このページでは、南部氏(清和源氏・義光流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
南部氏(陸奥国盛岡藩主)の略系図
1 光行→南部光行・実光の系図
3 時実→南部時実~茂時の系図
11 信長→南部信長~信義の系図
22 政康→南部政康~信直の系図
27 利直→南部利直・重直の系図
29 重信→南部重信の系図
29-A 勝信→南部勝信~信起の系図
30 行信→南部行信の系図
31 信恩→南部信恩・利幹の系図
33 利視→南部利視の系図
34 利雄→南部利雄~利用の系図
39 利済→南部利済~利恭の系図
南部光行・実光の系図
南部光行(みつゆき)【1158-1226】
母は『寛政重修諸家譜』による。南部氏の祖。甲斐国巨摩郡南部郷に住んだ。源頼朝に仕え、奥州攻めで功をあげ、陸奥国糠部郡などを与えられた。
祖父 清光→源義清・清光の系図
父 遠光→加賀美遠光の系図
祖父 杉本義宗→杉本義宗の系図
子 行朝(ゆきとも)【?-1241】
子 四戸宗朝(むねとも)【?-1278】(『系図纂要』による。)
子 七戸朝清・九戸行連(『系図纂要』による。)
子 羽切井実長(さねなが)/波木井実長【1222-1297】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。日蓮に帰依した。
孫 長義【?-1313】(以下、『系図纂要』による。)
曾孫 長氏【?-1367】
実長孫 実氏【?-1378】
実長孫 行氏【?-1396】
実長孫 春行【?-1416】
実長孫 春氏【?-1444】
実長孫 氏実【?-1473】
実長孫 長春【?-1511】
実長孫 義実【?-1527】
実長孫 実行【?-1567】
実長孫 実春【?-1577】
孫 実継(以下、『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
曾孫の夫 東政行→南部時実~茂時の系図
南部実光(さねみつ)【1190-1263】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 時実・孫 政光→南部時実~茂時の系図
南部時実~茂時の系図
南部時実(ときざね)【1212-1264】
祖父 光行・父 実光→南部光行・実光の系図
子 宗経〔養父:南部政光〕(『寛政重修諸家譜』による。)
子 東政行
子の妻 羽切井実継の娘
子の妻の父 羽切井実継→南部光行・実光の系図
子 義元(よしもと)【?-1280】(以下、『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
孫 義行(よしゆき)【?-1318】
曾孫 義重【?-1326】
曾孫 茂時〔養父:南部祐政〕
曾孫 信長〔養父:南部茂時〕→南部信長~信義の系図
曾孫 仲行/為重/為長/茂長/信勝【?-1346】
父は南部茂時とも。
曾孫 茂行/祐長【?-1360】
父は南部茂時とも。
曾孫 信行/祐時【?-1336】
曾孫 義行の娘
実は南部祐政の娘。破切井政長に嫁いだ。
孫 宗行〔養父:南部宗経〕
孫 祐行〔養父:南部宗行〕
孫 実継(以下、『系図纂要』による。)
実政孫 頼村【?-1451】
実政孫 頼宗【?-1459】
実政孫 頼武【?-1492】
実政孫 頼連【?-1522】
実政孫 兼綱【?-1569】
実政孫 邦尚【?-1607】
実政孫 兼治【?-1607】
実政孫 忠嗣【?-1615】
実政孫 忠明【?-1600】
実政孫 朝邦【?-1609】
南部政光(まさみつ)/政元(まさもと)【1251-1265】
南部宗経(むねつね)【1246-1283】(以下、『系図纂要』による。)
実は南部時実の子。
南部宗行(むねゆき)【1250-1285】
実は南部義元の子。
子 政連〔養父:南部祐行〕
子 祐政〔養父:南部政連〕
子 義選(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
南部祐行(すけゆき)【1255-1292】
実は南部義元の子。
南部政連(まさつら)【1270-1302】
実は南部宗行の子。
南部祐政(すけまさ)【1285-1320】
実は南部宗行の子。
子 六郎(『寛政重修諸家譜』による。)
子 祐政の娘〔養父:南部義行〕
南部茂時(しげとき)【1300-1333】
実は南部義行の子。
子 信長・孫 政行→南部信長~信義の系図
子 仲行・茂行(『寛政重修諸家譜』による。)
父は南部義行とも。
南部信長~信義の系図
南部信長(のぶなが)【1305-1340】
実は南部義行(→南部時実~茂時の系図)の子。
祖父 祐政・父 茂時→南部時実~茂時の系図
子の夫 北宗元(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
南部政行(まさゆき)【1328-1388】
子 義実(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
南部守行(もりゆき)【1359-1437】
子 政盛〔養父:南部義政〕
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 助政〔養父:南部政盛〕
南部義政(よしまさ)/行政(ゆきまさ)【1375-1440】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 光政〔養父:南部助政〕
実は南部政盛の子。
南部政盛(まさもり)【1390-1486】
実は南部守行の子。
子 光政〔養父:南部義政、南部助政〕
子 時政〔養父:南部光政〕
南部助政(すけまさ)【?-1448】
実は南部守行の子。
子 彦太郎(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 信時〔養父:南部通継〕
南部光政(みつまさ)【1408-1462】〔養父:南部義政〕
実は南部政盛の子。
南部時政(ときまさ)【1410-1473】
実は南部政盛の子。
子 政常(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子の夫 九戸定連(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
南部通継(みちつぐ)【1425-1483】
