このページでは、平賀氏(清和源氏・義光流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
平賀氏の略系図
1 盛義→平賀盛義の系図
2 義信→平賀義信の系図
3 惟義→大内惟義~秀治の系図
平賀盛義の系図
平賀盛義
子 義信→平賀義信の系図
孫 大内惟義→大内惟義~秀治の系図
子 義澄〔養父:新田義重(→新田義重の系図)〕
子 犬甘敦義
父は佐々毛安義とも。
子 覚義【?-1203】
父は源義光(→源義光の系図)とも。
孫 敦義
父は平賀盛義とも。
有義孫 資成(以下、『系図纂要』による。)
平賀義信の系図
平賀義信(よしのぶ)/義遠/義延〔養父:義宗〕
平治の乱では源義朝に最後まで従った。頼朝の挙兵にも応じ、頼朝の推挙で武蔵守になった。
子 大内惟義・孫 惟信→大内惟義~秀治の系図
子 朝雅(ともまさ)【?-1205】
畠山重保との不和を牧の方に訴え、畠山重忠が討たれるきっかけを作った。その後、牧の方により、将軍への擁立を計画されたが、露見して討たれた。
子の妻 北条時政の娘
子の妻の父 北条時政→北条時家~時政の系図
子の夫 藤原国通→藤原泰通の系図
曾孫 朝村
曾孫の妻 安達時景の娘
曾孫の妻の父 安達時景→安達時景の系図
孫の夫 花山院通雅→花山院通雅~長定の系図
朝信孫 義泰【?-1344】
大内惟義~秀治の系図
大内惟義(これよし)
父は源光家(→源義広・為朝・行家・為家の系図)とも。一の谷の戦いで源義経に従い、伊賀守護となった。後に源頼朝の推挙で相模守になった。
妻 藤原秀忠の娘
妻の父 藤原秀忠→藤原秀忠の系図
子の夫 四条隆綱→藤原隆衡の系図
孫 惟基〔養父:大内惟信〕
大内惟信(これのぶ)
鎌倉幕府の御家人であったが、承久の乱では京方として参戦し、配流された。
子 惟基
実は大内家信の子。
大内信治
子 西郷信胤(『系図纂要』による。)→西郷信胤の系図
大内氏治(以下、『系図纂要』による。)
大内仲治
子 和治(『竹内家譜』による。)
大内豊治
従三位。
子 幸治(以下、『竹内家譜』による。)
大内基治【1453-?】
大内秀治【1496-1549】
子 竹内季治→竹内季治の系図
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。