このページでは、米倉氏(清和源氏・義光流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
米倉氏(武蔵国金沢藩主)の略系図
1 宗継→米倉宗継~信継・重種・豊継~正明・満継・信継の系図
1-A 重継・政継→米倉重継~正末・政継~政易の系図
4 永時→米倉永時~昌尹の系図
6-A 昌仲→米倉昌仲~昌喜の系図
7 昌明→米倉昌明~里矩の系図
11 昌晴→米倉昌晴~昌言の系図
米倉宗継~信継・重種・豊継~正明・満継・信継の系図
米倉宗継(むねつぐ)/重継(しげつぐ)【?-1575】
奈古信継(→厳尊・奈古義行の系図)の十代孫とされる。武田氏に仕え、長篠の戦いで戦死した。
子 晴継(はるつぐ)【?-1569】
子 信継〔養父:米倉忠継〕
米倉忠継(ただつぐ)【1544-1599】
米倉信継(のぶつぐ)/種継(たねつぐ)【1548-1636】
子 永時・孫 政継→米倉永時~昌尹の系図
米倉重種(しげたね)【?-1649】
子 種勝(たねかつ)
昌継と同一人物とも。
子 昌継(まさつぐ)【?-1646】
実は米倉永時(→米倉永時~昌尹の系図)の子。
子の夫 横田倫松→横田倫松の系図
子の夫 本多信吉→本多正時~忠次の系図
子の夫 梶川忠久→梶川忠久の系図
子の夫 雨宮正種→雨宮正種の系図
米倉豊継(とよつぐ)【1550-1627】(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
米倉正継(まさつぐ)【?-1648】
妻 入戸野門昌の娘
妻の父 入戸野門昌→入戸野門昌の系図
子 正清〔養父:米倉正永〕
米倉正永【?-1699】
米倉正清(まさきよ)【1645-1722】
実は米倉正継の子。
米倉正良(まさよし)【1703-1747】
子 入戸野門雅〔養父:入戸野門健〕→入戸野門雅の系図
米倉正明(まさあきら)【1730-?】
米倉満継(みつつぐ)/定継(さだつぐ)【1555-1622】(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
米倉信継(のぶつぐ)【1594-1657】
子 重継・政継・孫 政矩・昌継→米倉重継~正末・政継~政易の系図
米倉重継~正末・政継~政易の系図
米倉重継(しげつぐ)【?-1681】
祖父 満継・父 信継→米倉宗継~信継・重種・豊継~正明・満継・信継の系図
子 基継〔養父:米倉政矩〕
子の夫 建部秀定→建部秀定の系図
米倉政矩(まさつね)/政知(まさのり)【1619-1682】
実は波多野有綱(→波多野有綱の系図)の子。
妻 松下宣就の娘
妻の父 松下宣就→松下宣就の系図
子 政良〔養父:米倉基継〕
米倉基継(もとつぐ)【1670-1703】
実は米倉重継の子。
妻 松井正勝の娘
妻の父 松井正勝→松井正勝の系図
米倉政良(まさよし)【1676-1718】
実は米倉政矩の子。
米倉正峰(まさみね)【1695-1757】
実は山寺久友の子。
子 正末〔養父:米倉正友〕
米倉正友(まさとも)【1731-1788】
米倉正末(まさすえ)【1751-?】
実は米倉正峰の子。
米倉政継(まさつぐ)【?-1698】
妻 吉田政永の娘
妻の父 吉田政永→吉田政永の系図
米倉昌継(まさつぐ)【1664-1725】
米倉政長(まさなが)【1700-1751】
米倉政重(まさしげ)【1735-1796】
妻 間宮高博の娘
実は諏訪氏の娘。
妻の父 間宮高博→間宮高博の系図
米倉政易(まさやす)【1765-?】
米倉永時~昌尹の系図
米倉永時(ながとき)/清継(きよつぐ)【1570-1624】
母は『寛政重修諸家譜』による。
祖父 忠継・父 信継→米倉宗継~信継・重種・豊継~正明・満継・信継の系図
妻 柳沢信俊の娘
妻の父 柳沢信俊→柳沢信俊の系図
子 義継(よしつぐ)【1589-1615】
大坂の陣で討ち死にした。
子 昌縄(まさなわ)【1602-1649】
子 昌継〔養父:米倉重種〕→米倉宗継~信継・重種・豊継~正明・満継・信継の系図
子 上友(『寛政重修諸家譜』による。)
実は柳沢長久の子。
子の夫 須田盛近→須田盛近の系図
子の夫 高尾嘉文→高尾嘉文の系図
米倉政継(まさつぐ)/昌純(まさずみ)【1614-1707】
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 梁田直次の娘
妻の父 梁田直次→梁田直次の系図
子の夫 長田房重→長田勝吉~房重の系図
米倉昌尹(まさただ)/昌忠(まさただ)【1637-1699】
武蔵国金沢藩主・下野国皆川藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。徳川綱吉に抜擢され、若年寄となり、加増されて大名となった。
妻 金森重義の娘
妻の父 金森重義→金森重義の系図
子 昌明・孫 昌照→米倉昌明~里矩の系図
妻 渡辺守の娘
妻の父 渡辺守→渡辺守の系図
子 昌仲・孫 昌倫→米倉昌仲~昌喜の系図
