このページでは、藤原氏式家の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
藤原氏式家の略系図
1 宇合→藤原宇合の系図
1-A 良継→藤原良継の系図
1-B1 清成→藤原清成・種継の系図
1-B2 安継→藤原安継の系図
1-B3 山人・藤生・世嗣→藤原山人~佐世・藤生・世嗣の系図
1-B4 文貞→藤原文貞の系図
1-C 綱手→藤原綱手の系図
1-D1 百川→藤原百川・緒嗣の系図
1-D2 春津→藤原春津の系図
2 蔵下麿→藤原蔵下麿の系図
2-A 網主→藤原網主の系図
2-B1 綱継→藤原綱継・吉野の系図
2-B2 近主→藤原近主~仲実の系図
2-B3 邦忠→藤原邦忠の系図
3 縄主→藤原縄主・貞本の系図
5 正峯→藤原正峯~敦信の系図
10 明衡→藤原明衡の系図
10-A1 敦基→藤原敦基の系図
10-A2 令明→藤原令明の系図
11 敦光→藤原敦光の系図
11-A 有光→藤原有光の系図
11-B 長光→藤原長光の系図
12 成光→藤原成光の系図
藤原宇合の系図
藤原宇合(うまかい)【694−737】
参議。式家の祖。長く式部卿の地位にあったことによる。天然痘で亡くなった。
妻 石上国咸大眉
妻の父 石上麿(まろ)【640−717】
左大臣。壬申の乱では大友皇子側にいた。持統天皇の即位式では大盾をたてた。
子 広嗣(ひろつぐ)【?−740】
橘諸兄政権の時、藤原氏の勢力を盛り返そうと急進的に行動した。玄昉と吉備真備を非難して挙兵したが、捕らえられて斬殺された。
子 良継→藤原良継の系図
妻 高橋阿袮娘(高橋笠の娘)
子 清成・孫 種継→藤原清成・種継の系図
孫 安継→藤原安継の系図
妻 小治田牛養の娘
子 田麿(たまろ)【722−783】
右大臣。藤原広嗣の乱に連座した際は隠岐に流された。召還後は、蜷淵山で仏道修行に励んだ。
妻 久米若売(わかめ)【?−780】
夫との死別後、石上乙麿との恋愛事件で下総に流された。
子 百川・孫 緒嗣→藤原百川・緒嗣の系図
妻 佐伯家主娘(佐伯徳麿の娘)
子 蔵下麿→藤原蔵下麿の系図
孫 縄主→藤原縄主・貞本の系図
孫 網主→藤原網主の系図
孫 綱継→藤原綱継・吉野の系図
子 綱手→藤原綱手の系図
子 帰子
異母兄・蔵下麿との間に縄継を儲けたとも。
子の夫 藤原巨勢麿→藤原巨勢麿の系図
孫 弓主→藤原弓主・今河の系図
子の夫 藤原魚名→藤原魚名の系図
孫 鷹取・鷲取→藤原鷲取・鷹取の系図
孫 末茂→藤原末茂の系図
藤原良継の系図
藤原良継(よしつぐ)/宿奈麿(すくなまろ)【716−777】
内大臣。藤原広嗣の乱に連座して伊豆に流され、藤原仲麿政権に反旗を翻そうとして姓や位を奪われた。その後、藤原仲麿の乱で功を挙げ、光仁天皇の擁立にも尽力した。
妻 阿倍古美奈(こみな)【?−784】
妻の父 阿倍粳虫(ぬかむし)
子 乙牟漏→桓武天皇の系図
孫 平城天皇→平城天皇の系図
孫 嵯峨天皇→嵯峨天皇の系図
妻 石川郎女(いらつめ)
夫に離別された悲しみを詠んだ歌が『万葉集』に収められる。
子 諸姉→藤原百川・緒嗣の系図
子の夫 藤原鷲取→藤原鷲取・鷹取の系図
孫 藤嗣→藤原藤嗣の系図
子の夫 藤原家依→藤原家依の系図
子の夫 藤原永手→藤原永手の系図
藤原清成・種継の系図
藤原清成(きよなり)
父は藤原良継(→藤原良継の系図)とも。
妻 秦朝元の娘
妻の父 秦朝元(ちょうげん)
医家。他に、藤原綱手(→藤原綱手の系図)の妻になった娘がいる。
妻 藤原継縄の娘
妻の父 藤原継縄→藤原豊成・継縄の系図
子 安継→藤原安継の系図