子 信実・行実(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
南部信時(のぶとき)【1444-1503】
実は南部助政の子。
子 政康〔養父:南部信義〕→南部政康~信直の系図
子 野沢重義(しげよし)【1464-1508】
子 光康(みつやす)/康時【?-1500】
南部信義(のぶよし)【1458-1501】
子 政康・孫 安信→南部政康~信直の系図
子 政愛/正愛(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
南部政康~信直の系図
南部政康(まさやす)【1461-1507】
実は南部信時(→南部信長~信義の系図)の子。
祖父 信時・父 信義→南部信長~信義の系図
子 高信(たかのぶ)【1506-1581】(以下、『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
孫 信直〔養父:南部晴継〕
孫 波岡政信(まさのぶ)【1560-1588】
子 南長義(ながよし)/行信【?-1583】
子 石岡信房(のぶふさ)/政次/泰信【?-1583】
子 毛馬内秀範(ひでのり)/信次/時信【1521-1585】
南部安信(やすのぶ)【1493-1525】
子 安信の娘【?-1591】
九戸実親に嫁いだ。
子 安信の娘【?-1608】
北秀愛に嫁いだ。
南部晴政(はるまさ)【1515-1580】
南部晴継(はるつぐ)【1569-1581】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。
南部信直(のぶなお)【1546-1599】
実は南部高信の子。豊臣秀吉から領地を安堵され、九戸の乱を平定した。九戸城を再興して福岡城とした。
子 利直・孫 重直→南部利直・重直の系図
孫 直房→南部直房~広信の系図
南部利直・重直の系図
南部利直(としなお)/晴直(はるなお)【1576-1632】
陸奥国盛岡藩主。母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。藩政の確立に努めたほか、大坂の陣に出陣した。
祖父 晴継・父 信直→南部政康~信直の系図
妻 蒲生堅秀の娘
実は小倉行蔭の娘。養父は蒲生氏郷とも。
妻の父 蒲生堅秀→蒲生堅秀の系図
子 利康(としやす)/康直【1607-1631】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。
子 村子【?-1639】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。
妻 今淵政明の妹
子 家直(いえなお)/経直/経貞【1598-1613】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。
妻 石井直弥の娘
子 政直(まさなお)【1599-1624】
子 糸子/北子【1599-1678】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。
子 七子【1606-1665】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。当初は最上義俊に嫁ぐ予定であった。
妻 花輪政友の娘
子 重信〔養父:南部重直〕→南部重信の系図
妻 山田長豊の娘
子 山田利長(としなが)【1626-1662】
孫 南部久松〔養父:南部重直〕
妻 中里正吉の娘
子 直房・孫 直政→南部直房~広信の系図
南部重直(しげなお)/勝直【1606-1664】
盛岡藩主。跡継ぎが決まる前に死去し、藩は盛岡藩と八戸藩に分割された。
妻 加藤嘉明の娘
妻の父 加藤嘉明→加藤嘉明の系図
子 長松丸(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 楽子【1647-1654】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。
妻 字留左兵衛の娘
子 吉松丸【1644-1652】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。
妻 本舘慶起の妹
子 吹子【1661-1667】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 重信→南部重信の系図
孫 行信→南部行信の系図
孫 政信→南部政信~信方の系図
孫 勝信→南部勝信~信起の系図
子 久松【?-1653】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
実は山田利長の子。
子 勝直【1642-1659】
実は堀田正盛(→堀田正盛の系図)の子。
南部重信の系図
南部重信(しげのぶ)【1616-1702】
盛岡藩主。実は南部利直(→南部利直・重直の系図)の子。
祖父 利直・父 重直→南部利直・重直の系図
妻 村木勝秀の娘
子 七戸秀信/政信【1635-1663】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 玉山秀久の娘
子 七戸定信/政行【1638-1663】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 行信→南部行信の系図
孫 信恩→南部信恩・利幹の系図
子 式子→池田綱清~重寛の系図
妻 上田親清の娘
子 七戸英信【1658-1731】〔養子:七戸舜信〕(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 兵部【1664-1666】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 七子→有馬忠頼~頼旨の系図
妻 穂高政次の娘
子 政信・孫 信弥→南部政信~信方の系図
妻 新渡戸常秀の娘
子 勝信・孫 信尹→南部勝信~信起の系図
子 万之助【1670-1673】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 七戸愛信/親信【1674-1732】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
孫 留子〔養父:南部利幹〕→南部信恩・利幹の系図
孫の夫 南部信起→南部勝信~信起の系図
