このページでは、桓武平氏・高望流の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
高見王・平高望の系図
高見王(たかみ)
無位無官のまま亡くなったとされる。
祖父 桓武天皇→桓武天皇の系図
父 葛原親王→葛原親王・万多親王・仲野親王の系図
妻 仲野親王の娘
妻の父 仲野親王→葛原親王・万多親王・仲野親王の系図
平高望(たかもち)
母は『系図纂要』による。上総介として赴任し、そのまま関東地方に土着したとされる。
妻 平茂世の娘
妻の父 平茂世→葛原親王・万多親王・仲野親王の系図
子 国香・孫 貞盛→平国香~正衡の系図
子 良兼→平良兼の系図
子 良将→平良将の系図
子 良文→平良文の系図
子 良孫/良繇
孫 忠光→平良文の系図
父は平良文とも。
子 良茂
『系図纂要』では名は良広とも。
孫 良正
父は平高望とも。
曾孫 公雅→平良兼の系図
父は平良兼、平良定とも。
曾孫 致成→平良兼の系図
父は平公雅とも。
曾孫 長田致頼→長田致頼~重広の系図
父は平公雅とも。
良茂孫 三浦為継→三浦為通~義継の系図
父は三浦為通、平孝輔とも。
子 良房・良生・良詮(『系図纂要』による。)
子の夫 藤原維幾→藤原高扶~維幾の系図
孫 工藤為憲→工藤為憲・時理の系図
孫 経邦
父は平良広、平良孫とも。
平良兼の系図
平良兼(よしかね)【?-939】
兄国香が殺された後、平将門と戦った。
祖父 高見王・父 高望→高見王・平高望の系図
子 公雅(きみまさ)/公致
父は平良正(→高見王・平高望の系図)、平良定(『系図纂要』)とも。平将門の追討に加わった。興世王を討ち、武蔵守になった。
孫 致成
父は平良正(→高見王・平高望の系図)とも。
曾孫 景成→平景村・景成の系図
父は平忠通(『系図纂要』)とも。
孫 長田致頼・曾孫 致経→長田致頼~重広の系図
孫 致光
父は長田致頼(→長田致頼~重広の系図)とも。
子 公連・公元
父は平良定(『系図纂要』)とも。
子 良定(以下、『系図纂要』による。)
子の夫 平将門→平将門の系図
平良文の系図
平良文(よしぶみ)
源宛と一騎打ちを行ったとされる。坂東八平氏の祖とされる。
祖父 高見王・父 高望→高見王・平高望の系図
子 忠頼(ただより)/経明
平繁盛と対立した。
孫 将常→平将常の系図
孫 千葉忠常→千葉忠常の系図
孫 頼尊(『系図纂要』による。)→頼尊の系図
子 忠光
父は平良孫(→高見王・平高望の系図)とも。
子 頼尊(『寛政重修諸家譜』による。)→頼尊の系図
父は平忠頼とも。
孫 三浦為通・曾孫 為継→三浦為通~義継の系図
孫 章名(『系図纂要』による。)
孫 景通(『系図纂要』による。)→平景通の系図
孫 景村・景成(『系図纂要』による。)→平景村・景成の系図
曾孫 三浦為継→三浦為通~義継の系図
父は三浦為通とも。
平景通の系図
平景通【?-1070】(以下、『系図纂要』による。)
祖父 良文・父 忠通→平良文の系図
子 梶原景久
相模国鎌倉郡梶原村に住んだ。
孫 景長
父は平景経(→平景村・景成の系図)とも。
曾孫 景時(かげとき)【?-1200】
大庭景親に属していたが、石橋山で源頼朝を救い、以降頼朝に重用された。結城朝光を讒言したことで鎌倉を追放され、謀反を企てて上洛する途中で討たれた。
景時孫 景季(かげすえ)【1162-1200】
源頼朝に仕え、源平合戦で活躍した。梶原景時の乱では、上洛を目指す途中で討たれた。
景時孫 景望
梶原景茂と同一人物とも。
景時孫 景高(かげたか)【1165-1200】
梶原景時の乱では、兄とともに上洛を目指す途中で討たれた。
