このページでは、一条家(藤原氏北家)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
一条家(摂家)の略系図
1 実経→一条実経~内経の系図
5 経通→一条経通~兼良の系図
7-A 教房→一条教房の系図
8 冬良→一条冬良~昭良の系図
13 教輔→一条教輔~道香の系図
17 輝良→一条輝良の系図
18 忠良→一条忠良~実良の系図
一条実経~内経の系図
一条実経(さねつね)【1223-1284】
摂政・関白・左大臣。一条家の祖。父道家の鍾愛を受けた。円明院殿と号した。
祖父 良経→九条良経の系図
父 道家→九条道家の系図
祖父 西園寺公経→西園寺公経の系図
妻 藤原有信の娘
妻の父 藤原有信→坊門信清の系図
子 実家(さねいえ)【1250-1314】
太政大臣。
子の妻 滋野井公光の娘
子の妻の父 滋野井公光→滋野井公光~教国の系図
孫 内家【1289-?】〔養父:一条内実〕
権中納言。
曾孫 桓豪〔養父:洞院実泰(→洞院実泰の系図)〕
孫 行快〔養父:一条家経〕
孫 澄助/源経〔養父:二条兼基(→二条兼基・道平の系図)〕
孫 空源/実為
妻 良性の娘
妻の父 良性→粟田口忠良の系図
子 師良【1258-1293】〔養父:一条家経〕
正二位。
子 慈信【?-1325】
子 慈昭【1260-1292】
子 静厳(じょうごん)【1243-1299】
東寺長者。醍醐寺座主。
子 慈玄(じげん)【1270-1301】
青蓮院門跡。
妻 九条定高の娘
妻の父 九条定高→九条定高の系図
子 忠輔
従二位。
妻 園基氏の娘
妻の父 園基氏→園基氏~基藤の系図
子 家房【1270-?】
正二位。
妻 平成俊の娘
妻の父 平成俊→平行範・棟範の系図
子 頊子→後二条天皇の系図
妻 大炊御門家嗣の娘
妻の父 大炊御門家嗣→大炊御門師経~冬忠の系図
一条家経(いえつね)【1248-1293】〔養子:松殿冬房(→松殿忠房の系図)、藤原師良、行快〕
摂政・左大臣。後光明峯寺殿と号した。
妻 松殿良嗣の娘
妻の父 松殿良嗣→松殿忠房の系図
子 冬実【1278-1342】
権中納言。
妻 平高望の娘
妻の父 平高望→平行範・棟範の系図
子 厳家(ごんけ)【1275-1308】
東寺長者。醍醐寺座主。後二条天皇の護持僧を務めた。
妻 藤原親成の娘
妻の父 藤原親成→藤原光雅の系図
子 尋覚(じんかく)【1282-1318】
興福寺別当。
子 道昭(どうしょう)【1281-1355】
園城寺長吏。光明天皇の護持僧を務めた。
子 経厳(きょうごん)【?-1353】
東寺長者。
子 良慶(りょうけい)【1291-1360】
園城寺長吏。
一条内実(うちざね)【1276-1304】〔養子:一条内家〕
内大臣。棲心院と号した。
子 慈慶/慈仙
子の夫 鷹司冬教→鷹司兼平~冬教の系図
一条内経(うちつね)【1291-1325】
関白・内大臣。芬陀利花院殿と号した。
妻 今出河公顕の娘
妻の父 今出河公顕→西園寺実兼の系図
子 経通・孫 経嗣→一条経通~兼良の系図
一条経通~兼良の系図
一条経通(つねみち)【1317-1365】
関白・左大臣。後芬陀利花院殿と号した。
祖父 内実・父 内経→一条実経~内経の系図
祖父 今出河公顕→西園寺実兼の系図
妻 洞院綸子
洞院公賢(→洞院公賢の系図)の娘。
子 内嗣(うちつぐ)/内平【1336-?】
権大納言。南朝に参じた。
子 房経(ふさつね)【1347-1366】
権大納言。
一条経嗣(つねつぐ)【1358-1418】
関白・左大臣。実は二条良基(→二条良基~持基の系図)の子。足利義満・義持の信任を得た。日記は『荒暦』。成恩寺殿と号した。
妻 鷹司冬通の娘
妻の父 鷹司冬通→鷹司師平~忠冬の系図
子 経輔(つねすけ)/良忠
