清和源氏の系図

系図のメモ帳
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 このページでは、清和源氏の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。

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貞純親王・源経基の系図

貞純親王・源経基の系図

  貞純親王(さだずみ)【?-916】

祖父 文徳天皇文徳天皇の系図
 清和天皇清和天皇の系図
祖父 棟貞王桓武天皇の系図

 源柄子
 源能有(→源能有の系図)の娘。
 源経生
 母は『系図纂要』による。
子の妻 源中正の娘
子の妻の父 源中正源当年の系図


  源経基(つねもと)【?-961】
 清和源氏の祖。朝廷に平将門らが反乱を企てたと報告した。藤原純友の乱の際には、鎮圧にあたった。
 橘繁古の娘
 満仲源満仲の系図
 頼光源頼光の系図
 頼信源頼信の系図

 満政 忠重源満政~重宗の系図
 善積忠隆善積忠隆・斉頼の系図

 満実
 母は藤原敏有の娘(『系図纂要』)とも。

 藤原敏有の娘
 満季→源満季の系図
 満快→源満快の系図
 満生〔養父:源満仲(→源満仲の系図)〕
 母は『系図纂要』による。
 満重
 母は『系図纂要』による。
 忠国(『系図纂要』による。)

 満頼
 実は源満季(→源満季の系図)の子。
子の夫 源元亮→源元亮の系図
子の夫 藤原惟岳藤原高経・惟岳の系図

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源満仲の系図

源満仲の系図

  源満仲(みつなか)【912-997】
 母は藤原敏有の娘とも。多田源氏の祖。安和の変を密告し、摂関家との結びつきを強めた。

祖父 貞純親王 経基貞純親王・源経基の系図

 源俊の娘
妻の父 源俊源定の系図
 頼光源頼光の系図
 頼国源頼国の系図

 頼平→源頼平の系図
 源賢(げんけん)【977-1020】
 多田法眼・摂津法眼と号した。

 藤原致忠の娘
妻の父 藤原致忠藤原元方の系図
 頼親→源頼親の系図
 頼信源頼信の系図
 頼義源頼義の系図
 頼清源頼清の系図

 頼範→源頼範の系図
 頼明/頼朝〔養父:源頼光(→源頼光の系図)〕
 頼貞〔養父:源頼光(→源頼光の系図)〕
 孝道→源孝道の系図
 実は源元亮の子。
 満生貞純親王・源経基の系図
 実は源経基の子。
子の夫 藤原頼親藤原道隆の系図
子の夫 源敦人康親王・本康親王・源光の系図

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源頼信の系図

源頼信の系図

  源頼信(よりのぶ)【968-1048】
 河内源氏の祖。藤原道長らに仕え、国守を歴任した。平忠常の乱を平定したことにより、東国進出の礎を作った。

祖父 経基貞純親王・源経基の系図
 満仲源満仲の系図
祖父 藤原致忠藤原元方の系図

 頼義源頼義の系図
 義家源義家の系図
 石橋義綱石橋義綱の系図
 義光源義光の系図

 頼清源頼清の系図
 仲宗源仲宗・顕清の系図
 兼宗源兼宗の系図
 家宗源家宗の系図

 井上頼季→井上頼季の系図
 河内頼任→河内頼任の系図
子の夫 源為満→源為満の系図
子の夫 高階成佐高階敏忠・業遠の系図
子の夫 紀維貞→紀維貞の系図

義政孫 胤義/政胤
義政孫 政胤
 父は国井師胤とも。

義政孫 俊貞(『系図纂要』による。)

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源頼義の系図

源頼義の系図

  源頼義(よりよし)【988-1075】
 鎮守府将軍として前九年の役で反乱を平定した。石清水八幡宮を鎌倉の由比郷に勧請した。

祖父 満仲源満仲の系図
 頼信源頼信の系図

 平直方の娘
妻の父 平直方平維将~時直の系図
 義家源義家の系図
 義親源義親の系図
 義国義忠源義国・義忠の系図
 為義源為義の系図
 石川義時石川義時~忠頼の系図

 石橋義綱石橋義綱の系図
 義光源義光の系図
 義清源義清・清光の系図
 平賀盛義平賀盛義の系図

 快誉
 母は『系図纂要』による。

 多気致幹の娘
妻の父 多気致幹→多気致幹の系図
子の夫 成衡(『系図纂要』による。)

 河野親清〔養父:河野親経〕(『系図纂要』による。)→河野為綱~親清の系図
子の夫 藤原時房藤原頼明の系図

石橋義綱の系図

石橋義綱の系図

  石橋義綱(よしつな)【?-1134】
 賀茂二郎と称された。子の義明が源義忠を殺害したとして佐渡に流され、後に自殺した。

祖父 頼信源頼信の系図
 頼義源頼義の系図
祖父 平直方平維将~時直の系図

 藤原季定の娘
妻の父 藤原季定藤原季定の系図

 茂弘(以下、『系図纂要』による。)

