このページでは、武田氏(清和源氏・義光流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
武田氏の略系図
1 信義→武田信義の系図
2 信光→武田信光の系図
2-A 信長→一条信長の系図
3 信政→武田信政~信宗の系図
7 信武→武田信武・信成の系図
7-A 氏信→武田氏信~元明の系図
7-B1 直信→武田直信~信重の系図
7-B2 信良・信成→武田信良~信敏・信成~信邦の系図
8-A 武続→栗原武続~忠正・巨海忠勝~安藤半次郎の系図
9 信春→武田信春・信満の系図
11 信重→武田信重~信昌の系図
11-A 永信→小佐手永信~信章・信次~信継の系図
11-B 賢信→下曽祢賢信~信親の系図
13-A 信恵→油川信恵~武田信義の系図
14 信縄→武田信縄・信虎の系図
15-A1 信実→武田信実~川窪信雄の系図
15-A2 信世→川窪信世・信亮の系図
15-A3 信次・信通→川窪信次~武田信成・川窪信通~信明の系図
15-A4 信貞→武田信貞~信親・川窪信慈~信睦の系図
15-A5 信安→武田信安~信誼の系図
15-A6 信有・信近→川窪信有~信軌・信近~信貞の系図
16 晴信→武田晴信・勝頼・海野信親~武田崇信の系図
武田信義の系図
武田信義(のぶよし)【1128-1186】
源頼朝の挙兵に加わり、富士川の戦いで平維盛らを敗走させた。
祖父 義清・父 清光→源義清・清光の系図
子 一条忠頼(ただより)【?-1184】
源平合戦では木曽義仲の追討で功をあげたが、源頼朝の命で殺された。
孫の夫 源貞持→源義持の系図
忠頼孫 頼高(以下、『系図纂要』による。)
忠頼孫 虎泰【?-1546】
忠頼孫 昌忠【1534-1564】
忠頼孫 晴光【?-1582】
子 板垣兼信(かねのぶ)
違勅の罪で隠岐に流された。
曾孫 長兼
曾孫の妻 高畠長村の娘
曾孫の妻の父 高畠長村→藤崎行長の系図
子 有義(ありよし)
父は万刀義資(→石川義時~忠頼の系図)とも。当初は平重盛に仕えたが、源頼朝の挙兵に父らとともに加わった。梶原景時の乱では、景時によって次期将軍に立てられようとした。
孫 宇久家盛・曾孫 扇(『系図纂要』による。)→宇久家盛~幡の系図
子 信光→武田信光の系図
孫 信政→武田信政~信宗の系図
孫 一条信長→一条信長の系図
子の夫 源義信→源義持の系図
武田信光の系図
武田信光(のぶみつ)【1162-1248】
源頼朝の挙兵に加わり、承久の乱では東山道の大将軍を務めた。
子 信忠(のぶただ)/高信
和田氏の乱では幕府方につき、朝比奈義秀と戦った。後に父に勘当された。
孫 家弘(以下、『系図纂要』による。)
子 信政・孫 信時→武田信政~信宗の系図
子 一条信長→一条信長の系図
子 信継/信平
子 光信/光経
子 光性/信快
子の夫 佐原義連→佐原義連の系図
孫 政隆/正隆
政隆孫 助政/光嗣
孫 貞経
父は武田光信とも。
孫 上条信賢(以下、『系図纂要』による。)
信賢孫 武清【?-1417】
孫の夫 小笠原長経(『系図纂要』による。)→小笠原長経の系図
曾孫 長忠→小笠原長忠~宗長の系図
一条信長の系図
一条信長(のぶなが)
弓矢の名手。
子 光家(『系図纂要』による。)
孫 時信/時経【?-1321】
曾孫 貞連〔養父:三浦甲斐守〕
曾孫 貞家【?-1333】
曾孫 青木時光→青木時光~信立・柳沢信興~信兼の系図
義行孫 山高信方→山高信方の系図
曾孫 遠実〔養父:加賀美弥太郎〕
武田信政~信宗の系図
武田信政(のぶまさ)【?-1265】
母は『系図纂要』による。承久の乱では美濃で朝廷方と戦った。
子 政綱/政縄
曾孫 貞信【?-1347】
子 駒井信盛→駒井信盛の系図
子 下条政長/政平(『系図纂要』による。)
武田信時(のぶとき)/信明【?-1289】
安芸守護となり、蒙古襲来の際には安芸の武士を指揮した。
子 信実・時平・光時(『系図纂要』による。)
武田時綱(ときつな)
妻 名越朝時の娘
妻の父 名越朝時→名越朝時の系図
子 向阿【1263-1345】(『系図纂要』による。)
武田信宗(のぶむね)【1269-1330】
母は『系図纂要』による。
子 信武・孫 信成→武田信武・信成の系図
孫 氏信→武田氏信~元明の系図
孫 直信→武田直信~信重の系図