権大納言。
妻 東坊城秀長の娘
妻の父 東坊城秀長→東坊城茂長~長遠の系図
子 祐厳(ゆうごん)【?-1452】
東寺長者。
子 良済(『系図纂要』による。)
妻 基央の娘
子 一慶(いっけい)【1386-1463】(『系図纂要』による。)
子 良鎮/良什(りょうじゅう)【?-1460】
天台座主。父は一条兼良とも。
子 義玄【1411-1431】(『系図纂要』による。)
子 持玄〔養父:足利義持〕(『系図纂要』による。)→足利義詮・義満の系図
一条兼良(かねよし・かねら)【1402-1481】
摂政・関白・太政大臣。有職故実に通じ、学才を重んじられた。『花鳥余情』・『公事根源』・『樵談治要』など多くの著作がある。後成恩寺殿と号した。
妻 中御門宣俊の娘
妻の父 中御門宣俊→中御門経継~宣豊の系図
子 教房→一条教房の系図
子 尋尊(じんそん)【1430-1508】(『系図纂要』『摂家系図』による。)
興福寺別当。応仁の乱の際には、一条兼良の記録を大乗院で保管して兵火から守った。
子 厳宝(げんぽう)【?-1481】(『系図纂要』『摂家系図』による。)
東寺長者。
子 良鎮
父は一条経嗣とも。
子 教賢・桓澄(『系図纂要』『摂家系図』による。)
子 慈養・兼良の息子(4人)・子 尊秀・秀高・兼良の娘(『摂家系図』による。)
妻 町顕郷の娘
妻の父 町顕郷→坊城定資~俊継の系図
子 冬良・孫 房通→一条冬良~昭良の系図
子 政尊(『系図纂要』『摂家系図』による。)
子 兼良の娘(2人)(『摂家系図』による。)
妻 源康俊の娘
妻の父 源康俊→源則長の系図
子 経子→鷹司師平~忠冬の系図
子 秀賢/尊秀・尊好・宗方(『摂家系図』による。)
子 恵助(『系図纂要』による。)
子 光智・了高・兼良の娘(『摂家系図』による。)
一条教房の系図
一条教房(のりふさ)【1423-1480】〔養子:一条冬良(→一条冬良~昭良の系図)〕
関白・左大臣。土佐国幡多荘に下向した。妙華寺殿と号した。
祖父 経嗣・父 兼良→一条経通~兼良の系図
祖父 中御門宣俊→中御門経継~宣豊の系図
妻 上冷泉為之の娘
妻の父 上冷泉為之→冷泉為相~為之の系図
子 政房(まさふさ)【?-1469】
権大納言。摂津国福原荘に滞在中、赤松氏と山名氏の戦いに巻き込まれた。
子 房家(ふさいえ)【1475-1539】
権大納言。幡多荘のある中村で京都に倣った町づくりをした。
子の妻 源惟氏の娘
孫 房通〔養父:一条冬良〕→一条冬良~昭良の系図
子の妻 二条資冬の娘
子の妻の父 二条資冬→二条資家の系図
孫 房冬(ふさふゆ)【1498-1541】
権中納言。
孫の妻 玉姫宮(たまひめのみや)【1511-1547】
邦高親王(→邦高親王の系図)の娘。
曾孫 房基(ふさもと)【1522-1549】
従三位。
曾孫の妻 大友義鑑の娘
曾孫の妻の父 大友義鑑→大友義鑑の系図
曾孫の子の夫 伊東義益→伊東祐尭~義祐の系図
房家孫 兼定(かねさだ)【1543-1585】〔養父:一条房通(→一条冬良~昭良の系図)〕(以下、『系図纂要』による。)
権中納言。長宗我部元親に土佐を追われた。
兼定の妻 大友義鎮の娘
兼定の妻の父 大友義鎮→大友義鎮の系図
兼定の妻 宇都宮豊綱の娘
房家孫 内政(ただまさ・うちまさ)【1557-1580】
長宗我部元親により土佐国司とされた。のちに元親に対する反乱計画に加わり、追放された。
内政の妻 長宗我部元親の娘
内政の妻の父 長宗我部元親→長宗我部元親の系図
子の妻 五辻富仲の娘
子の妻の父 五辻富仲→五辻仲貞~富仲の系図
孫の夫 町顕冬→坊城定資~俊継の系図
一条冬良~昭良の系図
一条冬良(ふゆよし)【1464-1514】〔養父:一条教房(→一条教房の系図)〕
