このページでは、渋川氏(清和源氏・義国流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
渋川義顕~義尭の系図
渋川義顕(よしあきら)/兼氏
渋川氏の祖。上野国群馬郡渋川荘に土着した。
祖父 義氏→足利義氏の系図
父 泰氏→足利泰氏の系図
祖父 北条時氏→北条泰時~時頼の系図
妻 北条時定の娘
妻の父 北条時定→北条泰時~時頼の系図
渋川義春(よしはる)
渋川貞頼(さだより)
子 頼子→足利頼氏~尊氏の系図
渋川義季(よしすえ)【1314-1335】
足利尊氏に従い、六波羅探題を攻撃した。中先代の乱では鎮圧に向かったが、女影原で敗れて自害した。
子 幸子→足利義詮・義満の系図
子の夫 吉良満貞→吉良満義~持広の系図
渋川直頼(なおより)【1340-1362】
妻 高師直の娘
妻の父 高師直→高師直の系図
子 尊頼(たかより)/義宗(よしむね)
実は吉見義世(→吉見義世の系図)の子。
渋川義行(よしゆき)【1348-1375】
鎮西管領となったが、南朝方の強い九州に入れなかった。
渋川満頼(みつより)【1372-1446】
九州探題。
子 俊詮(以下、『系図纂要』による。)
渋川義俊(よしとし)【1400-1434】
九州探題。少弐満貞に敗れて影響力を落とした。
渋川義鏡(よしかね)(以下、『系図纂要』による。)
古河公方の足利成氏に対抗するため、関東探題として蕨城に下向した。
渋川義尭(よしたか)【?-1526】
上杉朝興に攻められて討ち死にした。
子 板倉頼重・孫 好重・忠政→板倉頼重・好重・忠政~勝尹の系図
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。