武田信武・信成の系図
武田信武(のぶたけ)【?-1359】
足利尊氏に従い、甲斐守護・安芸守護となった。和歌をよくした。
祖父 時綱・父 信宗→武田信政~信宗の系図
子 大井信明(『系図纂要』による。)→大井信明の系図
子 氏信・孫 信在→武田氏信~元明の系図
子 直信・孫 信綱→武田直信~信重の系図
子 公信(以下、『系図纂要』による。)
子 穴山義武/信実(『系図纂要』による。)
武田信成(のぶなり)【?-1394】(以下、『系図纂要』による。)
父信武が転戦するなか、守護代として留守を守った。
子 信春・孫 信満→武田信春・信満の系図
子 武春/信家〔養父:下条伊豆守〕
子 栗原武続・孫 巨海信通→栗原武続~忠正・巨海忠勝~安藤半次郎の系図
子の夫 上杉氏憲→上杉氏憲の系図
曾孫 信清【?-1492】
栗原武続~忠正・巨海忠勝~安藤半次郎の系図
栗原武続(たけつぐ)
祖父 信武・父 信成→武田信武・信成の系図
巨海信通(のぶみち)/保澄【?-1455】
三河国巨海に住んだ。
子 信続【?-1458】
孫 信尊【?-1506】
巨海信明(のぶあきら)/義信
巨海信遠(のぶとお)【?-1501】
巨海信友(のぶとも)【?-1530】
巨海信重(のぶしげ)
巨海信方(のぶかた)(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
栗原信頼(のぶより)
栗原政長(まさなが)/昌治【?-1631】
栗原忠重(ただしげ)【1546-1602】
栗原清次(きよつぐ)【1587-1621】
栗原忠正(ただまさ)【1618-?】
巨海忠勝(ただかつ)
巨海忠正(ただまさ)
42歳で亡くなった。
妻 安藤定次の娘【?-1665】
妻の父 安藤定次→安藤定次・定次~定賢の系図
子 兵蔵【1582-1600】
子の夫 松平忠次→松平定政~重次・忠勝・政勝の系図
安藤忠次(ただつぐ)【?-1666】
子 忠義〔養父:安藤忠利〕
子の夫 松平政次→松平政次~政周の系図
子の夫 西山昌春→西山昌春の系図
安藤忠利(ただとし)【?-1694】
安藤忠義【?-1703】
実は安藤忠次の子。名は『系図纂要』による。
子の夫 榊原忠賢→榊原忠賢の系図
子の夫 溝口政珍→溝口政珍の系図
安藤嘉右衛門【?-1703】
安藤半次郎
実は佐々木正和(→佐々木正和の系図)の子。
武田氏信~元明の系図
武田氏信(うじのぶ)/信頼(のぶより)/直信【1312-1380】
安芸守護。南朝方についた足利直冬と戦った。
祖父 信宗→武田信政~信宗の系図
父 信武→武田信武・信成の系図
妻 小笠原宗長の娘
妻の父 小笠原宗長→小笠原長忠~宗長の系図
武田信在(のぶあり)/満信
子 信守
『寛政重修諸家譜』によれば、子はいなかったとされる。
武田信繁(のぶしげ)
妻 武田信春の娘
妻の父 武田信春→武田信春・信満の系図
子 信賢(のぶかた)【1420-1471】
兄信栄から若狭守護を継ぎ、若狭国の支配確立に努めた。
孫 蠣崎信広〔養父:武田国信〕→蠣崎信広~季広の系図
子 信栄(のぶひで)【1413-1440】
足利義教の命で一色義貫を討ち、若狭守護となった。
孫 信重(以下、『系図纂要』による。)
子 信敦(『系図纂要』による。)
子 元綱(もとつな)(以下、『系図纂要』による。)
安芸銀山城主。応仁の乱では東軍に属した。国信から安芸の支配を委ねられた。
孫 元繁(もとしげ)【?-1517】
安芸銀山城主。大内義興と対立して戦死した。
曾孫 光和(みつかず)/光貞【1502-1534】
安芸銀山城主。大内義興・義隆と戦った。
元綱孫 光広【?-1541】〔養父:武田光和〕
実は武田伴下野守の子。
武田国信(くにのぶ)【1442-1490】
応仁の乱では東軍に属し、細川勝元に従った。信賢の後を継ぎ、若狭と安芸を支配した。
子 蠣崎信広(『系図纂要』による。)→蠣崎信広~季広の系図
子 信親(のぶちか)【1462-1485】
武田元信(もとのぶ)【?-1521】
若狭守護。足利義稙・義澄に仕えた。三条西実隆や宗祇らとも親交があった。
子 潤甫【?-1550】(『系図纂要』による。)
子 元度(以下、『系図纂要』による。)
子 内藤元是(以下、『系図纂要』による。)
元是孫 政勝【?-1615】
武田元光(もとみつ)/元完【1494-1551】