景時孫 景重【1463-1515】
景時孫 泰舜
実は京極高清(→京極高清の系図)の子。
景時孫 泰信
実は土岐氏の子。
景時孫 景茂(かげもち)【1167-1200】
父や兄らとともに、梶原景時の乱で討ち死にした。
曾孫 朝景(ともかげ)【?-1213】
梶原景時の乱では北条氏に降伏し、和田氏の乱に加わり敗死した。
平景村・景成の系図
平景村(以下、『系図纂要』による。)
祖父 良文・父 忠通→平良文の系図
子 景経/景忠/景明
父は平景政(景正)(『尊卑分脈』)とも。
孫 大庭景忠(かげただ)/景宗
曾孫 景義(かげよし)/景能【?-1210】
保元の乱では源義朝に従った。源頼朝の挙兵にも味方し、有力な御家人となった。
曾孫の子の夫 波多野義通→波多野義通の系図
景忠孫 景廉
和田氏の乱で和田氏側に付いた。
曾孫 景親(かげちか)【?-1180】
保元の乱では源義朝に従ったが、平治の乱後に平家に助けられて被官となった。石橋山の戦いで源頼朝軍を破ったが頼朝を取り逃した。富士川の戦いの後、頼朝に降伏して殺された。
曾孫 俣野景久(かげひさ)【?-1183】
石橋山の戦いで源頼朝を破ったが、甲斐国で安田義定らに敗れた。その後、平維盛に従って木曽義仲の軍と戦ったが、敗れて自害した。
孫 梶原景長→平景通の系図
父は梶原景久とも。
孫 長尾景弘→長尾景弘の系図
平景成
父は平致成(『尊卑分脈』)(→平良兼の系図)とも。
子 景政(かげまさ)/景正
源義家に従った後三年の役では、鳥海弥三郎に右眼を射られたが、直ちに弥三郎を殺したという。
孫 景経
父は平景村(『系図纂要』)とも。
孫 景継(以下、『系図纂要』による。)
曾孫 長江義景(よしかげ)
衣笠の戦いで三浦義明らと籠城して平家軍と戦った。
孫 景秀(以下、『系図纂要』による。)
景秀孫 香川経高/景高
景秀孫 経景
承久の乱での戦功により、安芸国佐東郡八木邑の地頭職を得た。
平国香~正衡の系図
平国香(くにか)/良望【?-935】
父高望とともに関東に土着したとされる。源護と平真樹の争いに巻き込まれ、平将門に攻められたとされる。
祖父 高見王・父 高望→高見王・平高望の系図
妻 藤原村雄の娘
妻の父 藤原村雄→藤原藤成〜村雄の系図
子 繁盛→平繁盛の系図
平貞盛(さだもり)〔養子:平維茂(→平維茂の系図)、平維時(→平維将~時直の系図)〕
藤原秀郷・工藤為憲らとともに平将門を討伐した。
子 維叙〔養父:平繁盛(→平繁盛の系図)〕
実は藤原済時(→藤原済時の系図)の子。
孫の夫 善積忠隆→善積忠隆・斉頼の系図
曾孫の夫 藤原師基→藤原師基の系図
子 維将・孫 維時→平維将~時直の系図
平維衡(これひら)
実は平貞盛の孫とも。伊勢に拠点を置き、平致頼と争った。85歳で亡くなった。
平正度〔養子:平季継(→平季継の系図)〕
子 維盛→平維盛の系図
子 貞季→平貞季の系図
子 季衡→平季衡の系図
子 貞衡→平貞衡の系図
子の夫 藤原永親→藤原行成の系図
子の夫 工藤維景→工藤維景~家次の系図
平正衡
子 正盛・孫 忠盛→平正盛・忠盛の系図
平維将~時直の系図
平維将(これまさ)
実は平繁盛(→平繁盛の系図)の子。
祖父 国香・父 貞盛→平国香~正衡の系図
妻 藤原雅正の娘
妻の父 藤原雅正→藤原雅正の系図
平維時〔養父:平貞盛(→平国香~正衡の系図)〕
子の夫 高階成順→高階峯緒~良臣の系図
子の夫 源成方→源重信の系図
平直方(なおかた)
平忠常の乱の追討使となったが、忠常側の激しい抵抗に遭い、鎮圧できなかった。直方から北条時政に至るまでの系図は、『尊卑分脈』と『系図纂要』で相違がある。
