本多氏(藤原氏北家・兼通流)の系図

系図のメモ帳
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 このページでは、本多氏(藤原氏北家・兼通流)の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。

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本多氏(三河国岡崎藩主)の略系図

本多氏の略系図

1 顕忠藤原顕忠~本多忠高の系図
20 忠勝本多忠勝・忠朝~勝行の系図
21 忠政本多忠政の系図
22 政朝本多政朝~忠孝の系図
27 忠良本多忠良~忠粛の系図
31 忠典本多忠典~忠直の系図

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藤原顕忠~本多忠高の系図

藤原顕忠~本多忠高の系図

  藤原顕忠(あきただ)

祖父 兼通藤原兼通の系図
 顕光藤原顕光の系図


  藤原兼家(かねいえ)


  藤原兼助(かねすけ)


  藤原光助(みつすけ)


  藤原助俊(すけとし)
 俊通(『寛政重修諸家譜』による。)
 助忠(以下、『寛政重修諸家譜』による。)


  藤原助清(すけきよ)


  藤原清家(きよいえ)


  藤原家満(いえみつ)


  藤原光秀(みつひで)


  本多助秀(すけひで)
 豊後国本多に住んだ。


  本多助定(すけさだ)(以下、『系図纂要』による。)


  本多助政(すけまさ)
 定吉曾孫 正明本多定吉~正貫の系図
 正吉曾孫 正経本多正吉~忠利の系図


  本多定通(さだみち)


  本多定忠(さだただ)


  本多定助(さだすけ)
 正時 正助本多正時~忠次の系図


  本多助時(すけとき)


  本多助豊(すけとよ)


  本多忠豊(ただとよ)【?-1545】
 忠真(たださね)【?-1572】


  本多忠高(ただたか)【1528-1549】
 植村氏義の娘
妻の父 植村氏義土岐光兼~植村家政の系図
 忠勝 忠朝本多忠勝・忠朝~勝行の系図
 忠政本多忠政の系図

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本多忠勝・忠朝~勝行の系図

本多忠勝・忠朝~勝行の系図

  本多忠勝(ただかつ)【1548-1610】
 上総国大多喜藩主・伊勢国桑名藩主。幼少期から徳川家康に仕え、徳川四天王と称された。50回以上戦いに出たが、一度も傷を受けなかったという。

祖父 忠豊 忠高藤原顕忠~本多忠高の系図
祖父 植村氏義土岐光兼~植村家政の系図

 忠政本多忠政の系図
 忠義本多忠義・忠以の系図

 小松→真田信之の系図
子の夫 奥平家昌→奥平家昌の系図


  本多忠朝(ただとも)【1582-1615】
 大多喜藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。大坂夏の陣で戦死した。
 一柳直盛の娘
妻の父 一柳直盛→一柳直盛の系図
子の夫 本多政朝本多政朝~忠孝の系図

 吉子黒田長政~光之・高政~長寛の系図


  本多政勝〔養父:本多政朝〕→本多政朝~忠孝の系図
 後に本家の家督を継いだ。


  本多勝行(かつゆき)【1635-1650】
 父の部屋住み領であった4万石を与えられた。

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本多忠政の系図

本多忠政の系図

  本多忠政(ただまさ)【1575-1631】
 桑名藩主・播磨国姫路藩主。関ヶ原の戦いでは上田城を攻めた。姫路移封後は、姫路城を修築した。

祖父 忠高藤原顕忠~本多忠高の系図
 忠勝本多忠勝・忠朝~勝行の系図

 松平国姫
 松平信康(→松平信康・忠吉・武田信吉・松平忠輝の系図)の娘。
 忠刻(ただとき)/忠為(ただため)【1596-1626】
 父から10万石を与えられた。
子の妻 徳川千姫(せんひめ)【1597-1666】
 徳川秀忠(→徳川秀忠の系図)の娘。
子の妻の夫 豊臣秀頼→豊臣秀頼の系図
 勝姫池田光政の系図
曾孫 池田綱政池田綱政の系図

 政朝 政勝本多政朝~忠孝の系図
 忠義 忠以本多忠義・忠以の系図
 忠平本多忠平~忠烈の系図
 忠利本多忠利~忠慎の系図
 忠周本多忠周~忠曄の系図

 国姫→堀忠俊・有馬直純の系図
子の夫 小笠原忠脩小笠原忠脩・長次の系図
子の夫 小笠原忠真小笠原忠真の系図

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本多政朝~忠孝の系図

本多政朝~忠孝の系図

  本多政朝(まさとも)/忠氏(ただうじ)/忠郷(たださと)【1599-1638】
 大多喜藩主・播磨国竜野藩主・姫路藩主。

祖父 忠勝本多忠勝・忠朝~勝行の系図
 忠政本多忠政の系図
祖父 松平信康松平信康・忠吉・武田信吉・松平忠輝の系図

 本多忠朝の娘
妻の父 本多忠朝本多忠勝・忠朝~勝行の系図

 政長〔養父:本多政勝〕
 政信〔養父:本多政勝〕→本多政信~忠尭の系図


  本多政勝(まさかつ)【1614-1671】
 姫路藩主・大和国郡山藩主。実は本多忠朝(→本多忠勝・忠朝~勝行の系図)の子。死後、九六騒動と呼ばれる相続争いが起きた。
 有馬直純の娘【?-1645】
妻の父 有馬直純有馬直純の系図
 勝行本多忠勝・忠朝~勝行の系図
 政利(まさとし)【1641-1707】
 播磨国明石藩主・陸奥国大久保藩主。苛政を行い、最終的に所領を没収された。
子の妻 徳川振子【1633-1667】
 徳川頼房(→徳川頼房の系図)の娘。

