このページでは、黒田氏(宇多源氏・扶義流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
黒田氏(筑前国福岡藩主)の略系図

1 宗満→黒田宗満~孝高の系図
9 長政→黒田長政~光之・高政~長寛の系図
12 綱政→黒田綱政~継高の系図
15 治之→黒田治之~長知の系図
黒田宗満~孝高の系図
黒田宗満(むねみつ)【1279-1357】
黒田氏の祖。近江国伊香郡黒田邑に住んだ。
祖父 氏信・父 満信→京極氏信・満信の系図
子 高満〔養子:黒田宗信〕
子 定宗・宗久(『系図纂要』による。)
黒田宗信(むねのぶ)〔養父:黒田高満〕
孫 高久(『系図纂要』による。)
孫 高長(以下、『系図纂要』による。)
黒田高教(たかのり)
子 宗高(『系図纂要』による。)
子 三郎(『華族系譜』による。)
子 高信(以下、『系図纂要』による。)
曾孫 政光〔養父:京極勝秀〕→京極高光~高吉の系図
実は京極持清の子。
黒田高宗(たかむね)
『系図纂要』によれば猶子。高宗から重隆までの間は中絶したともされる。
黒田高政(以下、『系図纂要』による。)
子 佐々木与右衛門(『華族系譜』による。)
黒田重隆(しげたか)【1508-1564】
子 小寺高友【1525-?】
子 友氏【1538-?】〔養父:井手左近将監〕
子 重孝〔養父:松井宗元〕
小寺職隆(もとたか)/識隆(のりたか)/満隆(みつたか)【1524-1585】
妻 小寺政識の娘
実は明石宗和の娘。
子 利高【1554-1596】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 職隆の娘
母は『寛政重修諸家譜』による。三木清閑に嫁いだ。幼年より目が見えなかった。
子 職隆の娘【1556-1618】
母は『寛政重修諸家譜』による。尾上安右衛門に嫁いだ。
妻 神吉氏
子 利則【1561-1612】
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 母里氏
子 直之【1564-1609】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子の夫 一柳直末→一柳直末の系図
黒田孝高(よしたか)/孝隆(よしたか)/政成(まさなり)【1546-1604】
豊臣秀吉に仕え、軍師として活躍した。関ケ原の戦いでは東軍に属した。
子 長政・孫 忠之→黒田長政~光之・高政~長寛の系図
孫 長興→黒田長興~長貞の系図
子 熊【1582-1597】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 松寿
実は一柳直末(→一柳直末の系図)の子。
子 一成
実は加藤又左衛門の子。
黒田長政~光之・高政~長寛の系図
黒田長政(ながまさ)【1568-1623】
筑前国福岡藩主。
祖父 職隆・父 孝高→黒田宗満~孝高の系図
妻 蜂須賀糸
蜂須賀正勝(→蜂須賀正昭~家政の系図)の娘。
子 菊【1597-1670】
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 徳川栄姫(えいひめ)【?-1635】
実は保科正直(→保科国行~正直の系図)の娘。
妻の父 徳川家康→徳川家康の系図
子 長興・孫 長重→黒田長興~長貞の系図
子 徳→榊原忠次の系図
子 亀→池田利隆・恒元~恒行・輝興~清勝の系図
妻 筑紫広門の娘
子 政冬(まさふゆ)【1606-1625】
黒田忠之(ただゆき)/忠長(ただなが)/忠政(ただまさ)【1602-1654】
福岡藩主。
妻 徳川秀忠の娘
実は松平忠良(→松平忠良・康尚の系図)の娘。
妻の父 徳川秀忠→徳川秀忠の系図
妻 坪坂十右衛門の娘
子 之勝〔養父:黒田高政〕
黒田光之(みつゆき)/長之(ながゆき)【1628-1707】
福岡藩主。貝原益軒を登用し、学問の振興に努めた。
妻 小笠原市
小笠原忠真(→小笠原忠真の系図)の娘。
子 綱之(つなゆき)/長良(ながよし)【1655-1708】
子 市之助/一之助【1657-1658】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 綱政・孫 宣政→黒田綱政~継高の系図
子 長清(ながきよ)【1667-1720】
筑前国直方藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。
子の妻 小笠原賀留
小笠原長勝(→小笠原長勝~長逵の系図)の娘。
子の妻 小笠原伊予
小笠原長勝(→小笠原長勝~長逵の系図)の娘。
孫 長清の息子【1701】
孫 継高〔養父:黒田宣政〕→黒田綱政~継高の系図
子の妻 宮井氏
孫 利→佐竹義峯の系図
子 筑→酒井忠挙~親本の系図
妻 村上氏
子 与→黒田長興~長貞の系図
子 左兵衛【1658-1663】(『華族系譜』による。)
子 百助【1677-1678】(『華族系譜』による。)
子 正太郎【1685】(『華族系譜』による。)
黒田高政(たかまさ)【1612-1639】
筑前国東蓮寺藩主。
妻 本多吉子
実は有馬直純(→有馬直純の系図)の娘。
妻の父 本多忠朝→本多忠勝・忠朝~勝行の系図
黒田之勝(ゆきかつ)/政之(まさゆき)【1634-1663】
東蓮寺藩主。実は黒田忠之の子。