孫の夫 南部信弥→南部政信~信方の系図
子 色子【1672-1674】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 千代子【1676-1677】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 岸子【?-1681】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 栃内直親の妹
子 通信〔養父:南部直政〕→南部直房~広信の系図
妻 那波安光の娘
子 坪内定信〔養父:坪内定重〕→坪内定信の系図
子 三代子【?-1683】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 八千子【1685-1693】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 赤沢吉将の娘
子 七戸舜信/賢信【1682-1706】〔養父:七戸英信〕(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 慶子【1686-1719】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 益子【?-1720】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 千之助【1671-1673】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 岩子【?-1674】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 捨子【1678】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
南部勝信~信起の系図
南部勝信(かつのぶ)【1669-1732】
祖父 重直→南部利直・重直の系図
父 重信→南部重信の系図
妻 南部直政の娘
妻の父 南部直政→南部直房~広信の系図
南部信尹(のぶただ)/豊武(とよたけ)/武信(たけのぶ)【1695-1750】
実は山内豊明(→山内豊明の系図)の子。
妻 南部勝信の娘【?-1735】
南部信之(のぶゆき)【1719-1748】
実は毛利高慶(→毛利高慶・高通の系図)の子。
妻 南部信尹の娘【?-1797】
南部信起(のぶおき)【1724-1777】
実は南部利幹(→南部信恩・利幹の系図)の子。
妻 七戸愛信の娘
妻の父 七戸愛信→南部重信の系図
子 熊之助【1748-1756】
子 利正〔養父:南部利雄〕→南部利雄~利用の系図
子 与利子→南部利雄~利用の系図
子 鷹子→南部政信~信方の系図
南部行信の系図
南部行信(ゆきのぶ)/正信/尚信【1642-1702】
盛岡藩主。
祖父 重直→南部利直・重直の系図
父 重信→南部重信の系図
妻 毛利熊【1651-1684】
毛利光広(→毛利光広~元矩の系図)の娘。
子 信千代【1670-1671】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 実信【1676-1700】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子の妻 池田綱政の娘
子の妻の父 池田綱政→池田綱政の系図
子 伊久子→青山幸督~幸道の系図
子 志久子→南部直房~広信の系図
子 幕子→毛利高政~高久・高定~高逵の系図・小出重興の系図
妻 中里正房の娘
子 八弥【1673-1678】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 大八郎【1675-1676】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 鍋之助【1681-1682】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 百助【1682-1683】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 重四郎【1683-1685】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 善吉【1697-1698】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 繰子【1666-1669】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 鎮子→牧野英成の系図
妻 椎名高武の妹
子 主膳【1676】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 汐子【?-1687】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 春子【?-1691】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 艶子→黒田綱政~継高の系図
妻 関正元の娘
子 久子【?-1693】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 岩井吉当の姉
子 信恩・孫 利幹→南部信恩・利幹の系図
妻 中野為勝の娘
子 権之助【?-1692】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 助子【?-1692】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 岩間政次の娘
子 利幹〔養父:南部信恩〕→南部信恩・利幹の系図