若狭守護。京都で三好勝永・柳本賢治らと戦って敗れた。
子 信重(『寛政重修諸家譜』による。)
子 内藤政信(『寛政重修諸家譜』による。)→内藤政信の系図
子の夫 久我晴通→久我晴通~敦通の系図
武田信豊(のぶとよ)/光豊【?-1556】
妻 細川澄賢の娘
妻の父 細川澄賢→細川満元~昭元の系図
子 信由・信景(『系図纂要』による。)
子の夫 朝倉義景(『系図纂要』による。)→朝倉義景の系図
武田義統(よしむね)/信統【1526-1567】(以下、『系図纂要』による。)
若狭守護。家臣の反乱を朝倉氏の助けを得て鎮圧した。
武田元明(もとあき)/元次(もとつぐ)/元治(もとはる)【1552-1582】
朝倉氏の庇護を受けた後、織田信長に従った。本能寺の変に際し、明智光秀に味方したことで、自殺に追い込まれた。
妻 京極竜子
京極高吉(→京極高光~高吉の系図)の娘。
夫 豊臣秀吉→豊臣秀吉の系図
武田直信~信重の系図
武田直信(なおのぶ)
祖父 信宗→武田信政~信宗の系図
父 信武→武田信武・信成の系図
武田信綱(のぶつな)
武田信賢(のぶかた)
以下、信治に至るまでは、年数に比して世代が少なく、中絶があるともされる。
武田信光(のぶみつ)(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
武田信治(のぶはる)
子 信勝(のぶかつ)
藤原惺窩に儒学を学んだ。
武田信重(のぶしげ)【1584-1665】
子 信良・信成・孫 信広・信任→武田信良~信敏・信成~信邦の系図
子の夫 上林政次→上林政次の系図
武田信良~信敏・信成~信邦の系図
武田信良(のぶよし)【1624-1672】
祖父 信治・父 信重→武田直信~信重の系図
妻 小笠原長俊の娘
妻の父 小笠原長俊→小笠原貞慶・秀政の系図
武田信広(のぶひろ)【1651-1717】
武田信方(のぶかた)【1676-1728】
子 信久〔養父:武田信郷〕
武田信直(のぶなお)【1717-1790】
妻 池田貞辰の娘
妻の父 池田貞辰→池田貞辰の系図
夫 上田貞朋→上田貞朋の系図
子 信直の娘〔養父:三井高義(→三井高義の系図)〕
小野忠賞の妻になった。
子の夫 岡田元英→岡田元英の系図
武田信敏(のぶとし)【1746-?】
妻 堀直昌の娘
妻の父 堀直昌→堀直好~直雄の系図
子の夫 太田盛庸→太田盛庸の系図
武田信成(のぶなり)【1626-1705】
妻 上杉長貞の娘
妻の父 上杉長貞→上杉長貞の系図
武田信任(のぶとう)/定信(さだのぶ)【1669-1735】
妻 上杉長之の娘
妻の父 上杉長之→上杉長之の系図
子 信古(のぶひさ)【1688-1720】
子の妻 板倉惇叙の娘
子の妻の父 板倉惇叙→板倉惇叙の系図
孫 信古の娘〔養父:武田信任〕
武田信郷(のぶさと)【1700-1773】
実は黒川道節の子。
妻 武田信任の娘
実は武田信古の娘。
子 信久(のぶひさ)/信古【?-1750】
実は武田信方の子。
子の妻 武田信郷の娘
実は細川元信(→細川詮春~光信の系図)の娘。
子の妻の夫 石谷清盈→石谷清盈の系図
子 松軒
実は細川元信(→細川詮春~光信の系図)の子。
武田信復(のぶのり)【1737-?】
実は曽谷俊宇(→曽谷俊宇の系図)の子。
妻 有馬純之の娘
妻の父 有馬純之→有馬純息~純長・純珍~純昌の系図
子 平田信行〔養父:平田道寛〕→平田信行の系図
子の夫 有馬純長→有馬純息~純長・純珍~純昌の系図
武田信邦(のぶくに)【1769-?】
妻 近藤政明の娘
妻の父 近藤政明→近藤政明の系図
武田信春・信満の系図
武田信春(のぶはる)【?-1413】
祖父 信武・父 信成→武田信武・信成の系図
子 穴山満春(みつはる)【?-1417】
子 信元(のぶもと)
兄信満の死後、高野山に逃れた。その後、甲斐守護となった。穴山満春と同一人物ともされる。
子の夫 武田信繁→武田氏信~元明の系図
子の夫 小笠原長基→小笠原貞宗~政康の系図
孫 信久/義久
武田信満(のぶみつ)【?-1417】
上杉禅秀の乱に加わり土賊山で自害した。
子 信重・孫 信守→武田信重~信昌の系図
孫 下曽祢賢信→下曽祢賢信~信親の系図
孫 小佐手永信→小佐手永信~信章・信次~信継の系図
子 信長(のぶなが)