妻 黒田通【1639-1659】
実は池田輝興(→池田利隆・恒元~恒行・輝興~清勝の系図)の娘。
黒田長寛/綱政→黒田綱政~継高の系図
実は黒田光之の子。後に宗家を継いだ。
黒田綱政~継高の系図
黒田綱政(つなまさ)/長寛(ながひろ)【1659-1711】〔養父:黒田之勝(→黒田長政~光之・高政~長寛の系図)〕
東蓮寺藩主・福岡藩主。
祖父 忠之・父 光之→黒田長政~光之・高政~長寛の系図
祖父 小笠原忠真→小笠原忠真の系図
妻 立花鑑虎の娘
実は立花忠茂(→立花忠茂~鑑任の系図)の娘。
妻の父 立花鑑虎→立花忠茂~鑑任の系図
子 吉之(よしゆき)/政之(まさゆき)【1682-1710】
子の妻 本多忠常の娘
実は本多忠利(→本多忠利~忠慎の系図)の娘。
子の妻の父 本多忠常→本多忠平~忠烈の系図
孫 奈安【1706-1709】
母は『寛政重修諸家譜』による。
孫 幸〔養父:黒田宣政〕
子 亀之助【1686-1687】
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 吉田氏
子 万/久【1693-1710】
母は『寛政重修諸家譜』による。上杉吉寅に嫁ぐ予定であった。
子 岩之助【1688-1695】(『華族系譜』による。)
子 竹松【1706-1708】(『華族系譜』による。)
黒田宣政(のぶまさ)/政則(まさのり)【1685-1744】
福岡藩主。
妻 南部艶子
南部行信(→南部行信の系図)の娘。
黒田継高(つぐたか)/長好(ながよし)【1703-1775】
福岡藩主。実は黒田長清(→黒田長政~光之・高政~長寛の系図)の子。農村の復興や財政再建に努めた。
妻 黒田幸【1708-1778】
実は黒田吉之の娘。
子 藤→池田継政~治政の系図
子 為→酒井忠寄・忠温の系図
孫 酒井忠徳→酒井忠徳の系図
子 菊→松平定逵~定邦の系図
妻 田中氏
子 松→黒田長邦~長徳の系図
妻 小寺氏
子 重政(しげまさ)/長賢(ながかた)【1734-1762】
子の妻 島津菊
島津継豊(→島津継豊の系図)の娘。
孫 重政の息子【1760】
母は『寛政重修諸家譜』による。
孫 屋世〔養父:黒田継高〕
子 茂【1740-1741】(『華族系譜』による。)
子 麻→南部利雄~利用の系図
子 芳【1743-1747】(『華族系譜』による。)
子 安→広橋伊光の系図
妻 三隅氏
子 宮内【1738-1739】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 長経(ながつね)【1742-1763】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 秋【1739-1745】(『華族系譜』による。)
子 清→立花鑑通~鑑寛の系図
子 貞【1749-1758】
母は『寛政重修諸家譜』による。勧修寺経逸に嫁ぐ予定であった。
子 糸〔養父:黒田治之〕→黒田治之~長知の系図
子 吉【1763-1769】(『華族系譜』による。)
妻 岸原氏
子 房【1746-1764】
母は『寛政重修諸家譜』による。久我信通に嫁ぐ予定であった。
妻 三原氏
子 恒【1749-1759】
母は『寛政重修諸家譜』による。烏丸光祖に嫁ぐ予定であった。
子 春千代【1736】(『華族系譜』による。)
子 治之・孫 治高→黒田治之~長知の系図
子 屋世【1761-1771】
実は黒田重政の娘。黒田治之に嫁ぐ予定であった。
黒田治之~長知の系図
黒田治之(はるゆき)/高満(たかみつ)【1752-1781】
福岡藩主。実は一橋宗尹(→一橋宗尹の系図)の子。
祖父 宣政・父 継高→黒田綱政~継高の系図
妻 榊原政永の娘
妻の父 榊原政永→榊原政永の系図
妻 鈴木氏
子 隼三郎【1772-1777】
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 糸/厚【1759-1784】
実は黒田継高(→黒田綱政~継高の系図)の娘。醍醐冬香・京極高文・前田利久に嫁ぐ予定であった。
黒田治高(はるたか)/高幸(たかゆき)【1754-1782】
福岡藩主。実は京極高慶(→京極高通~高典の系図)の子。
黒田斉隆(なりたか)/長暠(ながあきら)【1777-1795】
福岡藩主。実は一橋治済(→一橋治済の系図)の子。藩校の修猷館などを創設した。
黒田斉清(なりきよ)/長順(ながゆき)【1795-1851】
福岡藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。蘭学にあかるく、シーボルトとも会談した。
妻 二条福子
二条治孝(→二条治孝~斉敬の系図)の娘。
子 万之丞(『華族系譜』による。)
黒田長溥(ながひろ)/斉溥【1811-1887】(以下、『華族系譜』による。)
福岡藩主。実は島津重豪(→島津重豪の系図)の子。蘭学を好み、ペリー来航時には開国論を主張した。
子の夫 松平慶倫→松平康乂~慶倫の系図
子の夫 四条隆謌→四条隆重~隆平の系図
黒田長知(ながとも)/慶賛【1838-1902】
福岡藩主。実は藤堂高猷(→藤堂高兌~高潔の系図)の子。維新後は知藩事となったが、贋札事件で罷免された。
妻 松平豊
松平定和(→松平定永~定教の系図)の娘。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。