子 五郎八【?-1692】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 半十郎【?-1698】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 呂久子【?-1694】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 孫三郎【1676】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 孫六【?-1695】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 次郎四郎【1694-1697】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 茂与子【?-1687】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 糸子【?-1695】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
南部信恩・利幹の系図
南部信恩(のぶおき)【1678-1707】
盛岡藩主。
妻 毛利元【1675-1743】
毛利綱元(→毛利光広~元矩の系図)の娘。
子 岩次郎【1702-1704】
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 楢山隆常の娘
子 玉山藤平【1698-1699】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 黒沢定治の娘
子 利視〔養父:南部利幹〕→南部利視の系図
子 昆子【1706】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 信恩の娘【1707】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 新渡戸常政の娘
子 政子→永井直期・直行の系図
南部利幹(としもと)【1689-1725】
盛岡藩主。実は南部行信(→南部行信の系図)の子。
妻 蜂須賀春【1694-1726】
実は蜂須賀隆重(→蜂須賀隆重~正員の系図)の娘。
妻の父 蜂須賀隆長→蜂須賀隆重~正員の系図
子 利幹の娘(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 橋本清政の娘
子 豊子【1718-1719】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 類子【1721-1723】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 橋本吉祐の妹
子 利雄〔養父:南部利視〕→南部利雄~利用の系図
妻 川井影寛の娘
子 信起〔養父:南部信之〕→南部勝信~信起の系図
子 利視→南部利視の系図
孫 利雄→南部利雄~利用の系図
子 留子【1727-1767】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
実は七戸愛信(→南部重信の系図)の娘。
南部利視の系図
南部利視(としみ)【1708-1752】
盛岡藩主。実は南部信恩(→南部信恩・利幹の系図)の子。藩政改革を行った。俳諧にすぐれた。
祖父 信恩・父 利幹→南部信恩・利幹の系図
妻 榊原政邦の娘
初めは阿部正秋に嫁ぐ予定であった。
妻の父 榊原政邦→榊原政邦の系図
妻 漆戸正勝の娘
子 冨松【1734-1736】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 吉子【1731-1742】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
北継坦に嫁ぐ予定であった。
妻 大森豊盛の娘
子 千代太郎【1732-1733】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 漆戸茂親の妹
子 信伝〔養父:南部信弥〕→南部政信~信方の系図
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。
子 三戸信居【1738-1787】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。
子の妻 南部貞
南部広信(→南部直房~広信の系図)の娘。
子 三戸信駕【1739-1794】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。
子 峯子/吟子【1734】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 利喜子【1740-1741】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 十子【1744-1747】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 開式忠の娘
子 愛子→牧野惟成の系図
子 台子【1736-1780】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 横浜通宴の妹
子 千之助【1744-1747】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 三戸信明【1748-1768】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。
子 増子【1750-1751】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 寅子【1752-1820】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 工藤祐定の妹
子 三戸信周【1744-1786】(以下、『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
孫 信丞【1780-1815】
孫の妻 南部年子/寿子【1784-1825】
南部利正(→南部利雄~利用の系図)の娘。
曾孫 南部利用〔養父:南部利用〕→南部利雄~利用の系図
孫 信浄【1781-1813】
曾孫 信温【1796-1844】
曾孫 浄義【1799-1830】
曾孫 南部利用〔養父:南部利用〕→南部利雄~利用の系図
子 三戸七之助【1746-1747】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子 利視の娘【1750】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 山屋勝秀の娘
