『系図纂要』による。)
堀越公方を継いだが、伊勢宗瑞に攻められて自殺した。
子 義永(よしなが)(『系図纂要』による。)
隠岐に流された。
足利義政(よしまさ)/義成【1435-1490】〔養子:永俊(→裏松重光・義資の系図)〕
左大臣。室町幕府8代将軍(1449-1473)。政治を顧みない一方、東山文化を花開かせた。後継者争いにより、応仁の乱勃発の一因を作った。
妻 日野富子(とみこ)【1440-1496】
裏松政光(→裏松重光・義資の系図)の娘。幕政に強い影響力を持った。
子 義尚(よしひさ)/義煕【1465-1489】
内大臣。室町幕府9代将軍(1473-1489)。六角高頼の討伐に自ら赴く中で病死した。家集は『常徳院集』。
子の妻 日野勝光の娘
子の妻の父 日野勝光→日野勝光~晴光の系図
子の妻 万里小路命子
万里小路冬房(→万里小路資通~冬房の系図)の娘。
子 義覚(ぎかく)【1468-1483】
醍醐寺座主。
子 義政の娘【1459-?】
子 義政の娘【1463-?】
妻 一色右馬頭の娘
子 義政の娘【1453-?】
妻 造宮使妹
子 義政の娘【1454-?】
妻 大舘佐子(さんご)
大舘持房(→大舘持房の系図)の娘。
子 義政の娘【1455-?】
妻 宮内卿局
子 義政の娘【1458-?】
妻 徳大寺公有の娘
妻の父 徳大寺公有→徳大寺公有~公胤の系図
妻 今川範将の娘
妻の父 今川範将→今川範国~範政・貞世~貞延の系図
子 義稙→足利義稙の系図
子 義澄・孫 義晴→足利義澄~義昭の系図
子 義政の娘【1460-?】
子 義政の娘【1467-1474】(『系図纂要』による。)
足利義稙の系図
足利義稙(よしたね)/義材(よしき)/義尹【1466-1523】〔養子:義尭(→九条政基~兼孝の系図)〕
権大納言。室町幕府10代将軍(1490-1493/1508-1521)。実は足利義視(→足利義教・義政の系図)の子。日野富子によって擁立されたが、将軍の地位は細川氏の争いなどに翻弄された。後に阿波国に移り、島公方と称された。
祖父 義教・父 義政→足利義教・義政の系図
妻 細川成之の娘
妻の父 細川成之→細川詮春~光信の系図
子 足利義維(よしつな)【1509-1573】(以下、『系図纂要』による。)
実は足利義澄(→足利義澄~義昭の系図)の子。平島公方の祖。三好元長に擁立され、上洛を志したが果たせなかった。
孫 義栄(よしひで)/義親【1538-1568】
室町幕府14代将軍(1568)。三好三人衆に擁立された。
孫 義助【1541-1592】
曾孫 義種【1574-1630】
曾孫の妻 水無瀬氏成の娘
曾孫の妻の父 水無瀬氏成→水無瀬氏成~氏信の系図
義助孫 義次【1596-1680】
義助孫 義景【1613-1697】
義助孫 義辰【1644-1728】
義辰の子の夫 桜井兼供→桜井兼里・兼供の系図
義辰の孫 氏敦→桜井氏敦・氏福の系図
義辰の子の夫 桜井氏福→桜井氏敦・氏福の系図
義助孫 義武【1678-1761】
義助孫 義宣【1709-1778】
義宣の妻 持明院基輔の娘
義宣の妻の父 持明院基輔→持明院基定~基雄の系図
義助孫 義智【1733-1762】
義助孫 義根【1747-1826】
義根の妻 西洞院時名の娘〔養父:西洞院時名(→西洞院範篤~信愛の系図)〕
実は貝塚卜半の娘。
義助孫 義寛【1797-?】
義助孫 義俊【1796-?】
義助孫 義豊【1759-1828】
義助孫 義恭【1764-1828】
孫 義任【1543-?】
文禄年中に没した。
子 竹王丸・子 義稙の娘(『系図纂要』による。)
足利義澄~義昭の系図
足利義澄(よしずみ)/義遐/義高/清晃【1480-1511】
参議。室町幕府11代将軍(1494-1508)。実は足利政知(→足利義教・義政の系図)の子。細川政元らによって擁立された。
祖父 義教・父 義政→足利義教・義政の系図
妻 永俊の娘
妻の父 永俊→裏松重光・義資の系図
子 随風(『系図纂要』による。)
子 義維〔養父:足利義稙〕→足利義稙の系図
足利義晴(よしはる)【1511-1550】
権大納言。室町幕府12代将軍(1521-1546)。細川高国に擁立された。
妻 近衛尚通の娘
妻の父 近衛尚通→近衛尚通~信尹の系図
子 義輝(よしてる)/義藤【1536-1565】
参議。室町幕府13代将軍(1546-1565)。将軍の権威の回復に努めたが、松永久秀らに攻められて自害した。
子の妻 近衛稙家の娘
子の妻の父 近衛稙家→近衛尚通~信尹の系図
孫 輝若丸・孫 義輝の娘(『系図纂要』による。)
足利義昭(よしあき)/義秋/覚慶【1537-1597】
権大納言。室町幕府15代将軍(1568-1573)。織田信長に擁立されたが、将軍就任後に対立し、その地位を追われた。文禄の役では名護屋に従軍した。
子 義尋【?-1605】(以下、『系図纂要』による。)
子の妻 古市胤子→後陽成天皇の系図
孫 義尊【1601-1661】
孫 常尊【1604-1671】
子 義在(『系図纂要』による。)
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。