甲斐を支配した逸見有直と戦った。後に足利成氏に仕えた。
子の妻 土屋宗貞の娘
子の妻の父 土屋宗貞→土屋宗貞の系図
孫 伊豆千代丸【?-1433】
武田信元から家督を継いだ。
孫 信英【1430-1463】
孫の夫 里見義実→里見義実の系図
曾孫 信胤/豊信【?-1551】
信長孫 信栄【?-1590】
子 信康/信泰【?-1490】
子 信景→武田信景の系図
子 巨勢村信賢【?-1489】
子の夫 上杉氏憲→上杉氏憲の系図
武田信重~信昌の系図
武田信重(のぶしげ)【?-1450】
父信満の死後、高野山に逃れた。その後、甲斐守護となり、足利持氏の討伐や結城合戦に加わった。
祖父 信春・父 信満→武田信春・信満の系図
子 穴山信介(のぶすけ)【?-1450】
孫 信県(のぶかた)/信懸【?-1491】
曾孫 信永(のぶなが)【?-1523】
信介孫 友勝【1494-1511】
曾孫 信尭(のぶたか)【?-1531】
信介孫 信友【?-1560】
信友の妻 武田信虎の娘【?-1566】
信友の妻の父 武田信虎→武田信縄・信虎の系図
信介孫 信君(のぶきみ)/梅雪(ばいせつ)【1541-1582】
駿河江尻城主。武田信玄・勝頼に仕えたが、武田氏滅亡の直前に徳川家康に降った。本能寺の変を聞いて帰国する途中、宇治田原で殺された。
信君の妻 武田晴信の娘
信君の妻の父 武田晴信→武田晴信・勝頼・海野信親~武田崇信の系図
信介孫 信治【1572-1587】
信介孫 信君の娘【?-1575】
信介孫 信邦【?-1559】
信介孫 玄璘【?-1570】
曾孫 信風(のぶかぜ)
父は穴山信義とも。
信介孫 信豊【?-1530】
子 小佐手永信・孫 信行→小佐手永信~信章・信次~信継の系図
子 下曽祢賢信・孫 信尾→下曽祢賢信~信親の系図
子 周穏/周快
孫 藤次【1451-1519】
実は一色藤直の子。
武田信守(のぶもり)【?-1455】
武田信昌(のぶまさ)【1447-1505】
甲斐守護。守護代の跡部景家を討って実権を握った。
子 信縄・孫 信虎→武田信縄・信虎の系図
子 油川信恵・孫 信友→油川信恵~武田信義の系図
子 縄美→武田縄美の系図
子の夫 小笠原清宗→小笠原持長~貞朝の系図
孫 林光政→林光政~忠政・忠定~土屋存久の系図
油川信恵~武田信義の系図
油川信恵(のぶよし)
祖父 信守・父 信昌→武田信重~信昌の系図
油川信友(のぶとも)(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
村上義清との合戦で討ち死にした。
油川信吉(のぶよし)【?-1561】
川中島の戦いで戦死した。
油川信次(のぶつぐ)【?-1575】
長篠の戦いで討ち死にした。
油川信貞(のぶさだ)【1557-1626】
妻 大井虎昌の娘
妻の父 大井虎昌→大井虎昌の系図
油川信忠(のぶただ)/信成(のぶなり)【1614-1652】
子 渡辺正利〔養父:渡辺正友〕→渡辺正利の系図
油川信似(のぶつく)【1637-1687】
妻 天野重時の娘
妻の父 天野重時→天野重時の系図
妻 高木信次の娘
妻の父 高木信次→高木信次の系図
武田信定(のぶさだ)【1670-1731】
妻 松平乗実の娘
妻の父 松平乗実→松平知乗・乗実~乗郷の系図
妻 竹内幸和の娘
妻の父 竹内幸和→竹内幸和の系図
子 信照〔養父:武田信房〕
子 三浦信之〔養父:三浦正成〕→三浦信之の系図
子 三浦政明〔養父:三浦政方〕→三浦政明の系図
子 信定の娘〔養父:香取自安〕
武田信房(のぶふさ)【1693-1753】
妻 山名時尚の娘
妻の父 山名時尚→山名時尚の系図
武田信照(のぶてる)【1715-1782】
実は武田信定の子。
子 関根良貴〔養父:関根良尚〕→関根良貴の系図
子の夫 藤川勝安→藤川勝安の系図
子の夫 平岡資辰→平岡資辰の系図
武田信義(のぶよし)【1753-?】
妻 染木美啓の娘
妻の父 染木美啓→染木美啓の系図
小佐手永信~信章・信次~信継の系図
小佐手永信(ながのぶ)
祖父 信満→武田信春・信満の系図
父 信重→武田信重~信昌の系図
子 信俊【?-1449】
小佐手信行(のぶゆき)
父は小佐手信俊とも。27歳で亡くなった。
小佐手信広(のぶひろ)【1545-1569】