子 正子→桓武天皇の系図
種継(たねつぐ)【737−785】
中納言。桓武天皇の信任が厚く、造長岡京使として長岡京遷都を主導した。その長岡京で賊に射殺された。
妻 山口中宗の娘
子 山人・孫 菅雄→藤原山人~佐世・藤生・世嗣の系図
妻 粟田道麿の娘
妻の父 粟田道麿(みちまろ)【?−765】
参議。和気王と謀反を企てたとして、飛騨員外介に遷された。
子 仲成(なかなり)【764−810】
参議。薬子の変の首謀者として射殺された。
妻 雁高佐美麿の娘
子 縵麿(かずらまろ)【768−821】
酒色を好む一方、愚鈍で文書も作れなかったという。
子 藤生・世嗣→藤原山人~佐世・藤生・世嗣の系図
子 薬子→藤原縄主・貞本の系図
子 東子→桓武天皇の系図
藤原安継の系図
藤原安継
父は藤原種継(→藤原清成・種継の系図)とも。
祖父 宇合→藤原宇合の系図
父 清成→藤原清成・種継の系図
子 時継/時雄
賀備能
子 利邦/利国
父は藤原安継とも。
子の夫 藤原元方→藤原元方の系図
忠紀
父は藤原利邦とも。
有家
父は藤原文正とも。
行輔/行資
藤原山人~佐世・藤生・世嗣の系図
藤原山人
祖父 清成・父 種継→藤原清成・種継の系図
妻 菅野真道の娘
妻の父 菅野真道(まみち)【741-814】
参議。『続日本紀』の撰修に携わった。藤原緒嗣とは徳政論争を行った。
子の妻の父 藤原助継→藤原助継の系図
曾孫の夫 元良親王→陽成天皇の系図
菅雄(すがお)
仁明天皇・文徳天皇の崩御の際には、固関使を務めた。
佐世(すけよ)【?−897】
父は藤原有世とも。藤原基経の侍読を務め、阿衡事件ではその語義を問題にした。
妻 藤原忠岳の娘
子 文貞→藤原文貞の系図
妻 住蔭の娘
子 文材/文村
父は藤原斯生(→藤原文貞の系図)とも。
妻 菅原道真の娘
妻の父 菅原道真→菅原古人~道真の系図
子 文行
父は藤原斯生(→藤原文貞の系図)とも。
曾孫 高近/高延
孫 最貞/家貞
藤原藤生
子 元利麿(げんりまろ・もりまろ)
新羅国王と謀反を計画しているとして捕らえられた。
藤生孫 有行
有行の妻の父 源認→源生・澄・勤・勝・啓の系図
藤原世嗣
孫 釈之(よしゆき)
藤原文貞の系図
藤原文貞【866-927】
祖父 菅雄・父 佐世→藤原山人~佐世・藤生・世嗣の系図
妻 藤原道明の娘
妻の父 藤原道明→藤原高仁~道明の系図
子 尹生〔養父:藤原道明(→藤原高仁~道明の系図)〕
曾孫 斯忠
父は藤原信忠とも。
斯忠孫 経生
父は藤原義忠とも。
経生の子の夫 源雅実→源雅実・雅定の系図
斯忠孫 清宗
父は藤原義忠とも。
曾孫 清宗
父は藤原経生とも。
曾孫 全覚/金覚
孫 文行
父は藤原佐世(→藤原山人~佐世・藤生・世嗣の系図)とも。
孫 信忠
父は藤原孝忠とも。
子 後生【909-970】
孫 弘道【954-1008】〔養子:藤原仲保〕
曾孫 仲保/保仲/仲宗〔養父:藤原弘道〕
藤原綱手の系図
藤原綱手(つなて)/縄手【?−740】
藤原広嗣の乱に加わるも、大野東人の軍に鎮圧され、殺された。
妻 秦朝元の娘
妻の父 秦朝元→藤原清成・種継の系図
孫 真野麿/貞野麿
綱手孫 雅量/雅重
綱手孫 潔雄(きよお)
藤原百川・緒嗣の系図
藤原百川(ももかわ)/雄田麿【732−779】
参議。称徳天皇崩御後、光仁天皇の擁立に尽力した。皇太子・他戸親王を廃し、山部親王(桓武天皇)の立太子にも功があった。
妻 伊勢大津(おおつ)の娘
妻 藤原諸姉(もろあね・もろね)【?−786】
妻の父 藤原良継→藤原良継の系図
子 旅子→桓武天皇の系図
孫 淳和天皇→淳和天皇の系図
子 継業
従三位。