子の夫 源頼義→源頼義の系図
孫 義家→源義家の系図
孫 石橋義綱→石橋義綱の系図
孫 義光→源義光の系図
子の夫 藤原惟経→藤原惟経~知信の系図
子の夫 藤原俊経→藤原永保の系図
曾孫 直光(『系図纂要』による。)
曾孫 熊谷直貞(『系図纂要』による。)→熊谷直貞の系図
曾孫 俊則(以下、『系図纂要』による。)
曾孫 盛方の娘(『系図纂要』による。)
平時直
子 北条時家・孫 時方→北条時家~時政の系図
平維盛の系図
平維盛
祖父 維衡・父 正度→平国香~正衡の系図
孫 盛時【?-1151】
盛基孫 基時【?-1184】
実は大中臣永親の子。
孫の夫 藤原為真→藤原永実・為真の系図
孫の夫 藤原仲光→藤原仲実の系図
曾孫 業房(なりふさ)【?-1179】
曾孫の妻 高階栄子→後白河天皇~六条天皇の系図
曾孫の子の夫 藤原兼光→藤原兼光の系図
曾孫の子の夫 藤原宗隆→藤原宗隆の系図
曾孫の子の夫 藤原範能→藤原脩範の系図
貞度孫 業兼(なりかね)
従三位。
貞度孫 山科教成〔養父:山科実教〕→山科教成~資行の系図
平貞季の系図
平貞季
祖父 維衡・父 正度→平国香~正衡の系図
子 兼信〔養父:藤原兼仲(→藤原兼房~宗綱の系図)〕
孫 家貞
父は平季房とも。
孫の夫 源雅範→源雅兼の系図
正季孫 季宗
季宗の子の夫 源仲頼→源仲頼の系図
正季孫 宗清
宗清の妻 平維綱の娘
宗清の妻の父 平維綱→平維綱の系図
正季孫 家貞
父は平範季とも。
平正盛・忠盛の系図
平正盛(まさもり)
白河上皇に近づき、勢力を伸ばした。源義親を追討した。
祖父 正度・父 正衡→平国香~正衡の系図
子 貞正(『系図纂要』による。)→平貞正の系図
子 忠正(ただまさ)【?-1156】
保元の乱で崇徳上皇方について敗れ、処刑された。
子 時盛(『系図纂要』による。)
子の夫 藤原清隆→藤原清隆の系図
曾孫 戸沢衡盛(『華族系譜』による。)→戸沢衡盛~光盛の系図
平忠盛(ただもり)【1096-1153】〔養子:藤原惟忠(→藤原能長の系図)、源忠遠(→源忠遠の系図)、源仲実(→源兼宗の系図)〕
白河上皇・鳥羽上皇の近臣として活躍した。海賊を追捕し、日宋貿易にも関与した。
妻 池禅尼(いけのぜんに)
藤原宗兼(→藤原良基の系図)の娘。平治の乱後に捕らえられた源頼朝の助命を乞うた。
子 頼盛→平経盛・教盛・頼盛の系図
妻 源信雅の娘
妻の父 源信雅→源信雅・雅仲の系図
子 経盛→平経盛・教盛・頼盛の系図
妻 藤原家隆の娘
妻の父 藤原家隆→藤原家隆の系図
子 教盛→平経盛・教盛・頼盛の系図
妻 藤原為忠の娘
妻の父 藤原為忠→藤原為忠の系図
子の夫 藤原顕時→藤原長隆・顕時の系図
子 忠度(ただのり)【1144-1184】
歌人として活躍し、都落ちの際には、藤原俊成に詠草一巻を託した。その後、一の谷の戦いで討たれた。
子 忠重
実は藤原隆重(→藤原清綱の系図)の子。
子の夫 藤原隆教→藤原基隆の系図
子の夫 源義忠→源義国・義忠の系図
子の夫 源有賢→源有賢の系図
子の夫 源有房→源師時の系図
子の夫 源雅重→源雅重の系図
平経盛・教盛・頼盛の系図
平経盛(つねもり)【1124-1185】
参議。壇ノ浦の戦いに敗れて入水した。
祖父 正盛・父 忠盛→平正盛・忠盛の系図
祖父 源信雅→源信雅・雅仲の系図
子 経正(つねまさ)【?-1184】
琵琶の名手。一の谷の戦いで戦死した。
孫 生島経菊丸(『系図纂要』による。)→生島経菊丸の系図
子 経俊(つねとし)【?-1184】
一の谷の戦いで戦死した。
子 敦盛(あつもり)【1169-1184】
