このページでは、藤井松平家(清和源氏・義国流)・忠晴流の系図を掲載しています。系図は、直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
藤井松平家・忠晴流(信濃国上田藩主)の略系図
1 忠晴→松平忠晴・忠昭の系図
3 忠周→松平忠周・忠容~忠明の系図
4 忠愛→松平忠愛の系図
5 忠順→松平忠順~忠礼の系図
松平忠晴・忠昭の系図
松平忠晴(ただはる)【1598-1669】
駿河国田中藩主・遠江国掛川藩主・丹波国亀山藩主。
祖父 信一・父 信吉→松平利長~信吉の系図
妻 杉原長房の娘
妻の父 杉原長房→杉原長房の系図
子 忠俊(ただとし)【?-1645】
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 木村氏
子 忠周〔養父:松平忠昭〕→松平忠周・忠容~忠明の系図
子 忠栄→松平忠国の系図
実は松平忠国の子。
松平忠昭(ただあき)【1644-1683】
亀山藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 松平忠国の娘
妻の父 松平忠国→松平忠国の系図
子 忠周・孫 忠容→松平忠周・忠容~忠明の系図
孫 忠愛→松平忠愛の系図
子 忠隆(ただたか)〔養父:松平信周(→松平信重~信寅の系図)〕
孫 信将〔養父:松平長恒〕→松平信之~信将の系図
孫の夫 四辻公亨→四辻公韶~公賀の系図
孫の夫 戸川安聡→戸川安聡の系図
子の夫 広橋兼廉→広橋兼廉~勝胤の系図
松平忠周・忠容~忠明の系図
松平忠周(ただちか)/忠易(ただやす)/忠徳(ただのり)/忠栄(ただよし)【1661-1728】
老中・亀山藩主・武蔵国岩槻藩主・但馬国出石藩主・信濃国上田藩主。実は松平忠晴(→松平忠晴・忠昭の系図)の子。
祖父 忠晴・父 忠昭→松平忠晴・忠昭の系図
妻 松平定時の娘
実は松平定経(→松平定房・定時の系図)の娘。
妻の父 松平定時→松平定房・定時の系図
妻 米倉昌明の娘
妻の父 米倉昌明→米倉昌明~里矩の系図
子 忠愛→松平忠愛の系図
孫 忠順→松平忠順~忠礼の系図
妻 長沢氏
子 藤井忠陣
母は『寛政重修諸家譜』による。
孫の夫 向坂政興→向坂政興の系図
子 住恵〔養父:寂恵〕
子 忠周の娘
実は長田房重(→長田勝吉~房重の系図)の娘。
子 忠周の娘
実は本多忠能(→本多忠相~忠敞の系図)の娘。
子 忠周の娘
実は天野清行(→天野清行の系図)の娘。
子 忠周の娘
実は広橋兼廉(→広橋兼廉~勝胤の系図)の娘。
子の夫 広橋兼頼→広橋兼廉~勝胤の系図
子の夫 戸川安聡→戸川安聡の系図
松平忠容(ただやす)【1722-1781】(以下、『寛政重修諸家譜』による。)
松平忠常(ただつね)【1747-1798】
妻 大島義里の娘
妻の父 大島義里→大島義里の系図
松平忠明(ただあきら)【1765-?】
実は中川久貞(→中川久貞~久成の系図)の子。
子 忠徳(ただのり)
子の妻 松平忠済の娘
子の妻の父 松平忠済→松平忠順~忠礼の系図
孫 忠徳の娘〔養父:松平忠学〕→松平忠順~忠礼の系図
子 忠学〔養父:松平忠済〕→松平忠順~忠礼の系図
松平忠愛の系図
松平忠愛(ただざね)/忠殷(ただしげ)/忠弘(ただひろ)【1701-1758】
上田藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。
祖父 忠昭→松平忠晴・忠昭の系図
父 忠周→松平忠周・忠容~忠明の系図
祖父 米倉昌明→米倉昌明~里矩の系図
妻 松浦氏
子 忠順・孫 忠済→松平忠順~忠礼の系図
妻 井越氏
子 忠愛の娘
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 百田氏
子の夫 板倉勝暁→板倉勝暁~勝殷の系図
妻 寺島氏
子 熊之丞
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 忍場氏
子 亀次郎〔養父:津田永英〕
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 藤井忠成・千之助
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 忠愛の娘
母は『寛政重修諸家譜』による。木村盛祥に嫁いだ。
子の夫 竹屋光予→竹屋兼俊~光昭の系図
妻 植村氏
子 信交〔養父:松平信敏〕→松平信重~信寅の系図
子 忠愛の娘
母は『寛政重修諸家譜』による。久松定相に嫁いだ。
子の夫 向坂政興→向坂政興の系図
妻 成瀬氏
子 藤井磯次郎・子 忠愛の娘
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 大塚氏
子 忠愛の娘
母は『寛政重修諸家譜』による。木村盛祥に嫁いだ。
子 信敏〔養父:松平信成〕→松平信重~信寅の系図
子 忠愛の娘〔養父:広橋勝胤(→広橋兼廉~勝胤の系図)〕
松平忠順~忠礼の系図
松平忠順(ただより)【1726-1783】