子の夫 源雅行源顕行・行賢の系図

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源義家の系図

源義家の系図

  源義家(よしいえ)【1039-1106】〔養子:源義光(→源義光の系図)〕
 石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎と号した。前九年の役・後三年の役で活躍した。

祖父 頼信源頼信の系図
 頼義源頼義の系図
祖父 平直方平維将~時直の系図

 源隆長の娘
妻の父 源隆長源兼長~俊兼の系図
 義親源義親の系図
 義信源義信の系図
 義俊源義俊の系図
 義泰源義泰の系図
 義行源義行の系図

 藤原有綱の娘
妻の父 藤原有綱藤原有綱~信重の系図
 義国義忠源義国・義忠の系図
 新田義重新田義重~義房の系図
 足利義康足利義康・義兼の系図

 為義源為義の系図
 義朝源義朝の系図
 義賢源義賢~木曽家村の系図
 義広為朝行家為家源義広・為朝・行家・為家の系図
 松井維義松井維義~宗豊の系図

 石川義時 義基石川義時~忠頼の系図
 若槻義隆→若槻義隆の系図
 増珍/信実
 高階惟頼〔養父:高階惟章〕→高階惟頼の系図
子の夫 輔仁親王後三条天皇の系図
子の夫 源重遠源重遠・山田重直の系図

源義国・義忠の系図

源義国・義忠の系図

  源義国(よしくに)【?-1155】
 徳大寺実能の邸宅を焼き払ったことで勅勘を蒙り、下野国足利に下向した。

祖父 頼義源頼義の系図
 義家源義家の系図
祖父 藤原有綱藤原有綱~信重の系図

 藤原敦基の娘
妻の父 藤原敦基藤原敦基の系図
 新田義重 義兼新田義重~義房の系図
 得川義季得川義季~世良田有親の系図

 源有房の娘
妻の父 源有房源顕定の系図
 足利義康 義兼足利義康・義兼の系図
 義清足利義清・広沢義実の系図

 国康(『系図纂要』による。)


  源義忠【1084-1109】
 叔父である源義光の郎従の鹿島三郎に暗殺された。
 平忠盛の娘
妻の父 平忠盛平正盛・忠盛の系図

 為義源為義の系図
 義雄
 『系図纂要』によれば実は源義親(→源義親の系図)の子。

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源為義の系図

源為義の系図

  源為義【1096-1156】〔養父:源義忠(→源義国・義忠の系図)、養子:佐々木秀義(→佐々木秀義の系図)〕
 実は源義親(→源義親の系図)の子。保元の乱で崇徳上皇方について敗れた。六条判官と号した。

祖父 頼義源頼義の系図
 義家源義家の系図
祖父 藤原有綱藤原有綱~信重の系図

 藤原忠清の娘
妻の父 藤原忠清藤原忠清の系図
 義朝源義朝の系図
 頼朝源頼朝の系図
 希義円成源希義・円成の系図
 全成全成の系図

 六条重俊の娘
 義賢 木曽義仲源義賢~木曽家村の系図
 義広源義広・為朝・行家・為家の系図

 源基実の娘
 頼賢(よりかた)【?-1156】
 保元の乱に敗れ、弟の頼仲・為宗・為成とともに船岡山で処刑された。
 義房〔養父:源行家〕→源義広・為朝・行家・為家の系図

 頼仲【?-1156】
 母は源資道の娘、源資遠(→源資遠の系図)の娘とも。
 源秀/源季

 為宗【?-1156】

 賀茂成宗の娘
 為成【?-1156】

 江口遊女
 為朝源義広・為朝・行家・為家の系図

 源顕仲の娘
妻の父 源顕仲源顕仲の系図

 行遠の娘【?-1156】
 乙若丸【1143-1156】
 母は『系図纂要』による。
 亀若丸【1146-1156】
 母は『系図纂要』による。
 鶴若丸【1148-1156】
 母は『系図纂要』による。
 天王丸【1150-1156】
 母は『系図纂要』による。

 源資遠の娘
妻の父 源資遠→源資遠の系図

 行家為家源義広・為朝・行家・為家の系図
子の夫 経家源義広・為朝・行家・為家の系図
 実は源為家の子。
 松井維義 義宗松井維義~宗豊の系図
 義成/義次
 湛増〔養父:湛快〕→湛増の系図
 丹鶴姫鳥居重氏~重春の系図
子の夫 三条実房三条実房の系図
子の夫 佐々木秀義佐々木秀義の系図
 定綱佐々木定綱の系図
 加地盛綱加地盛綱の系図