子の夫 武田信常→武田信安~信誼の系図
米倉昌仲~昌喜の系図
米倉昌仲(まさなか)/忠直(ただなお)【1681-1703】(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
祖父 政継・父 昌尹→米倉永時~昌尹の系図
祖父 渡辺守→渡辺守の系図
妻 松平忠明の娘
妻の父 松平忠明→松平伊燿~忠明の系図
夫 近藤用連→近藤用連の系図
米倉昌倫(まさのり)【1690-1740】
実は長田重堅(→長田重堅~直陳の系図)の子。
妻 新庄直賢の娘
妻の父 新庄直賢→新庄直賢の系図
夫 井戸典弘→井戸典弘の系図
子 昌晴〔養父:米倉里矩〕→米倉昌晴~昌言の系図
子の夫 保科正盈→保科正英~正棟の系図
子の夫 本多正命→本多正之~正収の系図
米倉昌長(まさなが)【1720-1788】
妻 小出尹当の娘
妻の父 小出尹当→小出尹当の系図
子の夫 三好長義→三好長義の系図
米倉昌盈(まさみつ)【1745-?】
実は奥田忠英(→奥田忠英の系図)の子。
子 昌由〔養父:米倉昌賢〕→米倉昌晴~昌言の系図
子 昌盈の娘〔養父:加藤常正〕→加藤常正の系図
子の夫 中山時倫→中山時倫の系図
子の夫 雨宮正直→雨宮正直の系図
米倉昌喜(まさとし)【1775-?】
妻 米倉昌晴の娘
妻の父 米倉昌晴→米倉昌晴~昌言の系図
米倉昌明~里矩の系図
米倉昌明(まさあきら)【1673-1702】
皆川藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。
祖父 政継・父 昌尹→米倉永時~昌尹の系図
祖父 金森重義→金森重義の系図
妻 須田為昌の娘
妻の父 須田為昌→須田為昌の系図
妻 筒井忠助の娘
妻の父 筒井忠助→筒井忠助の系図
子 昌行(まさゆき)【?-1701】
子の夫 武田信常→武田信安~信誼の系図
子の夫 小堀政房→小堀政房の系図
子の夫 松平忠周→松平忠周・忠容~忠明の系図
孫 忠愛→松平忠愛の系図
米倉昌照(まさてる)【1683-1712】
皆川藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 石川憲之の娘
妻の父 石川憲之→石川忠総~義孝の系図
米倉忠仰(ただすけ)/保教(やすのり)【1706-1735】
皆川藩主・金沢藩主。実は柳沢吉保(→柳沢吉保の系図)の子。
妻 本多忠直の娘
妻の父 本多忠直→本多忠平~忠烈の系図
米倉里矩(さとのり)【1733-1749】
金沢藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。
子 昌晴・孫 昌賢→米倉昌晴~昌言の系図
米倉昌晴~昌言の系図
米倉昌晴(まさはる)【1728-1785】
金沢藩主。実は米倉昌倫(→米倉昌仲~昌喜の系図)の子。
祖父 忠仰・父 里矩→米倉昌明~里矩の系図
妻 柳沢保経の娘
妻の父 柳沢保経→柳沢時睦~徳忠の系図
妻 島津久芬の娘
妻の父 島津久芬→島津久芬の系図
夫 中山時寿→中山時寿の系図
子 増五郎【1757-1760】
子 戸田光知〔養父:戸田光禀〕→戸田政倚~光紹の系図
子 本多忠福〔養父:本多忠由〕→本多忠利~忠慎の系図
子の夫 遠山景祥→遠山景祥の系図
子の夫 米倉昌喜→米倉昌仲~昌喜の系図
子の夫 今大路正庸→今大路正庸の系図
米倉昌賢(まさかた)【1759-1798】
金沢藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 柳沢信鴻の娘
妻の父 柳沢信鴻→柳沢信鴻の系図
子の夫 米倉昌胤(『米倉家譜(武蔵六浦)』による。)
米倉昌由(まさよし)【1777-1816】
金沢藩主。実は米倉昌盈(→米倉昌仲~昌喜の系図)の子。
米倉昌俊/昌後(まさのち)【1784-1812】
金沢藩主。実は水野忠鼎(→水野忠鼎の系図)の子。
妻 松平忠告の娘
妻の父 松平忠告→松平忠告の系図
夫 松平信彰→松平信直~信彰の系図
米倉昌寿(まさなが)【1793-1863】(以下、『米倉家譜(武蔵六浦)』による。)
金沢藩主。実は朽木昌綱(→朽木鋪綱・昌綱の系図)の子。
妻 間部詮煕の娘
妻の父 間部詮煕→間部詮煕の系図
妻 板倉勝長の娘
妻の父 板倉勝長→板倉勝矩~勝達の系図
子 冶鋳太郎【1820-1825】
子の夫 本多助実→本多助盈~助寵の系図
子 朽木紘綱〔養父:朽木綱張〕→朽木倫綱~為綱の系図
子 頼誠〔養父:池田頼方〕
子 昌慧〔養父:米倉昌侃、養子:米倉昌邦〕
子 安部信発〔養父:安部信宝〕→安部信発の系図
子 正直〔養父:米倉正勝〕
子 昌邦〔養父:米倉昌慧〕
子の夫 朽木為綱→朽木倫綱~為綱の系図
米倉昌言(まさこと)【1837-1909】
金沢藩主。藩名を六浦藩に改めた。
妻 諏訪忠恕の娘
妻の父 諏訪忠恕→諏訪忠恕の系図
妻 本庄道美の娘
妻の父 本庄道美→本庄道美の系図
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。