小佐手信房(のぶふさ)【1565-1628】(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
妻 青沼昌平の娘
妻の父 青沼昌平→青沼昌平の系図
小佐手信家(のぶいえ)【?-1639】
小佐手信忠(のぶただ)/信心(のぶなが)【?-1674】
子の夫 今村正俊→今村正俊の系図
小佐手信利(のぶとし)【?-1713】
小佐手信安(のぶやす)【1698-1764】
実は今村正俊(→今村正俊の系図)の子。
子 信末(のぶすえ)【1727-1760】
実は今村正方(→今村正方の系図)の子。
小佐手信清(のぶきよ)【1747-?】
妻 伊東庸相の娘
妻の父 伊東庸相→伊東庸相の系図
夫 近藤孟卿→近藤孟卿の系図
妻 漆崎定経の娘
妻の父 漆崎定経→漆崎定経の系図
小佐手信章(のぶあきら)【1779-?】
実は三橋成意(→三橋成意の系図)の子。
小佐手信次(のぶつぐ)【?-1656】
妻 芝山正次の娘
妻の父 芝山正次→芝山正次の系図
小佐手信秋(のぶあき)【?-1689】
小佐手有延(ありのぶ)【1684-1747】
子 花井定常〔養父:花井定延〕→花井定常の系図
小佐手有徳(ありとく)【1715-1750】
妻 萩原友徳の娘
妻の父 萩原友徳→萩原友徳の系図
小佐手有信(ありのぶ)【1735-1794】
妻 牧野正常の娘
妻の父 牧野正常→牧野正常の系図
子 花井信勝〔養父:花井定常〕→花井信勝の系図
子の夫 藤沢次美→藤沢次美の系図
子の夫 若林直行→若林直行の系図
小佐手信継(のぶつぐ)【1764-?】
妻 野間成澄の娘
妻の父 野間成澄→野間成澄の系図
下曽祢賢信~信親の系図
下曽祢賢信(かたのぶ)/賢範/信賢(のぶかた)
祖父 信満→武田信春・信満の系図
父 信重→武田信重~信昌の系図
下曽祢信尾(のぶお)/信興(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
下曽祢信恒(のぶつね)
下曽祢信秀(のぶひで)/虎長
子 信正〔養父:下曽祢信照〕
下曽祢賢信照(のぶてる)
子の夫 城信茂→城信茂の系図
下曽祢信正(のぶまさ)【1572-1608】
実は下曽祢信秀の子。
妻 城景茂の娘
妻の父 城景茂→城景茂の系図
下曽祢信由(のぶよし)【1599-1683】
妻 戸田重元の娘
妻の父 戸田重元→戸田重元~重種・光正~長重の系図
子 信辰(のぶとき)【1652-1680】
孫 信如〔養父:下曽祢信具〕
下曽祢信定(のぶさだ)【1619-1678】
妻 岡部元重の娘
妻の父 岡部元重→岡部元重の系図
下曽祢信具(のぶとも)【1667-1705】
下曽祢信如(のぶゆき)【1676-1743】
実は下曽祢信辰の子。
子 信胤〔養父:下曽祢信一〕
子の夫 赤井直秀→赤井直秀の系図
子の夫 八木為豊→八木為豊の系図
下曽祢信一(のぶかず)【1714-1774】
妻 筒井政虎の娘
妻の父 筒井政虎→筒井政虎の系図
子 信親〔養父:下曽祢信胤〕
子の夫 高城胤従→高城胤従の系図
子の夫 天野良陳→天野良陳の系図
下曽祢信胤(のぶたね)【1730-?】
実は下曽祢信如の子。
妻 設楽貞周の娘
妻の父 設楽貞周→設楽貞周の系図
夫 加藤正脩→加藤正脩の系図
下曽祢信親(のぶちか)【1772-?】
実は下曽祢信一の子。
妻 上野忠昌の娘
妻の父 上野忠昌→上野忠昌の系図
武田信縄・信虎の系図
武田信縄(のぶつな)【?-1507】
祖父 信守・父 信昌→武田信重~信昌の系図
子 信友(のぶとも)【?-1560】
孫 信原【1540-1582】
信友孫 頼決【1624-1640】
武田信虎(のぶとら)/信直【1494-1574】
一族の抗争を抑えて甲斐国内を統一し、隣国にも侵攻した。後に晴信に追放され、西国を流浪するなどし、信濃国高遠で亡くなった。
妻 内藤氏
子の夫 穴山信友→武田信重~信昌の系図
妻 大井信達の娘【1497-1552】
妻の父 大井信達→大井信達の系図
子 晴信・孫 勝頼・海野信親→武田晴信・勝頼・海野信親~武田崇信の系図
子 信繁(のぶしげ)【1525-1561】
兄晴信を助け、『武田信繁家訓』をまとめた。川中島の戦いで戦死した。
孫 信豊/信元【?-1582】
曾孫 二郎【?-1582】
子 信綱(のぶつな)/信廉(のぶかど)【?-1582】