一の谷の戦いで熊谷直実に討たれた。
子 輝経(てるつね)(『系図纂要』による。)
平教盛(のりもり)【1128-1185】
中納言。門脇中納言と称された。壇ノ浦の戦いに敗れて入水した。
祖父 藤原家隆→藤原家隆の系図
妻 藤原資憲の娘
妻の父 藤原資憲→藤原資憲~快成の系図
子 通盛(みちもり)/公盛【?-1184】
従三位。倶利伽羅峠の戦いに敗れた後、一の谷の戦いで戦死した。
子の妻 小宰相局(こざいしょうのつぼね)【?-1184】
藤原憲方(→藤原憲方の系図)の娘。一の谷の戦いで通盛の後を追って入水した。
孫 通衡/公衡
孫の夫 堀川通具(『系図纂要』による。)→堀川通具~基具の系図
子 教経(のりつね)/国盛(くにもり)【1160-1185】
壇ノ浦の戦いに敗れて自害した。
子 業盛(なりもり)【1168?-1184】
一の谷の戦いで戦死した。
子 忠快(ちゅうかい)【1159-1227】
壇ノ浦の戦いで捕虜となり、後に鎌倉幕府で祈祷僧として活躍した。
子 教子→高倉範季の系図
孫 高倉範茂→高倉範茂の系図
子の夫 源通親→源通親の系図
孫 堀川通具→堀川通具~基具の系図
子の夫 藤原成経→藤原成親の系図
子の夫 平宗盛→平清盛の系図
平頼盛【1132-1186】
権大納言。池大納言と称された。平氏の都落ちに同行するも、途中で引き返した。
祖父 藤原宗兼→藤原良基の系図
妻 寛雅の娘
妻の父 寛雅→源雅俊の系図
子 光盛(みつもり)【1172-1229】
従二位。
孫 長盛(『系図纂要』による。)
孫の夫 久我通忠→久我通忠~通雄の系図
孫の夫 松殿基嗣→松殿隆忠・師家の系図
孫の夫 川原実重→川原実重・近衛実光の系図
妻 俊寛の娘
妻の父 俊寛→源雅俊の系図
子 保盛(やすもり)
正三位。
孫 頼清【?-1266】
従三位。
孫 保教〔養父:持明院保家(→持明院保家の系図)〕
子 静遍(じょうへん)【1166-1224】
子 光成〔養父:藤原重長〕→藤原定長の系図
子の夫 持明院基家→持明院基家の系図
孫 保家→持明院保家の系図
平清盛の系図
平清盛(きよもり)【1118-1181】〔養子:全真(→藤原親隆の系図)、藤原経光(→藤原清通の系図)、源季盛(→源季盛の系図)〕
太政大臣。平治の乱後、平氏政権を樹立した。白河天皇の落胤ともされる。
祖父 正盛・父 忠盛→平正盛・忠盛の系図
妻 高階基章の娘
子 重盛→平重盛の系図
子 基盛(もともり)【1139-1162】
宇治川で水死した。
孫 行盛(ゆきもり)【?-1185】
以仁王が挙兵した際には大将軍として活躍した。最後は壇ノ浦の戦いで敗れて入水した。
孫の夫 藤原季能→藤原顕盛の系図
妻 平時子(ときこ)【1126-1185】
平時信(→平時信の系図)の娘。出家後は二位尼と呼ばれた。平氏の都落ちに従い、安徳天皇を抱いて壇ノ浦に身を投げた。
子 宗盛(むねもり)【1147-1185】
内大臣。兄重盛の没後、家督を相続し、平家一門を指揮した。壇ノ浦の戦いで捕らえられ、後に近江国篠原で斬られた。
子の妻 平時信の娘
子の妻の父 平時信→平時信の系図
孫 清宗(きよむね)【1170-1185】
正三位。父とともに壇ノ浦の戦いで捕らえられ、後に近江国篠原で斬られた。
子の妻 平教盛の娘
子の妻の父 平教盛→平経盛・教盛・頼盛の系図
孫 能宗
自害大夫と号した。
孫 宗親/心戒房(しんかいぼう)
孫 宗盛の息子(2人)(『系図纂要』による。)
子 知盛(とももり)【1152-1185】
権中納言。父清盛の死後は、兄宗盛とともに、平家一門を指揮したが、壇ノ浦の戦いに敗れ入水した。