子 帯子→平城天皇の系図
藤原緒嗣(おつぐ)【774−843】
左大臣。桓武天皇に鍾愛された。菅野真道との徳政論争で征夷と造都の停止を主張した。『新撰姓氏録』や『日本後紀』の編纂にも携わった。
妻 蔵垣人山の娘
子 春津→藤原春津の系図
子の夫 藤原常嗣→藤原常嗣・常永・氏宗の系図
藤原春津の系図
藤原春津(はるつ)【808−859】
物欲がなく、馬を愛したという。『尊卑分脈』では参議になったという説を付記している。
祖父 百川・父 緒嗣→藤原百川・緒嗣の系図
子 枝良(えだよし)【845-917】
参議。
孫 忠文(ただふみ)【873-947】
参議。藤原純友の乱を鎮圧した。宇治に所領を有していたため、宇治民部卿と称された。恩賞に反対した藤原実頼を恨み、その子女を祟ったとされる。
曾孫 滋望
滋望の子の夫 紀貫之(つらゆき)【?-945】
『古今和歌集』の撰進にあたり、その仮名序を著した。また、仮名日記である『土佐日記』を書いた。
曾孫の夫 源由道→人康親王・本康親王・源光の系図
曾孫の夫 源香泉→是貞親王・源旧鑑・是恒・貞恒・是茂・香泉・友貞の系図
忠文孫 相親
父は藤原忠文・藤原忠舒とも。
子の夫 藤原文弘→藤原常嗣・常永・氏宗の系図
藤原蔵下麿の系図
藤原蔵下麿(くらじまろ)【734−775】
参議。藤原仲麿の乱で戦功を挙げた。
妻 粟田馬養(うまかい)の娘
子 縄主・孫 貞本→藤原縄主・貞本の系図
妻 乙訓女王(掃部王(かにもり)の娘)
子 綱継・孫 吉野→藤原綱継・吉野の系図
子 浄本
従三位。
子 網主→藤原網主の系図
子 清綱/清縄
孫 定挙/定岑
孫 清澄/清隆
子の夫 藤原真友→藤原是公の系図
藤原網主の系図
藤原網主/綱主
孫 氏江
曾孫の夫 藤原菅根・藤原当幹→藤原良尚・菅根の系図
曾孫の夫 藤原経邦→藤原経邦の系図
氏江の孫 興方→藤原興方~師長の系図
曾孫 世常(つきとき)
曾孫 厚載/厚戴
父は藤原吉緒とも。
曾孫 遠視/遠見
藤原綱継・吉野の系図
藤原綱継(つなつぐ)/縄継【763−847】
参議。
子 承吉
父は藤原吉永とも。
藤原吉野(よしの)【786−846】
中納言。淳和天皇の側近として活躍した。承和の変に連座した。
子 近峯
子の妻の父 藤原真夏→藤原真夏の系図
子 近主→藤原近主~仲実の系図
孫 最実(いとみ)
孫の夫 清和天皇→清和天皇の系図
藤原近主~仲実の系図
藤原近主〔養子:藤原高堪〕
祖父 綱継・父 吉野→藤原綱継・吉野の系図
後世(つきよ)/俊世
高堪/高綱〔養父:藤原近主〕
為文【?-1001】
義忠(よしただ・のりただ)【?-1041】
侍読を務めたほか、和歌にも優れた。吉野川で水死した。
妻 平惟仲の娘
妻の父 平惟仲→平時望・真材の系図
子 義職/義連
実父は源仲舒(→源時方~仲棟の系図)・藤原仲実とも。
孫 俊経・範覚
父は源仲経(→源時方~仲棟の系図)とも。
曾孫 邦忠→藤原邦忠の系図
子 公義(とものり)【?-1054】
孫 忠季
父は藤原義忠とも。
公義孫 光忠
父は藤原義康とも。
子の夫 源頼清→源頼清の系図
能成
妻 源則成の娘
妻の父 源則成→盛明親王~源道成の系図
仲実(なかざね)【1057-1118】
歌学者。『綺語抄』『古今和歌集目録』などを著した。
妻 源基清の娘
子 邦忠→藤原邦忠の系図
子の夫 藤原宗保→藤原家保の系図
藤原邦忠の系図
藤原邦忠
父は藤原基綱(→藤原近主~仲実の系図)とも。
祖父 能成・父 仲実→藤原近主~仲実の系図
妻 平時範の娘
妻の父 平時範→平行義の系図
孫 範保
孫の妻 橘正遠の娘
曾孫 重保
曾孫の妻 大江維光の娘