信濃高遠城主。織田軍の甲斐侵攻で殺された。
孫 信澄【1560-1576】
孫 麟丘【?-1582】
孫の夫 小笠原信嶺→小笠原信嶺~貞信・信政の系図
孫の夫 加藤昌氏(『寛政重修諸家譜』による。)
孫の夫 御手洗直重(『寛政重修諸家譜』による。)→御手洗直重の系図
孫の夫 仁科信盛(『寛政重修諸家譜』による。)
仁科盛信と同一人物か。
妻 楠浦氏
子 亀子【?-1552】
妻 松尾氏
子 松尾信是【?-1571】
子 信実・孫 川窪信俊→武田信実~川窪信雄の系図
子 一条信竜/信隆/信達
孫 信就【?-1582】
子 竹松【?-1523】
子 信光【1539-?】
孫 勝千代【1554-1582】
孫 信真【?-1585】
曾孫 信定【1578-1649】
子 信虎の娘【?-1575】
子の夫 今川義元→今川範忠~義元の系図
孫 氏真→今川氏真~氏尭の系図
子の夫 諏訪頼重→諏訪頼重の系図
子の夫 今出川晴季→今出川晴季~公規の系図
武田信実~川窪信雄の系図
武田信実(のぶざね)【1544-1575】(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
長篠の戦いの際に討ち死にした。
祖父 信縄・父 信虎→武田信縄・信虎の系図
子の夫 小笠原長臣→小笠原長臣~長著の系図
川窪信俊(のぶとし)【1564-1639】
甲斐国川窪を領したことから、川窪を称した。
妻 正親町三条公仲の娘
妻の父 正親町三条公仲→正親町三条公兄~公仲の系図
子 信世・孫 信亮→川窪信世・信亮の系図
子 信次・孫 武田奉信→川窪信次~武田信成・川窪信通~信明の系図
子 信通・孫 信良→川窪信次~武田信成・川窪信通~信明の系図
子 信本(のぶもと)
子の妻 朝日近吉の娘
子の妻の父 朝日近吉→朝日近吉の系図
川窪信雄(のぶお)【1601-1639】
妻 高木正次の娘
実は山田重利(→山田重利の系図)の娘。
妻の父 高木正次→高木正次の系図
子 武田信貞・孫 信令・川窪信慈→武田信貞~信親・川窪信慈~信睦の系図
子 武田信安・孫 信常→武田信安~信誼の系図
子の夫 蒔田定則→蒔田定則の系図
武田信貞~信親・川窪信慈~信睦の系図
武田信貞(のぶさだ)【1631-1711】
祖父 信俊・父 信雄→武田信実~川窪信雄の系図
祖父 高木正次→高木正次の系図
妻 本多忠相の娘
妻の父 本多忠相→本多忠相~忠敞の系図
子 川窪右近【?-1681】
子 市十郎〔養父:武田信安〕→武田信安~信誼の系図
子 堀田通矩〔養父:堀田通右〕→堀田通右の系図
武田信令(のぶとき)【1655-1718】
妻 久留島通清の娘
妻の父 久留島通清→久留島通清・通政の系図
子 信胤〔養父:武田信喜〕
武田信喜(のぶよし)【1691-1712】
武田信胤(のぶたね)【1696-1736】
実は武田信令の子。
妻 伊東長救の娘
妻の父 伊東長救→伊東長昌~長救の系図
夫 小笠原貞通→小笠原真方~貞顕の系図
子 信胤の娘(2人)〔養父:川窪信慈〕
子の夫 稲葉正邑→稲葉正倚・正辰~正芳・正直・通周~通義の系図
子の夫 筑紫通門→筑紫通門の系図
子の夫 柴田康平→柴田康平の系図
子の夫 水野勝澄→水野勝彦~勝善・勝英~勝順の系図
子の夫 岡部臧衍→岡部定直~長貴の系図
子の夫 花房正域→花房正域の系図
子の夫 船越景貞→船越景貞の系図
武田信村(のぶむら)【1722-1781】
妻 堀千代
堀直央(→堀直良~直喜の系図)の娘。
子 信誼〔養父:武田信房〕→武田信安~信誼の系図
武田信親(のぶちか)【1753-?】
妻 保科正富の娘
妻の父 保科正富→保科正富~正益の系図
川窪信慈(のぶよし)【1697-1750】
妻 星合顕英の娘
妻の父 星合顕英→星合顕英の系図
子 信慈の娘(2人)
実は武田信胤の子。
川窪信積(のぶもり)【1727-?】
実は逸見義武(→逸見義武の系図)の子。
妻 山村良考の娘
妻の父 山村良考→山村良考の系図
川窪信友(のぶとも)【1744-1795】
実は遠藤常之(→遠藤常之の系図)の子。
川窪信睦(のぶたか)【1780-?】
妻 大前房明の娘
実は飯島之昌(→飯島之昌の系図)の娘。
妻の父 大前房明→大前房明の系図
武田信安~信誼の系図
武田信安(のぶやす)【1633-1699】
祖父 信俊・父 信雄→武田信実~川窪信雄の系図