関白・太政大臣。桃華坊文庫の復興に努めたほか、『新撰菟玖波集』の撰進に関わった。後妙華寺殿と号した。
祖父 経嗣・父 兼良→一条経通~兼良の系図
祖父 町顕郷→坊城定資~俊継の系図
妻 伊勢貞頼の娘
妻の父 伊勢貞頼→伊勢貞頼の系図
子 慈尋【?-1498】(『系図纂要』による。)
一条房通(ふさみち)【1509-1556】
関白・左大臣。実は一条房家(→一条教房の系図)の子。唯心院殿と号した。
子 内基〔養父:一条兼冬〕
子 兼定(『系図纂要』による。)→一条教房の系図
実は一条房基の子。
子 聖信(しょうしん)【1544-1592】〔養父:邦輔親王(→邦輔親王の系図)〕(『系図纂要』による。)
一条兼冬(かねふゆ)【1529-1554】
関白・左大臣。後円明寺殿と号した。
妻 広橋保子
広橋兼秀(→広橋兼秀・国光の系図)の娘。
一条内基(うちもと)【1548-1611】
関白・左大臣。実は一条房通の子。自浄心院殿と号した。
一条昭良(あきよし)/兼遐(かねとお)【1605-1672】(以下、『系図纂要』による。)
摂政・関白・左大臣。実は後陽成天皇(→後陽成天皇の系図)の皇子。智徳院と号した。
妻 西洞院時直の娘
妻の父 西洞院時直→西洞院時直~時光の系図
子 教輔・孫 兼輝→一条教輔~道香の系図
子 醍醐冬基・孫 冬煕→醍醐冬基~忠順の系図
子の夫 光瑛→光瑛の系図
一条教輔~道香の系図
一条教輔(のりすけ)/伊実/教良【1633-1707】
右大臣。
祖父 内基・父 昭良→一条冬良~昭良の系図
祖父 西洞院時直→西洞院時直~時光の系図
妻 徳川輝子
実は池田光政(→池田光政の系図)の娘。
妻の父 徳川家光→徳川家光・家綱の系図
子 教輔の息子(3人)・子 教輔の娘(『一条家譜』による。)
一条兼輝(かねてる)/内房(うちふさ)/冬経(ふゆつね)【1652-1705】
摂政・関白・右大臣。霊元上皇に信任され、朝儀の復興に尽力した。日記は『兼輝公記』。
妻 徳川通子/光姫【1655-1671】
徳川光貞(→徳川頼宣~頼職の系図)の娘。
子の夫 久我惟通(『一条家譜』による。)→久我通誠~通兄の系図
一条兼香(かねか)【1692-1751】〔養子:鷹司輔平(→鷹司輔平の系図)〕
関白・太政大臣。実は鷹司房輔(→鷹司房輔~基輝の系図)の子。日記は『兼香公記』。
妻 池田綱政の娘
実は池田軌隆(→池田綱政の系図)の娘。
妻の父 池田綱政→池田綱政の系図
妻 浅野綱長の娘
妻の父 浅野綱長→浅野綱長・吉長の系図
子 鷹司基輝〔養父:鷹司尚輔〕→鷹司房輔~基輝の系図
子 醍醐兼純〔養父:醍醐経胤〕→醍醐冬基~忠順の系図
子 良演【1746-1760】
子 富子→中御門天皇~後桃園天皇の系図
子 重子→徳川宗将の系図
子 顕子→一橋宗尹の系図
子 郁子→徳川宗翰の系図
子 兼香の娘(2人)(『一条家譜』による。)
一条道香(みちか)【1722-1769】〔養子:醍醐兼純・醍醐冬香・醍醐輝久(→醍醐冬基~忠順の系図)〕
摂政・関白・左大臣。
妻 池田継政の娘
実は池田政純(→池田綱政の系図)の娘。
妻の父 池田継政→池田継政~治政の系図
子 輝良→一条輝良の系図
孫 忠良→一条忠良~実良の系図
子 教君【1767-1772】
子 三千君【1746-?】(『一条家譜』による。)
子 八代君→徳川治保の系図
孫 徳川治紀→徳川治紀・斉脩の系図
子 真君→久我信通~通久の系図
子 道香の息子・子 幸君・道香の娘(2人)(『一条家譜』による。)
一条輝良の系図
一条輝良(てるよし)【1756-1795】〔養子:醍醐輝弘(→醍醐冬基~忠順の系図)〕
関白・左大臣。日記は『輝良公記』。
祖父 兼香・父 道香→一条教輔~道香の系図
妻 徳川福子/懿姫【1767-1843】
徳川重倫(→徳川重倫~茂承の系図)の娘。