 政定(まささだ)/政真/政光【1679-1695】
孫の夫 福原資倍→福原資倍の系図
孫の夫 本多忠良本多忠良~忠粛の系図

 政信 忠英本多政信~忠尭の系図
 忠英〔養父:本多政信〕→本多政信~忠尭の系図


  本多政長(まさなが)【1633-1679】
 郡山藩主。実は本多政朝の子。
 山内忠豊の娘【1632-1679】
妻の父 山内忠豊→山内忠豊の系図

 政長の娘(『寛政重修諸家譜』による。)
 本多忠国に嫁ぐ予定であった。


  本多忠国(ただくに)【1666-1704】
 郡山藩主・陸奥国福島藩主・姫路藩主。実は松平頼元(→松平頼元・頼貞の系図)の子。
 池田綱政の娘
妻の父 池田綱政池田綱政の系図

 忠国の息子(『寛政重修諸家譜』による。)


  本多忠孝(ただたか)【1698-1709】
 姫路藩主・越後国村上藩主。
 忠良 忠敞本多忠良~忠粛の系図

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本多忠良~忠粛の系図

本多忠良~忠粛の系図

  本多忠良(ただよし)【1690-1751】
 老中・三河国刈谷藩主・下総国古河藩主。実は本多忠英(→本多政信~忠尭の系図)の子。

祖父 忠国 忠孝本多政朝~忠孝の系図

 本多政利の娘
妻の父 本多政利本多政朝~忠孝の系図

 忠亮(ただあきら)【1729-1752】
 忠亮の息子 忠亮の娘(『本多家譜(三河岡崎)』による。)

 忠寛(ただひろ)【1749-1811】
 松平信寅〔養父:松平信志〕→松平信重~信寅の系図
孫の夫 能勢頼善→能勢頼善の系図

子の夫 水野忠辰水野忠春~忠任の系図


  本多忠敞(ただひさ)【1727-1759】
 古河藩主・石見国浜田藩主。
 牧野貞通の娘
妻の父 牧野貞通→牧野貞通の系図

 忠粛〔養父:本多忠盈〕
子の夫 植村家久植村家道~家壺の系図
子の夫 三浦前次三浦矩次~毗次の系図


  本多忠盈(ただみつ)/忠休(ただやす)【1732-1767】
 浜田藩主。実は真田信弘(→真田信弘の系図)の子。
 忠典〔養父:本多忠粛〕→本多忠典~忠直の系図


  本多忠粛(ただとし)/忠丘【1759-1777】
 浜田藩主・三河国岡崎藩主。実は本多忠敞の子。
 牧野貞長の娘
妻の父 牧野貞長→牧野貞長の系図
 秋元永朝→秋元永朝の系図

 忠典 忠顕本多忠典~忠直の系図

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本多忠典~忠直の系図

本多忠典~忠直の系図

  本多忠典(ただつね)【1764-1790】
 岡崎藩主。実は本多忠盈(→本多忠良~忠粛の系図)の子。

祖父 忠盈 忠粛本多忠良~忠粛の系図

 秋元永朝の娘
妻の父 秋元永朝→秋元永朝の系図
 毛利広鎮毛利広寛~元蕃の系図


  本多忠顕(ただあき)【1776-1838】
 岡崎藩主。実は松平頼謙(→松平頼謙~頼英の系図)の子。
 酒井忠順の娘
妻の父 酒井忠順酒井忠寄・忠温の系図
 篤之助【?-1811】
 母は『寛政重修諸家譜』による。
 重松
 母は『寛政重修諸家譜』による。
子の夫 本多忠敬本多忠可~忠明の系図
子の夫 井上正盧→井上正盧の系図
子の夫 畠山義宣→畠山義宣の系図
子の夫 阿部正暠→阿部正暠の系図
子の夫 丹羽氏賢→丹羽氏賢の系図


  本多忠考(ただなか)/忠祥【1805-1879】
 岡崎藩主。
 堀田幸
 堀田正時(→堀田正時の系図)の娘。
 歌橋氏
 水野忠誠〔養父:水野忠寛〕→水野忠穀~忠敬の系図

 敬二郎【?-1832】
 達恵〔養父:本誓寺〕
 稲垣太清〔養父:稲垣太篤〕→稲垣太清の系図
 忠胤(以下、『本多家譜(三河岡崎)』による。)
 忠考の息子 忠考の娘(4人)(『本多家譜(三河岡崎)』による。)
子の夫 松平勝行→松平勝行の系図
子の夫 秋元志朝→秋元志朝の系図


  本多忠民(ただもと)【1817-1883】(以下、『本多家譜(三河岡崎)』による。)
 老中・岡崎藩主。実は松平頼儀(→松平頼真~頼儀の系図)の子。
 忠肇【1846-1865】
 実は本多忠鄰(→本多忠可~忠明の系図)の子。


  本多忠直(ただなお)【1844-1880】
 岡崎藩主。実は牧野康哉(→牧野康哉の系図)の子。

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系図について

 本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
 あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。

 系図はおおよそ次の方針で作成しています。

  • 系図に描画する人物の範囲について
     上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
     下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。
  • 人物の表示の区別について
     系図では、次の通り背景色を区別しています。
     (オレンジ)……天皇
     (緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
     (黄)……江戸時代の将軍・藩主
     (水色)……その他男性
     (ピンク)……その他女性
  • 養子・猶子について
     両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
     養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
     一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
     なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。
  • 正室・側室等について
     これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。
  • 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
     『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。
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