祖父 高木正次→高木正次の系図
妻 松平忠直の娘
妻の父 松平忠直→松平忠直の系図
子 市十郎【?-1687】
実は武田信貞(→武田信貞~信親・川窪信慈~信睦の系図)の子。
子の夫 近藤重興→近藤重興の系図
武田信常(のぶつね)/信友(のぶとも)【1676-1724】
実は川窪信亮(→川窪信世・信亮の系図)の子。
妻 米倉昌尹の娘
実は米倉昌明(→米倉昌明~里矩の系図)の娘。
妻の父 米倉昌尹→米倉永時~昌尹の系図
子の夫 山村良喜→山村良喜の系図
武田信温(のぶあつ)【1707-1738】
実は戸田政峯(→戸田政倚~光紹の系図)の子。
子 松平正職〔養父:松平正淳〕→松平正職の系図
武田信尹(のぶただ)【1729-1771】
妻 久留正秀の娘
妻の父 久留正秀→久留正秀の系図
妻 脇坂安繁の娘
実は脇坂安利(→脇坂安利の系図)の娘。
妻の父 脇坂安繁→脇坂安繁の系図
夫 奥山和佐→奥山和佐の系図
夫 依田守寿→依田守寿の系図
妻 萩原雅忠の娘
妻の父 萩原雅忠→萩原雅忠の系図
夫 建部広通→建部広通の系図
子の夫 木原白郷→木原白郷の系図
子の夫 大久保忠豪→大久保忠豪の系図
子の夫 戸田勝英→戸田正吉~勝英の系図
武田信房(のぶふさ)【1755-1793】
妻 岡部忠茂の娘
妻の父 岡部忠茂→岡部忠茂の系図
夫 土屋昌寿→土屋昌寿の系図
妻 小菅武第の娘
実は市川清移(→市川清移の系図)の娘。
妻の父 小菅武第→小菅武第の系図
武田信誼(のぶのり)【1777-?】
実は武田信村(→武田信貞~信親・川窪信慈~信睦の系図)の子。
妻 松平正邦の娘
実は青山忠高(→青山俊春~忠講の系図)の娘。
妻の父 松平正邦→松平正邦の系図
夫 本多重賀→本多重能~重賀の系図
川窪信世・信亮の系図
川窪信世(のぶよ)/信種(のぶたね)【1603-1664】
祖父 信実・父 信俊→武田信実~川窪信雄の系図
祖父 正親町三条公仲→正親町三条公兄~公仲の系図
子 信恒(のぶつね)【?-1658】
子の夫 佐々長政→佐々長政の系図
子の夫 石井利久→石井利久の系図
川窪信亮(のぶあきら)【1648-1709】
妻 原田種春の娘
妻の父 原田種春→原田種春の系図
夫 山田正重→山田正重の系図
子 信有・信近・孫 信安・信易→川窪信有~信軌・信近~信貞の系図
子 堀秀興〔養父:堀成知〕→堀秀興の系図
子 武田信常〔養父:武田信安〕→武田信安~信誼の系図
子の夫 大岡清相→大岡清相の系図
子の夫 福島国員→福島国員の系図
川窪信有~信軌・信近~信貞の系図
川窪信有(のぶあり)【?-1744】
祖父 信世・父 信亮→川窪信世・信亮の系図
祖父 原田種春→原田種春の系図
子 武田信敦〔養父:武田信精〕→川窪信次~武田信成・川窪信通~信明の系図
子 信昆〔養父:川窪信安〕
川窪信安(のぶやす)【1719-1760】
子の夫 高室政名→高室政名の系図
川窪信昆(のぶひで)【1734-1781】
実は川窪信有の子。
妻 岡田善富の娘
妻の父 岡田善富→岡田善富の系図
夫 堀内貞尚→堀内貞尚の系図
子 貞政(さだまさ)
実は石川攻(→石川攻の系図)の子。
子の夫 中山勝直→中山勝直の系図
子の夫 植木宣胤→植木宣胤の系図
川窪信軌(のぶのり)【1774-?】
妻 風祭古明の娘
妻の父 風祭古明→風祭古明の系図
川窪信近(のぶちか)【1689-1725】
川窪信易(のぶやす)【1721-1785】
川窪信貞(のぶさだ)【1751-?】
実は鵜殿長一(→鵜殿長一の系図)の子。
妻 竹田政量の娘
妻の父 竹田政量→竹田政量の系図
子 信貞の娘
実は鵜殿長衡(→鵜殿長衡の系図)の娘。
川窪信次~武田信成・川窪信通~信明の系図
川窪信次(のぶつぐ)【1624-1672】
祖父 信実・父 信俊→武田信実~川窪信雄の系図
祖父 正親町三条公仲→正親町三条公兄~公仲の系図
妻 座光寺為重の娘
妻の父 座光寺為重→座光寺為重の系図
武田奉信(たかのぶ)【1651-1716】
子 信精〔養父:武田信全〕
武田信全(のぶよし)【1675-1726】
武田信精(のぶきよ)【1694-1753】
実は武田奉信の子。
妻 島田政信の娘
妻の父 島田政信→島田政信の系図
武田信敦(のぶあつ)【1725-1781】
実は川窪信有(→川窪信有~信軌・信近~信貞の系図)の子。