子 忠良・孫 忠香→一条忠良~実良の系図
子 西園寺実韶〔養父:西園寺賞季〕→西園寺公晃~公望の系図
子 寿君【1775-?】(『一条家譜』による。)
子 治君【1779-1786】(『一条家譜』による。)
子 為君【?-1792】(『一条家譜』による。)
子 全君【1794-?】(『一条家譜』による。)
子 宅慈【1787-1846】(『一条家譜』による。)
子 良助【?-1845】〔養父:三条実起(→三条実顕~実美の系図)〕(『一条家譜』による。)
子 茂君・長君(『一条家譜』による。)
子 福君→煕君の系図
子 政子→三条実顕~実美の系図
子 久君【1775-?】(『一条家譜』による。)
子 時君【1778-1837】(『一条家譜』による。)
子 金君【?-1787】(『一条家譜』による。)
子 立君【?-1789】(『一条家譜』による。)
子 雄喜君【?-1791】(『一条家譜』による。)
子 捃君【1793-1796】(『一条家譜』による。)
子 元君【1795-?】(『一条家譜』による。)
子 寿美君→貞敬親王の系図
子 周恭〔養父:勧修寺経逸〕→勧修寺顕道~経逸の系図
子 輝良の娘【1788】(『一条家譜』による。)
子 輝良の娘〔養父:三条公修〕→三条実顕~実美の系図
一条忠良~実良の系図
一条忠良(ただよし)【1774-1837】〔養子:醍醐忠善・醍醐忠順(→醍醐冬基~忠順の系図)〕
関白・左大臣。日記は『忠良公記』。
祖父 道香→一条教輔~道香の系図
父 輝良→一条輝良の系図
妻 細川富子
細川斉茲(→細川斉茲~護久の系図)の娘。
子 実通【1788-1805】
権中納言。
子 久我建通〔養父:久我通明〕→久我信通~通久の系図
子 槙君【?-1801】(『一条家譜』による。)
子 佳君【1802-1803】(『一条家譜』による。)
子 鹿加君【1821-1822】(『一条家譜』による。)
子 千君【?-1827】(『一条家譜』による。)
子 通子→松平頼謙~頼英の系図
子 知君→池田斉政~章政の系図
子 昵君【1801-1802】(『一条家譜』による。)
子 加寿君【1806-1808】(『一条家譜』による。)
子 盛君【?-1872】(『一条家譜』による。)
子 三千君(『一条家譜』による。)→摂信の系図
子 功君【?-1826】(『一条家譜』による。)
子 万世君【?-1821】(『一条家譜』による。)
子 嚋君【1822-1823】(『一条家譜』による。)
子 崇子→鷹司政通~輔政の系図
子 秀子→徳川家慶~慶喜の系図
子 代寿君【1830-1831】(『一条家譜』による。)
子 忠良の娘【?-1791】(『一条家譜』による。)
子 聡君・忠良の娘(『一条家譜』による。)
一条忠香(ただか)【1812-1863】
左大臣。日記は『忠香公記』。
妻 順子女王(じゅんこ・よりこ)【1827-1908】
貞敬親王(→貞敬親王の系図)の娘。
妻 新畑民子
新畑種成の娘。
子 美子(はるこ)/勝子(まさこ)/昭憲皇太后(しょうけん)【1850-1914】
明治天皇の皇后。女子教育の振興などに尽力したほか、多くの和歌を詠んだ。
子 勇君【1851】(『一条家譜』による。)
子 忠香の息子【?-1842】(『一条家譜』による。)
子 美知子→一橋斉敦~茂栄の系図
子 峯子→細川斉茲~護久の系図
子 省子→徳川家慶~慶喜の系図
子 輝子【1843-?】(『一条家譜』による。)
実は醍醐忠順(→醍醐冬基~忠順の系図)の娘。
子 明子→柳沢保光~保申の系図
一条実良(さねよし)【1835-1868】
右大臣。
妻 近衛総子
近衛忠煕(→近衛経煕~忠房の系図)の娘。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。