孫 知章(ともあきら)【1169-1184】
一の谷の戦いから敗走中、父知盛らを守って討ち死にした。
孫 宗知宗・曾孫 重尚→宗知宗~成職の系図
孫の夫 高倉範茂→高倉範茂の系図
曾孫 範継→高倉範継~教遠の系図
子 重衡(しげひら)【1157-1185】
正三位。南都を焼き討ちにした。一の谷の戦いで捕らえられた後、南都に連行されて処刑された。
子の妻 藤原輔子(ほし)
藤原邦綱(→藤原盛国の系図)の娘。安徳天皇の乳母。壇ノ浦の戦いで捕らえられ、余生を建礼門院のもとで送った。
孫の夫 小笠原長経(『系図纂要』による。)→小笠原長経の系図
曾孫 赤沢清経→赤沢清経~小笠原経治の系図
子 徳子→高倉天皇・安徳天皇の系図
妻 厳島内侍(いつくしまのないし)
厳島神社の巫女。
夫 土肥実平→土肥実平の系図
妻 常盤御前
夫 藤原長成→藤原忠能の系図
夫 源義朝→源義朝の系図
子 知度(とものり)【?-1183】
富士川の戦いで敗走し、倶利伽羅峠の戦いで討たれた。『系図纂要』では猶子とする。
孫 重義(『系図纂要』による。)
子 清房(きよふさ)【?-1184】
一の谷の戦いで戦死した。『系図纂要』では猶子とする。
子 清貞
実は中原師元(→中原師元の系図)の子。
子 清邦→藤原盛国の系図
実は藤原邦綱の子。
子 盛子→近衛基実の系図
子 寛子→近衛基通の系図
子の夫 花山院兼雅→花山院忠雅・兼雅の系図
孫 忠経→花山院忠経・定雅の系図
孫 五辻家経→五辻家経の系図
子の夫 藤原信隆→藤原信隆の系図
孫 坊門隆清→坊門隆清の系図
平重盛の系図
平重盛(しげもり)【1138-1179】
内大臣。父清盛に先立って亡くなった。小松内大臣と号した。
妻 藤原親方の娘
妻の父 藤原親方→藤原親通の系図
子 資盛(すけもり)【?-1185】
従三位。以仁王らの挙兵以降、各地で源氏と戦い、壇ノ浦の戦いで亡くなった。
子の妻 持明院基家の娘
子の妻の父 持明院基家→持明院基家の系図
孫 長崎盛綱→長崎盛綱の系図
父は平国房とも。
孫 盛国(『系図纂要』による。)→平盛国の系図
孫 織田親真(『系図纂要』による。)→織田親真の系図
妻 藤原家成の娘
妻の父 藤原家成→藤原家成の系図
子 清経(きよつね)【?-1183】
平家の都落ちに従い、豊前国柳浦で入水した。
子 有盛(ありもり)【?-1185】
壇ノ浦の戦いで亡くなった。
子 師盛(もろもり)【1171-1184】
一の谷の戦いから敗走する途中に討たれた。
孫 勢観/源智(げんち)【1183-1238】
長く法然に仕えた。
子 忠房(ただふさ)【?-1185】
屋島の戦いの後に自首し、後に処刑された。
子の妻 藤原脩範の娘
子の妻の父 藤原脩範→藤原脩範の系図
妻 平時信の娘
妻の父 平時信→平時信の系図
子 維盛(これもり)【1158-1184】
従三位。総大将として臨んだ富士川の戦いでは、戦わずして敗走した。後に出家し、那智で入水したとされる。
子の妻 藤原成親の娘
子の妻の父 藤原成親→藤原成親の系図
孫 妙覚/六代丸/高清
都落ちに同行せず京都に潜伏したがやがて捕らえられた。文覚のもとで出家したが、再び捕らえられて斬られたという。
子の妻 藤原光忠の娘
子の妻の父 藤原光忠→大炊御門経実の系図
子の妻 平親宗の娘
子の妻の父 平親宗→平親宗・範国の系図
孫 清重(『系図纂要』による。)
子 宗実(むねざね)〔養父:大炊御門経宗(→大炊御門経宗の系図)〕
平氏の残党として捕らえられたが、許された後出家したという。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。