子の夫 行恵後三条天皇の系図
子の夫 藤原光隆(『寛政重修諸家譜』による。)→藤原定任の系図
 伊達朝宗伊達朝宗~成宗の系図

源義広・為朝・行家・為家の系図

源義広・為朝・行家・為家の系図

  源義広(よしひろ)/義範/義憲
 志田三郎先生と称した。常陸国信太郡に居住し、東国支配を強めた源頼朝と対立した。後に木曽義仲とともに行動したが、源義経らに敗れた。

祖父 義家源義家の系図
 為義源為義の系図

 義純(以下、『系図纂要』による。)


  源為朝(ためとも)【1139-1170】
 鎮西八郎と称した。保元の乱で崇徳上皇方につき、伊豆大島に流され、その後、追討の命を受けた工藤茂光に攻められて自害した。伊豆大島を抜け出して琉球に渡ったという伝説もある。
 為家/為政
曾孫 為直(『系図纂要』による。)

子の夫 足助重長足助重長の系図

 為宗(『系図纂要』による。)

曾孫 義益(『系図纂要』による。)
曾孫 義季(『系図纂要』による。)
曾孫 義長(『系図纂要』による。)


  源行家(ゆきいえ)/義盛【?-1186】
 新宮十郎と称した。以仁王の令旨を奉じて東国に下向し、諸国の源氏の蜂起を促した。源平合戦では木曽義仲とともに行動したが、後に対立した。平家滅亡後、源義経と協力して源頼朝に対抗しようしたが、捕らえられて殺された。
 義房
 実は源頼賢(→源為義の系図)の子。
 光家/家光【?-1186】
 大内惟義大内惟義~秀治の系図
 父は平賀義信とも。


  源為家/義久
 経家〔養父:源為義(→源為義の系図)〕
子の妻 源為義の娘
子の妻の父 源為義源為義の系図

曾孫 成基
曾孫の子の夫 佐竹綱義→佐竹綱義の系図

曾孫の夫 土岐国綱土岐国衡・光俊の系図

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源義朝の系図

源義朝の系図

  源義朝(よしとも)【1123-1160】
 保元の乱で後白河天皇方につき勝利するも、平治の乱に敗れて殺された。

祖父 義家源義家の系図
 為義源為義の系図
祖父 藤原忠清藤原忠清の系図

 橋本遊女
 義平(よしひら)【1141-1160】
 母は範兼の娘とも。悪源太と号した。平治の乱に敗れ、後に平清盛の暗殺を企てるが失敗した。
子の妻 新田義重の娘
子の妻の父 新田義重新田義重~義房の系図

 範兼の娘
 朝長(ともなが)【1144-1159】
 平治の乱に敗れ、美濃国青墓で自害した。

 藤原季範の娘
妻の父 藤原季範→藤原季範の系図
 頼朝源頼朝の系図
 義門
 母は『系図纂要』による。
 希義源希義・円成の系図
子の夫 一条能保一条通重・能保の系図
 高能一条高能の系図

 遠江国池田宿遊女
 範頼→源範頼の系図

 常盤御前
 藤原長成藤原忠能の系図
 平清盛平清盛の系図
 全成全成の系図
 円成源希義・円成の系図
 義経(よしつね)【1159-1189】
 源平合戦で活躍した。後に頼朝と対立して平泉に逃れたが、衣川館で自殺した。
子の妻 河越重頼の娘
子の妻の父 河越重頼→河越重頼の系図
 義経の娘
 母は『系図纂要』による。衣川館において4歳で亡くなった。

子の妻 光一の娘
孫の夫 馬場有綱(『系図纂要』による。)→馬場有綱の系図

子の妻 勧修寺坊官の娘
 乾氏(『系図纂要』による。)

子の妻 静御前(しずかごぜん)
 舞の名手。頼朝夫婦の要請で鶴岡八幡宮で舞を舞った。
子の妻の母 磯禅師(いそのぜんじ)
 義経の息子
 即日殺された。

子の妻 平時忠の娘
子の妻の父 平時忠平時信の系図

 延寿(えんじゅ)
 美濃国青墓の長者大炊の娘。娘の後を追おうとしたが止められて出家した。
 夜叉御前(やしゃごぜん)【1150-1160】
 父義朝が殺され、兄頼朝が捕らえられたことで、杭瀬川に身を投げた。