曾孫の妻の父 大江維光→大江匡房~維光の系図
重保孫 重清〔養父:大江広元(→大江広元の系図)〕
父は藤原重輔(→藤原家輔の系図)とも。
重康孫 重氏
父は藤原重清、藤原重保とも。
重康孫 重輔
父は藤原仲能(→藤原仲能の系図)とも。
重康孫 春清/清春
孫の妻 藤原憲方の娘
孫の妻の父 藤原憲方→藤原憲方の系図
曾孫 範雅/範宗
孫 仲職〔養父:平範家(→平実親・範家の系図)〕
曾孫 邦良
実は藤原顕盛(→藤原親通の系図)の子。
仲職孫 邦俊〔養父:藤原基定〕→藤原資憲~快成の系図
養父は藤原顕盛(→藤原親通の系図)とも。
藤原縄主・貞本の系図
藤原縄主(ただぬし)【760−817】
中納言。
妻 藤原薬子(くすこ)【?−810】
平城天皇の尚侍。天皇の譲位後、嵯峨天皇側と争って敗れ、自殺した。
妻の父 藤原種継→藤原清成・種継の系図
父は藤原清成(→藤原清成・種継の系図)とも。
藤原貞本
母は橘太麿の娘とも。
子 正峯→藤原正峯~敦信の系図
正世孫 興範(おきのり)【844−917】〔養子:藤原正倫(→藤原正峯~敦信の系図)〕
参議。『延喜格』の編集に参加した。
妻 藤原有恒の娘
妻の父 藤原有恒→藤原雄友・弟河の系図
正世孫 真房
子の夫 藤原朝鑑→藤原興世の系図
正世孫 公葛
子 仲文
父は藤原興範とも。
子の夫 藤原師輔→藤原師輔の系図
孫 遠度→藤原遠量・忠君・遠度・遠基の系図
正世孫 時成
子の夫 藤原定任→藤原定任の系図
藤原正峯~敦信の系図
藤原正峯
祖父 縄主・父 貞本→藤原縄主・貞本の系図
藤原正倫〔養父:藤原興範(→藤原縄主・貞本の系図)〕
子の夫 藤原安親→藤原安親の系図
孫 兼清→藤原守仁・兼清の系図
子の夫 藤原佐衡→藤原連茂~頼任の系図
藤原合茂/令茂
妻 源等の娘
妻の父 源等→源信・弘の系図
藤原敦信(あつのぶ)
漢詩人。官途は不遇であった。
妻 良峯英材の娘
子 明衡→藤原明衡の系図
孫 敦基→藤原敦基の系図
孫 敦光→藤原敦光の系図
子の夫 藤原公業→藤原公業の系図
藤原明衡の系図
藤原明衡(あきひら)【989-1066】〔養子:藤原宗基(→藤原方正・方隆の系図)〕
漢詩人。『本朝文粋』『明衡往来』『新猿楽記』などを著した。
祖父 合茂・父 敦信→藤原正峯~敦信の系図
妻 平実重の娘
子 敦基→藤原敦基の系図
孫 令明→藤原令明の系図
子 敦光→藤原敦光の系図
孫 有光→藤原有光の系図
孫 長光→藤原長光の系図
孫 成光→藤原成光の系図
子 明業
実は菅原明任(→菅原古人~道真の系図)の子。
孫 慶明
父は藤原周衡とも。
曾孫 慶明
父は藤原明業とも。
子 明暹(めいせん)【1059-1123】
興福寺の僧で、笛の名手。
藤原敦基の系図
藤原敦基(あつもと)【1046-1106】〔養子:藤原敦光(→藤原敦光の系図)〕
漢詩人。藤原師通の家司も務めたが官途には恵まれなかった。
祖父 敦信→藤原正峯~敦信の系図
父 明衡→藤原明衡の系図
妻 中原季成の娘
子 令明→藤原令明の系図
子 茂明(もちあきら)【1093頃-?】
子の妻 中原広俊の娘
孫 敦周【1119-1183】
曾孫 明宗/朝宗
孫 敦経〔養子:藤原正光(→藤原成光の系図)〕
曾孫 敦倫→藤原有光の系図
実は藤原有季の子。
敦経孫 経業
父は藤原敦経とも。
孫の夫 藤原成光→藤原成光の系図
子 周光→藤原公輔の系図
父は藤原頼長とも。
子の夫 藤原公章→藤原公章の系図
子の夫 源季昌→源季昌の系図
子の夫 源義国→源義国・義忠の系図
孫 新田義重→新田義重~義房の系図
藤原令明の系図
藤原令明【1074-1143】