妻 石丸有親の娘
妻の父 石丸有親→石丸有親の系図
子の夫 長谷川忠貞→長谷川忠貞の系図
子の夫 夏目吉真→夏目吉真の系図
武田信至(のぶたね)【1758-1791】
実は広戸正状(→広戸正状の系図)の子。
子の夫 長谷川忠清→長谷川忠清の系図
武田信成(のぶなり)【1781-?】
川窪信通(のぶみち)
川窪信良(のぶよし)
川窪信明(のぶあきら)【1676-1753】
実は鮎沢伊大夫の子。
子 池田平八郎〔養父:池田長秀〕→池田平八郎の系図
子の夫 堀内安定→堀内安定の系図
子の夫 田中理以→田中理以の系図
子の夫 曽根亮良→曽根亮良の系図
川窪信博(のぶひろ)【1725-1785】
妻 森川好充の娘
妻の父 森川好充→森川好充の系図
妻 大屋正真の娘
実は津軽常雄(→津軽常雄の系図)の娘。
妻の父 大屋正真→大屋正真の系図
川窪信明(のぶはる)【1762-?】
武田晴信・勝頼・海野信親~武田崇信の系図
武田晴信(はるのぶ)/信玄(しんげん)【1521-1573】
甲斐国や駿河国などに支配を拡げ、上杉謙信とは川中島で幾度と戦った。北条氏と和議を結び、三方原の戦いで徳川家康を破ったが、間もなく病死した。
祖父 信縄・父 信虎→武田信縄・信虎の系図
祖父 大井信達→大井信達の系図
妻 三条公頼の娘
妻の父 三条公頼→三条実香~公広の系図
子 義信(よしのぶ)【1538-1567】
父と不和になり、謀反の嫌疑をかけられて投獄された後、自害した。
子の妻 今川義元の娘
子の妻の父 今川義元→今川範忠~義元の系図
妻 諏訪頼重の娘【?-1555】
父が晴信に攻められて切腹した後に側室となった。
妻 油川守信の娘
子 仁科盛信(もりのぶ)【?-1582】
信濃高遠城を守ったが、織田軍に攻められて戦死した。
子 晴信の娘【?-1616】
織田信忠に嫁ぐ予定であった。
子の夫 上杉景勝→上杉景勝の系図
子 氏秀
実は北条氏康(→北条氏康の系図)の子。
子 葛山義久/信貞/信員【?-1582】
義久孫 義樹【1678-1749】
子 晴信の娘【?-1558】
子 晴信の娘【?-1608】
子の夫 北条氏政→北条氏政~氏盛の系図
子の夫 木曽義昌→木曽家道~義徳の系図
子の夫 穴山信君→武田信重~信昌の系図
子の夫 伊丹宗重(『寛政重修諸家譜』による。)
武田勝頼(かつより)【1546-1582】
家督を継いだが長篠の戦いで大敗し、最後は天目山で一族とともに自害した。
妻 織田信長の娘
実は苗木勘太郎の娘。
妻の父 織田信長→織田信長の系図
子 信勝(のぶかつ)【1567-1582】
妻 北条氏康の娘【1564-1582】
妻の父 北条氏康→北条氏康の系図
子 勝親/勝近【1580-1682】
子 勝親の息子【?-1583】
子の夫 宮原義久→宮原義久の系図
海野信親(のぶちか)/竜芳/信高【1541-1582】
武田信道【1574-1643】
伊豆大島に流され、同地で殺された。
武田信正【1600-1684】
伊豆大島に流されたが後に赦された。
武田信興(のぶおき)/信冬(のぶふゆ)【1672-1738】(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
妻 大久保忠鎮の娘
妻の父 大久保忠鎮→大久保忠鎮の系図
武田信安(のぶやす)【1707-1788】
『系図纂要』によれば父は武田信用。
妻 梶川頼照の娘
妻の父 梶川頼照→梶川頼照の系図
子 信用(のぶもち)【?-1752】
『系図纂要』によれば父は武田信興。
武田信明(のぶはる)【1753-1788】
実は柳沢信鴻(→柳沢信鴻の系図)の子。
妻 長沢資倍の娘
妻の父 長沢資倍→長沢資倍の系図
武田護信(もりのぶ)【1779-?】
妻 青木信周の娘
妻の父 青木信周→柳沢吉里の系図
武田信典(以下、『系図纂要』による。)
実は松平頼亮(→松平頼寛~頼之の系図)の子。
武田信之
実は柳沢保光(→柳沢保光~保申の系図)の子。
子 柳生俊順〔養父:柳生俊能〕→柳生俊方~俊郎の系図
子 柳生俊郎〔養父:柳生俊順〕→柳生俊方~俊郎の系図
子 柳沢光邦〔養父:柳沢光昭〕→柳沢経隆~光邦の系図
子の夫 内田正徳→内田正親~正学の系図
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。