上田藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。
祖父 忠周→松平忠周・忠容~忠明の系図
父 忠愛→松平忠愛の系図
妻 井伊直定の娘
実は井伊直惟(→井伊直惟・直定の系図)の娘。
妻の父 井伊直定→井伊直惟・直定の系図
妻 波多氏
子 為三郎〔養父:津田永貞〕
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 忠順の娘
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 森田氏
子 鉄五郎
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 忠順の娘
母は『寛政重修諸家譜』による。戸田忠翰に嫁ぐ予定であった。
妻 八木氏
子 八十吉
母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 手塚氏
子の夫 戸田忠翰→戸田忠寛~忠友・忠舜~忠綱の系図
妻 加藤氏
子 池田輝名〔養父:池田喜生〕→池田政森~徳潤の系図
松平忠済(ただまさ)【1751-1828】
上田藩主。母は『寛政重修諸家譜』による。
妻 松平武元の娘
妻の父 松平武元→松平武元~武聡の系図
妻 木村氏
子 忠英【1790-1810】
子の夫 相馬樹胤→相馬樹胤の系図
子の夫 松平忠徳→松平忠周・忠容~忠明の系図
妻 小林氏
子の夫 永井尚監→永井直右~尚監の系図
妻 磯氏
子の夫 柳生俊睦→柳生俊方~俊郎の系図
妻 吉野氏
子 虎松
母は『寛政重修諸家譜』による。
子 忠和〔養父:松平忠学〕
子 忠済の息子(『華族系譜』による。)
子の夫 丹羽氏昭→丹羽氏福~氏中の系図
子の夫 岡部長慎→岡部長慎~長職の系図
松平忠学(たださと)【1788-1851】
上田藩主。実は松平忠明(→松平忠周・忠容~忠明の系図)の子。藩校明倫堂を設立した。
子 忠和【1791-1814】
実は松平忠済の子。
子 忠学の息子・子 忠学の娘(『華族系譜』による。)
子の夫 井上正春→井上正定~正直の系図
松平忠固(ただかた)/忠優(ただます)【1812-1859】(以下、『華族系譜』による。)
老中・上田藩主。実は酒井忠実(→酒井忠実の系図)の子。日米修好通商条約の締結に携わった。
妻 松平忠学の娘
実は松平忠徳(→松平忠周・忠容~忠明の系図)の娘。
子 忠厚【?-1888】〔養父:松平忠行〕
子 忠直〔養父:土井利教(→土井利徳~利教の系図)〕
子 忠孝【?-1875】
子 忠固の娘
実は酒井忠儻の娘。最上義偆に嫁いだ。
子の夫 戸沢正実→戸沢正親~正実の系図
子の夫 堀直虎→堀直皓~直明の系図
松平忠礼(ただなり)【1850-1895】
上田藩主。
妻 太田資始の娘
妻の父 太田資始→太田資言~資美の系図
妻 山内豊
山内豊福(→山内豊福の系図)の娘。
系図について
本サイトの系図は、『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースで公開されている家譜及び宮内庁のホームページの書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで公開されている華族系譜を参照し、各種辞典類等も参考にして作成しています。
あくまで『尊卑分脈』等に参考に作成した結果に過ぎませんので、本サイトに掲げた系図が正しいと主張するものではありません。
系図はおおよそ次の方針で作成しています。
- 系図に描画する人物の範囲について
上記のとおり、系図は直系2親等・配偶者・姻族1親等の人物を目安に作成しています。
下限は『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』に掲載された最後の世代を基本としています。 - 人物の表示の区別について
系図では、次の通り背景色を区別しています。
(オレンジ)……天皇
(緑)……『公卿補任』に掲載される大宝元年3月21日以降の公卿
(黄)……江戸時代の将軍・藩主
(水色)……その他男性
(ピンク)……その他女性 - 養子・猶子について
両者を厳格に区別して表記するには力が全く及びませんので、一律「養子」「養父」「養母」と表記しています。
養子は、『尊卑分脈』等で線で繋がれて養子となる人物が表記されている場合、系図にも表示し、二重線で繋いでいます。
一方、『尊卑分脈』等で養子関係が人物の傍らに付記されている場合は、系図内には表示しませんでしたが、別途注記しています。
なお、正室以外との間の子が正室の養子となった場合、系図では実父母との関係のみを表示しています。 - 正室・側室等について
これらを厳格に区別して表記することも、力が及びませんので、「妻」「夫」と表記しています。 - 『尊卑分脈』を基本とした範囲について
『尊卑分脈』に掲載された氏族は、まずは『尊卑分脈』を基本に系図を作成し、それに拠らない部分との境界となる親子関係は赤線で表示しています。