妻 伴広貞の娘
子 範明/遠明【1095-1169】
子 敦任【1110-?】
父は藤原範明とも。
子の妻 義貞の娘
孫 敦通/範重【?-1193】
孫 敦季【?-1207】
父は藤原成光(→藤原成光の系図)とも。
敦任孫 信倫
父は藤原忠倫とも。
子 敦綱/遠景
子の妻 春覚の娘
孫 保綱/敦尚
曾孫 基長【?-1290】〔養父:藤原長倫(→藤原長光の系図)〕
正三位。
孫 朝時〔養父:藤原朝方(→藤原朝方の系図)〕
子の夫 源師頼→源師頼の系図
藤原敦光の系図
藤原敦光(あつみつ)【1063-1144】〔養父:藤原敦基(→藤原敦基の系図)〕
漢詩人。官途には恵まれなかった。
祖父 敦信→藤原正峯~敦信の系図
父 明衡→藤原明衡の系図
妻 源親長の娘
妻の父 源親長→源常・明の系図
子 有光→藤原有光の系図
妻 大中臣輔清の娘
妻の父 大中臣輔清→大中臣輔清の系図
子 長光→藤原長光の系図
子 成光→藤原成光の系図
子 姫子
往生人とされる。
子の夫 藤原知通→藤原尹通の系図
藤原有光の系図
藤原有光【1099ー1177】
祖父 明衡→藤原明衡の系図
父 敦光→藤原敦光の系図
祖父 源親長→源常・明の系図
妻 大中臣清親の娘
妻の父 大中臣清親→大中臣清親の系図
妻 三善為倫の娘
子 有季/光重
孫 敦倫〔養父:藤原敦経(→藤原敦基の系図)〕
曾孫 有倫
父は藤原有俊とも。
敦倫孫 敦雄【?-1322】
敦倫孫 敦藤/敦頼
孫 有俊/有重
曾孫 忠光/有守
子の夫 藤原信成→藤原朝憲の系図
藤原長光の系図
藤原長光【1103-?】
祖父 明衡→藤原明衡の系図
父 敦光→藤原敦光の系図
祖父 大中臣輔清→大中臣輔清の系図
妻 賢円の娘
子 光経【1128-1179】
孫 長宗
父は藤原長光とも。
子 光輔/光能
孫 長倫【1173-?】〔養子:藤原基長(→藤原令明の系図)〕
正三位。
曾孫 光兼→藤原成光の系図
実は藤原安成の子。
曾孫 宗衡/実衡
孫 光清
父は藤原長清とも。
孫 長清
父は藤原孝綱(→藤原永雅・範綱の系図)とも。
曾孫 為清/為輔
父は藤原長季、藤原長清とも。
光章孫 範長〔養父:藤原安成(→藤原成光の系図)〕
子 長宗
父は藤原光経とも。
子 光茂/光成
藤原成光の系図
藤原成光【1111-1180】
祖父 明衡→藤原明衡の系図
父 敦光→藤原敦光の系図
祖父 大中臣輔清→大中臣輔清の系図
妻 藤原茂明の娘
妻の父 藤原茂明→藤原敦基の系図
孫 正光〔養父:藤原敦経(→藤原敦基の系図)〕
曾孫 光隆/光信
孫 経衡/正光/成行
妻 藤原能兼の娘
妻の父 藤原能兼→藤原友実・能兼の系図
子 安成/成信
母は藤原茂明の娘とも。
孫 成倫/成俊
父は藤原有季(→藤原有光の系図)とも。
孫 光兼【1194-1266】〔養父:藤原長倫(→藤原長光の系図)〕
従二位。
曾孫 兼倫【1227-1299】
正二位。
曾孫 成倫
実は因幡国上宮神主の子。
兼倫孫 家倫【1293-1359】
従二位。
兼倫孫 兼尚/兼俊
兼倫孫 敦継【?-1312】
従三位。実は藤原則俊(→藤原定任の系図)の子。
孫 範長
実は藤原為清(→藤原長光の系図)の子。
子 能成
子の妻 藤原永清の娘
子の妻の父 藤原永清→藤原永清の系図
子の妻の夫 円経→藤原為業の系図
孫 光嗣〔養父:藤原能光〕
孫の夫 藤原国宗→藤原尹甫・尹忠・尹風の系図
妻 安倍広賢の娘
妻の父 安倍広賢→安倍広賢の系図
子 敦季→藤原令明の系図
父は藤原敦任とも。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。