子 三戸文吉【1750-1751】(『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
妻 瀬山文治の娘
子 利正〔養父:南部利雄、南部信起〕→南部利雄~利用の系図
子 利雄・孫 利正→南部利雄~利用の系図
南部利雄~利用の系図
南部利雄(としかつ)【1725-1779】
盛岡藩主。実は南部利幹(→南部信恩・利幹の系図)の子。
祖父 利幹→南部信恩・利幹の系図
父 利視→南部利視の系図
妻 前田弓【?-1750】
実は前田利章(→前田利治~利章の系図)の娘。初めは二条宗煕に嫁ぐ予定であった。
妻の父 前田吉徳→前田吉徳~重教の系図
子 利謹(としのり)/高信(たかのぶ)【1746-1814】(以下、『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
子の妻 黒田麻【1741-?】
黒田継高(→黒田綱政~継高の系図)の娘。
孫 利謹の息子【1774】
孫 利済〔養父:南部利用〕→南部利済~利恭の系図
孫 利謹の娘【1779】
孫 永子【1794-1872】
子 亀五郎【1747-1756】
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 福島吉顕の娘
子 辰子→細川利寛~利永の系図
南部利正(としまさ)【1752-1784】〔養父:南部信起(→南部勝信~信起の系図)〕
盛岡藩主。実は南部利視(→南部利視の系図)の子。
妻 南部与利子
南部信起(→南部勝信~信起の系図)の娘。
子 彦次郎【1774-1775】
子 豊子→井伊直中~直憲の系図
子 幸子→松平輝和~輝声の系図
子 長子【1777-1781】
母は『南部家譜(陸奥盛岡)』による。松平直之に嫁ぐ予定であった。
子 年子→南部利視の系図
南部利敬(としたか)/信敬【1782-1820】
盛岡藩主。東蝦夷地の警備に当たり、20万石に格上げされた。
妻 浅野重晟の娘
妻の父 浅野重晟→浅野重晟の系図
子 雅子→南部利済~利恭の系図
南部利用(としもち)/吉次郎【1806-1820】
盛岡藩主。実は三戸信丞(→南部利視の系図)の子。
南部利用(としもち)/善太郎【1803-1825】
盛岡藩主。実は三戸信浄(→南部利視の系図)の子。先代の急死により、身代わりとして藩を継いだ。
子 利済・孫 利義→南部利済~利恭の系図
子 豊子→南部利済~利恭の系図
南部利済~利恭の系図
南部利済(としただ)【1797-1855】(以下、『南部家譜(陸奥盛岡)』による。)
盛岡藩主。実は南部利謹(→南部利雄~利用の系図)の子。重税を課したことで、農民一揆を引き起こした。
祖父 利用・父 利用→南部利雄~利用の系図
妻 南部雅子【1803-1829】
実は松平輝延(→松平輝和~輝声の系図)の娘。
妻の父 南部利敬→南部利雄~利用の系図
子 利済の息子【1828】
妻 楢山隆冀の妹
子 謹諧【1825-1839】
子 利剛〔養父:南部利義〕
子 謹詳【1828-?】
子 廉子【1824-1825】
妻 田丸五陸の娘
子 利済の息子【1834】
子 〓子【1830-1831】
〓は「金」+「山」+「虫」。
子 達子【1833】
子 綏子【1833-1834】
妻 青木氏
子 成子【1836-?】
妻 小寺玄淵の娘
子 益五郎【1838-1839】
子 健之丞【1839-1840】
子 護次郎【1842-1843】
子 興子【1842-1843】
子 鶴子【1844-1845】
子 亀子【1844-1845】
鶴子・亀子は双子。
妻 村瀬氏
子 謹弘【1843-?】
子 信民→南部政信~信方の系図
子 斉三郎【1847-1849】
子 元子【1847-1849】
子 利済の娘〔養父:南部信誉〕(『南部家譜(陸中七戸)』による。)→南部政信~信方の系図
南部利義(としとも)【1823-1888】
盛岡藩主。藩政の実権を握った父利済によって引退させられた。
妻 井伊豊子/鎌子【1825-1847】〔養父:南部利誉(→南部政信~信方の系図)〕
実は南部利用(→南部利雄~利用の系図)の娘。
妻の父 井伊直亮→井伊直中~直憲の系図
子 〓丸【1843-1844】
〓は「羊」+「松」。
子 纓千代【1857-1858】
子 利国/竜丸/義常【1858-?】(『華族系譜』による。)
子 利純/千代鶴【1861-?】(『華族系譜』による。)
子 利道【1874】
子 教子/延子【1844-1845】
子 八重子【1847】
子 婦美子【1848】
子 久子【1850-1851】
子 三亀子【1861-1862】
子 愛子【1865-?】
南部利剛(としひさ)/謹敦【1826-1896】〔養父:南部信誉(→南部政信~信方の系図)〕
盛岡藩主。実は南部利済の子。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わった。
妻 徳川松姫
徳川斉昭(→徳川斉昭~昭武の系図)の娘。
子 予千代【1863-1865】
子 利克【1873-?】(『華族系譜』による。)
子 利功【1874-?】(『華族系譜』による。)
子 輝子【1865-1867】
子 宗子【1866-?】
子 章子【1871】
子 総子【1870】
子 瑩子→松前章広~修広の系図
子 季(『華族系譜』による。)
妻 宮治兵衛の娘
子 英麿(ひでまろ)【1856-1910】〔養父:大隈重信〕
東京専門学校の校長を務めた。
子 信方〔養父:南部信民〕→南部政信~信方の系図
子 郁君→博経親王の系図
妻 大光寺悦翁の娘
子 剛寧【1861-1867】
子 達麿【1863-1864】
子 剛確【1866-?】
子 剛融【1867-1871】
子 麻子【1858-?】
子 卓子【1865-?】
子 倫子【1868-?】
妻 金田一善之丞の娘
子 規矩麿【1865】
子 剛護【1869-?】
子 稠子【1862-?】
子 舒子【1863-1865】
子 馨子【1868-1870】
南部利恭(としゆき)/剛毅【1855-1903】
陸奥国白石藩主・盛岡藩主。戊辰戦争により白石に転封となったが、70万両の献金を条件に盛岡に復帰した。
妻 伊達照
伊達宗城(→伊達宗城・宗徳の系図)の娘。
夫 水野忠弘→水野忠邦~忠弘の系図
妻 溝口直溥の娘
妻の父 溝口直溥→溝口直溥の系図
妻 浅野喜久
浅野懋昭(→浅野重晟の系図)の娘。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。