 小田知家〔養父:宇都宮宗綱〕→小田知家の系図

源希義・円成の系図

源希義・円成の系図

  源希義(まれよし)【?-1180】
 平治の乱後土佐国に流された。源頼朝が挙兵すると、平氏に兵を向けられて自害した。

祖父 為義源為義の系図
 義朝源義朝の系図
祖父 藤原季範→藤原季範の系図

曾孫 貞範(以下、『系図纂要』による。)
貞範孫 宣経(のぶつね)
 南村梅軒を招き、土佐南学の基礎を築いたとされる。

貞範孫 宣義(のぶよし)
 吉良宣直を諫めて禁固に処され、断食して亡くなったとされる。


  円成/義円(ぎえん)【1155-1181】
 源頼朝の挙兵に合流したが、墨俣川の戦いで戦死した。
曾孫 保成
曾孫の妻 阿野義泰の娘
曾孫の妻の父 阿野義泰全成の系図

豪範孫 保義/治成
豪範孫 義里(『系図纂要』による。)

全成の系図

全成の系図

  全成(ぜんじょう)/隆超【1153-1203】
 平治の乱後、醍醐寺に入った。後に駿河国阿野に住み、阿野禅師と号した。謀反の疑いにより、常陸に流された後、八田知家に誅された。

祖父 為義源為義の系図
 義朝源義朝の系図

 北条時政の娘
妻の父 北条時政北条時家~時政の系図
 阿野時元(ときもと)【?-1219】
 源実朝の死後、謀反の疑いにより、金窪行親らに攻められて自害した。
曾孫 義泰
曾孫の子の夫 愛智保成源希義・円成の系図

時元孫 頼房【?-1336】

 頼全(らいぜん)【?-1203】
 父全成が誅された後に殺された。
子の夫 藤原隆仲藤原隆房の系図
子の夫 阿野公佐阿野公佐~公廉の系図

 仁暁/任暁

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源頼朝の系図

源頼朝の系図

  源頼朝(よりとも)【1147-1199】〔養子:三浦胤義(→三浦義澄の系図)〕
 権大納言。鎌倉幕府初代将軍(1192-1199)。平治の乱に敗れ、伊豆国に流された。後に挙兵し、平氏と奥州藤原氏を滅ぼすとともに、鎌倉幕府を開いた。落馬が原因で亡くなったとされる。

祖父 為義源為義の系図
 義朝源義朝の系図
祖父 藤原季範→藤原季範の系図

 北条政子(まさこ)【1157-1225】
 北条時政(→北条時家~時政の系図)の娘。尼将軍と称された。承久の乱では御家人を結束させた。
 頼家(よりいえ)【1182-1204】
 従二位。鎌倉幕府2代将軍(1202-1203)。修善寺に幽閉された後に殺された。
子の妻 比企能員の娘
子の妻の父 比企能員(よしかず)【?-1203】
 十三人の合議制の一人。北条時政を排そうとしたが失敗した。
 栄実(えいじつ)【1201-1214】
 栄西のもとで出家させられ、後に自殺した。
 一幡(いちまん)【1198-1203】
 比企能員とともに殺された。

子の妻 足助重長の娘
子の妻の父 足助重長足助重長の系図
 公暁(くぎょう)【1200-1219】〔養父:源実朝〕
 鶴岡八幡宮で源実朝を暗殺した。

子の妻 昌実の娘
 禅暁(ぜんぎょう)【?-1220】
 執権北条義時に暗殺された。

子の妻 木曽鞠子
 木曽義仲(→源義賢~木曽家村の系図)の娘。
 竹御所九条道家の系図

 実朝(さねとも)【1192-1219】〔養子:公暁、竹御所(→九条道家の系図)〕
 右大臣。鎌倉幕府3代将軍(1203-1219)。右大臣拝賀のため、鶴岡八幡宮を参詣した際に公暁に暗殺された。和歌を好み、家集に『金槐和歌集』がある。
子の妻 坊門信清の娘【1193-1274】
 夫の死後、京都に帰って大通寺を創建し、冥福を祈った。
子の妻の父 坊門信清坊門信清の系図

 大姫源義賢~木曽家村の系図
 三幡(さんまん)【1186-1199】

 比企能員の妹
 島津忠久→島津忠久の系図
 忠季【?-1221】

 伊達朝宗の娘
妻の父 伊達朝宗伊達朝宗~成宗の系図
 貞暁(じょうぎょう)【1186-1231】
 高野山に入り源氏将軍の菩提を弔った。

 万幸御前
 伊東祐親(→伊東祐家・祐親・工藤茂光の系図)の娘。
 忠頼(『系図纂要』による。)→源忠頼の系図

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系図について

 本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
 あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。

 系図はおおよそ次の方針で作成しています。

  • 系図に描画する人物の範囲について
     上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
     下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。
  • 人物の表示の区別について
     系図では、次の通り背景色を区別しています。
     (オレンジ)……天皇
     (緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
     (黄)……江戸時代の将軍・藩主
     (水色)……その他男性
     (ピンク)……その他女性
  • 養子・猶子について
     両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
     養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
     一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
     なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。
  • 正室・側室等について
     これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。
  • 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
     『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。
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